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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

心の探求 -心の段階- 1  

心の探求128-184


私たちの心には段階があり、それによって死後どの世界に還るかが決まります。
この地上での私たちの目的は、心の段階を高めることかもしれません。

今回は、その心の段階について紹介させていただきたいと思います。


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心の諸段階

第8章は、心の段階ということで説明を続けて行きたいと思います。

古来、仏教では、人間の心に段階があるということを、ひじょうに詳しく説いています。

仏の教えを聴くものにも、如来あり、菩薩あり、阿羅漢あり、あるいは、縁覚、声聞
こういう数限りない段階があるということが明らかにされています。

実際、この地上界を去ったあの世の世界、
すなわち、四次元以降の世界においては、さまざまな段階があります。

いま私たちはこれを大きく四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元、
そして十次元以降の世界というふうに分けておりますけれども、
それぞれの世界のなかでもまた微妙な段階というのがあります。

地上に住んでいる人間、三次元に住んでいる人間ですけれども、
この三次元のなかにも段階があるということは、なかなか理解しがたい。

上を見上げれば空があり、空から地面までの間に幾層にも高級アパートがあるわけではないから、
つまり、高層アパートがあって住み分けをしているわけでないから、
この世にも段階があるということはわからないのであるけれども、
四次元以降の世界というのは、こういう物質の世界ではない。

物質の世界ではなくて波動の世界であり、波長の世界であり、エネルギーの世界であるから、
そのエネルギーを区分する段階というのは、いくらでも作れるのです。

地上の人間が住んでいるように、床があったりするわけではないのです。

一階、二階、三階という床があって、区分されているのではなくて、
エネルギーの波長によって段階が分かれているということです。

そういうふうになっているわけです。

ただそれを、人間的に翻訳していくならば、四次元でも何層にも分かれているし、
五次元でも、何層にも分かれている。

こういうふうになるわけで、上段階、中段階、下段階、というようなことを私たちはよくいっておりますけれども、
これは決してそういうふうに仕切られたものがあるのではなくて、

心の波長に差があるというふうに考えていいわけです。

こうした境涯に区別があるということを、なかなか人間は理解できないけれども、
これをもう少しわかりやすく説明していきたいと思います。





category: 心の段階

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大天使ミカエルの降臨2 -愛とは思いやりの心- 2  

大天使ミカエルの降臨2 128-187



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二つのたとえ話をいたしましたが、鶴にしても我利我利亡者にしても、
どちらも欲が深いがために決して幸せになれなかった例であろうと思います。

この二つの話を聞いて、バカバカしいとお思いになる方は数多くおられることでしょう。

しかし私が見ていて、似たようなことは人間の間にも、あちらにもこちらにもあるのです。

おたがいに助け合うことができたら、どうにかすることができたのに、
どうしてそれをしなかったのか。

おたがいに長いくちばしで助け合ったら食べることができたものを、
おたがいに長い箸で料理を食べさせ合うことができたら、
その昧を心ゆくまで堪能することができたのに、

自分が食べることしか考えていないがために苦しんでいる多くの人たち。
その姿はあちらにもこちらにもあるように思います。

私はこうした人たちに、まず「愛とは他人を思いやる心である」ということを言っておきたいと思います。

なぜ、それが愛の根源にある考え方であるか、あなたがたはおわかりでしょうか。

この考え方が愛の根源にある理由は、神ご自身が、そういう行為をなさっているからです。

神ご自身は、この宇宙に満ちている万生万物を在らしめることに全精力を注いでおられるのです。

すべての生きものが在るということ、存在するということは、神の愛の思いゆえなのです。

それは、かならずしも彼らを生かしていることが、自分のみかえりになるというわけではないのです。
ただ与えている

それはそうです。地上の人間、動物、植物、川の中の生きもの、土の中の生きもの、
いろんなものをすべて神は養っておられます。

しかし彼らが存在することが、どれほどの自分の対価になるのか、そうしたことを考えているとは思えないのです。

神はただ、万生万物が楽しそうに生きているのを見て喜んでおられる。
そういうふうに私は感じられるのです。

それゆえに愛の根拠が、ここにあるように思います。

与えることに喜びを感ずること、人に喜んでもらえることに喜びを感ずること、
ここにどうやら愛の典型的な姿があるように思います。

多くの人びとは、たとえば地位の争いのためにしのぎをけずっていることもあるでしょう。

そういう時にも、どうか自分が欲深い、利己主義の鶴になっていないかどうか、
欲深い地獄の亡者になっていないかどうかを、よく考えることです。

他の人に自分が愛を与えたことによって、その人が生き返り、喜びに満ちることができるならば、
それは素晴らしいことではないでしょうか。

そうしておたがいに愛を与え合うことによって生き残っていくことができるなら、
これもまた素晴らしいことではないでしょうか。

私はこのように思うのです。

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category: 愛とは思いやりの心

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大天使ミカエルの降臨2 -愛とは思いやりの心- 1  

大天使ミカエルの降臨2 128-187



現在、私たちの世界ではこの思いやりの心がうすれているように思います。
世界中の人たちが、思いやりの心で生きたなら、この地上は天国になるかもしれません。
そして、この世を去ったあの世の天国は、この思いやりの世界なのだと思います。

