神霊界入門 -焦熱地獄- 
2017/08/20 Sun. 14:46

それでは、本日は第五番目の地獄を紹介いたします。
以下がその本文です。
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焦熱地獄
さて、では今夜は、第五番目の地獄、焦熱地獄にご案内いたしましょう。
読んで字のごとく、この地獄ではたいへんな高熱の人びとの肉体(と思われているもの)が焼けただれています。
水を求めて、ゆらゆらと陽炎の立ち昇る砂漠を、腰に布一枚を巻いただけで、
やせて骨だらけになった男女が彷徨っています。
この地獄を特色づけているものは、「渇望」という言葉です。
人びとに布施することを忘れて貪欲にむさぼり、
求めることばかり考えて人生を送ってきた人びとの末路なのです。
物欲が強く、つねに不足と不満ばかりを心に思って生きてきた人びとです。
そうした人びとの心が、熱風の吹きつける灼熱の砂漠という心的風景をつくり出しているのです。
実在界という世界は、己の心に嘘のつけない世界です。
すなわち、その人の容貌も、その人を取り巻く環境も、その人の心の真実の姿を正確に反映してしまうのです。
心のなかで邪悪なことを考えつつ、正直者の群れにいることはできないのです。
地上の世界では、羊の群れのなかに狼が忍び込むことはよくあることですが、
実在界においては、心清き人びとの集団に、心悪しき人びとは入ることができないのです。
それというのも、こちらの世界では、お互いの心のなかはまるでガラス張りで、
嘘いつわりがいっさい効かないからなのです。
ですから、よく宗教家たちは、反省の大切さを説きますが、反省が大切なのは、
そのことによって、自分の心のくもりを発見し、取り除くことができるからなのです。
あなた方、たとえどんな大悪党であっても、その悪党が心から神に詫び、
深く反省している姿を見たならば、思わずかけ寄って、肩に手をかけてやりたくはないですか。
反省の姿はつねに美しいのです。
真実の反省の姿はどのような大天使に見られたとしても、決して恥ずかしいことはないのです。
神は、盲目の人間、神理に対して盲目である衆生に対して、
一度たりとも罪を犯すなとは決して言っていないのです。
罪を犯したとしても、反省という行為によってその罪は消えるように、
神はそのような完全なものとして人間をお創りになったのです。
それはそうです。バケツの水をこぼしたなら、雑巾でちやんとふきなさいということなのです。
これが、「反省」という宗数的行為のもつ意昧なのです。
この焦熱地獄にいる人びとは、二つのことさえ実行したなら救われるのです。
その一つは布施ということ、つまり、他人に対して愛の行為をするということです。
いま一つは、欲望にふりまわされない、足ることを知った心でもって日々生きるということなのです。
足ることを知り、みずからの使命を自覚して日々着実に生きる人には、地獄というものは無禄のものなのです。
あれが欲しい、これが手に入れたいと山のような欲望にふりまわされて、
自分で自分を苦しめているのが、愚かな人間の姿なのです。
ですからこの焦熱地獄というものは、決して神が罪を与えたまうためにお創りになったものではないのです。
まさにその環境こそが、その世界にいる人びとにとっては、悟りへの近道となっているのです。
迷っている霊たちは、なぜ自分が焦熱地獄にいるのかを考えることによって、
悟ることができるようになっているのです。
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いかがでしたでしょうか。
次回は地獄の最下層を紹介する予定です。
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