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愛とは思いやりの心

ここに一つの寓話を語っておきましょう。これは哀れな鶴の話です。

鶴には羽が生えております。しかし手がありません。
あるとき二羽の鶴が大空から舞い降りて、浜辺に降りたちました。

この浜辺には、たいへんおいしそうな貝が散乱していました。
二羽の鶴はとてもお腹が空いていたので、その貝殻をこじあけて、
なんとかして食べたいものだと思いました。

その貝はまだ生きていたので、鶴は、その貝殻をこじ開けて中の身を食べる必要がありました。

しかし、どうしてもこの作業がうまくいかないのです。

長いくちばしを差しこんで、そして貝殻をこじ開けるところまでいくのですが、
最後に、その貝の身をつまんで外に引き出すことが、どうしてもできないのです。

足で押さえてやってみようとするのですが、どうしてもバランスがうまくとれない。

足ではうまく貝殻をはさめなくて、そしてくちばしのみに頼るのですが、
そのくちばしが貝殻のすきまに割って入ったと思っても、
どうしても貝がツルッと滑って食べられないのです。

こうして二羽の鶴は、一日じゅう貝を食べようと努力していたけれども、
むなしく貝殻のまわりをくちばしでつつくだけで食べることができず、
ついに飢えて死んでしまったのでした。

このときに、この長いくちばしを持っている二羽の鶴が、おたがいに協力し合うことができたならば、
彼らは死ぬことがなかったと思えるのです。

一羽が貝殻にくちばしをつっこんで、その貝の口を開けたときに、もう一羽が、そのくちばしで、
その中の身を食べたら、貝はみごとに食べられてしまったはずです。

そうしておたがいに、そういうことをくり返せば、貝をあますところなく食べることができたと思えるのです。

ところが、自分が貝の殻をこじ開けて相手に食べさせるということを、
どうしても、その鶴たちは思いつかなかったのです。

そうして、おたがいに、自分一人が中の身を食べることばかりねらっていて、
とうとう食べることができなかったという話です。

仏教のほうでも、このこととひじょうに似たたとえ話がされていると、私は聞いたことがあります。

それは地獄で欲望を晴らせないでいる餓鬼地獄の霊たちの姿であると聞いています。
                                    
その地獄では食物に対する執着のひじょうに強い霊たちが、
いわゆる我利我利亡者たちが集まっていると言われています。

そしてその我利我利亡者たちが、食堂にいつも席をはって、
そして出される料理を食べようとするのだけれども、

彼らに渡される箸がひじょうに長いのだそうです。

長さが一メートルもあるような大著を渡され、
それでなければ食べてはいけないと言われているのです。

それゆえに、その筈でちからいっぱい食物をはさむことができても、
どうしても自分の口に持ってくることができず、

そうしておいしいご馳走を前にして、彼らは地団駄を踏んで悔しがるのだけれども、
とうとうそれを食べることができず、ますますひもじい思いをするという話です。

ここにも一つの教訓があって、その一メートルの大著であっても、
それで料理をつまんで自分の向かいの人に食べさせようとすれば、それは可能であったのですが、

だれもそういうことに気がつかないのです。
自分が食べることしか考えていないのです。

そして全員が飢え死にするような、そんなはめに追い込まれてゆくのです。

この地獄の責苦は、ある意味で愛に気づいたことがない人に、
その機会を与えている教育だとも言えましょうか。

おたがいに協力し合うということ、自分が食べたいという気持ちを押し殺して、
まず人に優先して食べさせようという気持ちを起こしたとき、

彼らは飢えから解放され、その愛の気持ちゆえに地獄から解放されてゆくのです。




category: 愛とは思いやりの心

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心の探求 -心の構造- 9  

心の探求128-184



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悟りについての平等観と差別観

ですからこの意味で、人間は平等観と差別観、両方持たねばいかんのです。

平等観としては、すべての人間が同じような竹の子であるということです。

何枚もの皮に包まれた存在であり、その中心部には、真我なる自分、
嘘、偽りのない自分、自分自身に嘘をつけない心。

こういう神の子としての自分が、その中心にあります。

けれども、差別観の面においては、それぞれの人間がやはり何枚目の皮を着ているかということは、
公平の観点からは違いがあるのです。

食べ頃の竹の子になっている人もいれば、ごわごわの皮を被っている人もいる。

こういうふうに、何層もの皮をまとっているということですね。
こういう違いがある。

ですから、悟りが進んでいる、あるいは修行が進んでいるという人は、
こういう皮が剥けた人であり、進んでいない人というのは、皮を被っている人なのですね。

こういうふうに考えればいいわけです。

このように、悟ってないとか、あるいは悪人でないとかいっても、その本当の意味は、
悪人という名の竹の子があったり、善人という名の竹の子があったりするわけではないのです。

悪人というのは結局、外に皮を被って、泥がいっぱいついている竹の子のようになっているのを悪人というのです。

いわば顔に泥がついていても、それで中身が汚れているかというと、そんなことは一切ないのです。
中身は中身できれいな竹の子があるのです。

ただ外に出ている部分は、破れたり、汚れたり、いろんなことをしているわけです。
ですから「本来悪人なし」というのはこのことをいいます。

また、「本来肉体なし」ということも、このことをいいます。

「本来病なし」というのも同じです。

肉体という名のゴワゴワした皮が外側に一枚あるだけだということです。
肉体人間が病気になるということは、つまり竹の子でいうと、皮の部分に傷がついたということです。

あるいはこれが一部破れたということです。これが病気ですね。

悪人というのもそうです。皮の部分に泥を被ったということです。
だから、この世に善人があるか、悪人があるかというけれども、善悪本来なしです。

本来は、そうした皮があるかないかの違いだけであり、これは、別な誓えでいえば、
目に鱗が入っている人と入っていない人との違いと同じです。

目の鱗が取れれば、みんな神の子。

しかし、目に鱗が入っていて、自分が悪をなしていることがわからない人が、この世の中にはいるということです。

したがって、これが本来悪なし、病気なし、ということの説明でもあるし、
人間が平等であって、また人間の心の世界に階層がある、あの世に次元の差があるという説明でもあるわけです。

結局人間は、竹の子のように何重にも重なった層として、心ができ上がっている。
そういう心の構造を持っているということです。

こういう認識から始めていった時に、初めて人間の本来の姿、これがわかるわけです。

ですから、医学者や心理学者たちは、この竹の子の皮ばかりを一生懸命勉強しているわけです。

皮のこの部分の繊維の筋のこの部分に神経があって、思考の中枢があるのではないかといっているのが、
医学者や心理学者です。本当のことを知らないわけです。

そういう誤解をとくためにも、こうした心の構造、心の仕組みが今後とも明らかにされていかねばならないのです。

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category: 心の構造

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心の探求 -心の構造- 8  

心の探求128-184



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竹の子の皮のたとえ

したがって、これを考えると、人間の心の構造というのが、逆によくわかるわけですね。

心というのはこういうふうに、竹の子のように何重にもでき上がっているということなのです。

ですから、竹の子のいちばん外の皮、荒々しい皮があるでしょう。

雨露から竹の子の中身を守って、そして土からも守っている、ごわごわした竹の子の皮があります。
昔風にいえば、日の丸弁当を包んだりする皮ですけれども、この皮が肉体です。

三次元の人間は、これにくるまって生活しているわけです。

ところが、四次元にいくと、この皮が一枚クルツと剥けます。
すなわちこれが、肉体の死です。そうすると、その内側の皮が出てきますね。
この姿で四次元では生括しているのです。

五次元へ上がっていくと、もう一回クルツと剥けます。
六次元へ行ったらさらに皮が剥けていきますね。そして段々芯が出てくるわけです。

結局、人間の心の構造というのを見ると、竹の子のようになっているのです。

したがって、すべての人間が、心の構造として、何重かの構造になっているわけです。
竹の子の構造のように。

同心円の話というのがありますけれども、同じ定点を定めて、同心円を何重にも描いていく。
こういうふうに心はできているのです。

いちばん外側の層が肉体であって、その内側が幽体。そして霊体。
こういうふうになっているわけですね。

ですから、すべての人間が神の子であり、本来神の子であり、平等であるというのは、
実は心のなかにおいて、こうした構造を持っているというわけです。

そういうふうに心の構造は、三次元の肉体の内側に四次元層、五次元層、六次元層、
七次元層、八次元層、九次元層、こう持っていて、その中核の部分、つまり、芯の部分が十次元、
ここにつながっているのです。こういうふうな何層もの構造になっているのです。

したがって、地上に降りている光の指導霊というのは、どういう方かというと、
光の指導霊で悟った方というのは、たとえば竹の子でいうと、皮が三枚剥けた部分が出ている人。

あるいは竹の子のいちばんいい芯の部分が出ている人。こういうふうになっている人のことですね。

このように、食べごろの竹の子が出ていれば、山の中を歩いていても、人間はひじょうに便利なわけです。
そこに食べごろの竹の子があるから、それをポキッと折って竹の子の刺身を作って食べることもできるわけです。

ところが、皮を被っているから、普通は食べられない。

こういうふうな違いがあるわけで、本来同じ竹の子なんだけれども、
もうすでに皮が剥けている人がいるということですね。

これがこの世的な垢や塵を落として悟った人ということです。一皮剥けているわけです。

肉体という包みを取り去って、霊的に目覚めた人ですね。

本来、土のなかで竹の子が芽を作っている時には、本当は軟らかい竹の子なんだけれども、
地上に出てくる時には、ああいうふうな皮を巻いて出てくるわけです。

自分を守るために、同じように地上に人間が生まれてくる時に、本来の心の構造だけでは柔だから、
それを守るための外壁として、肉体というのをつけて出てくるわけです。





category: 心の構造

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