心の探求 -正しき心とは- 7 
2016/12/29 Thu. 11:15

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正しい法規とは、神から流れ出てきた教えである
では、先ほど言った交通ルールは何だろうか。
その正しい法規とは何かというと、その神から流れ出てきた教えということになりましょう。
では、どのようにして、神から流れ出た教えというものを判断するのか。
地上にはさまざまな思想家あり、哲学者あり、文学者あり、芸術家あり、
そしてまた宗教家ありである。
この百花繚乱の姿を見た時には、どれが真実であり、どれが真実でないかと、
どうやって見分ければよいのか。
これが問題であろうと思う。
どれが正しい法規かがわからなければ、そのルールを守ることもできないはずです。
そこで私は、正しいルールであること、
神からの教えであるということを見分ける基準というものを、明らかにしたいのです。
これはすなわち、真実なる神の教えでありますから、
いわゆる神理であり、また正法ということになります。
したがって、正法の定義とは何かということが問題になるわけです。
何をもって正法とするか、
正しい教えとするか、ということを定義すれば、このルールが明らかになります。
正法の定義①
過去の人類の知的遺産に照らして合致すること
私は、正法の定義として三点を挙げていきたいと思います。
それが正法かどうか、正しい教えかどうかを見極める第一点目の、第一番目の物差し、
これは、その教えというものが、過去の人類の知的遺産に照らして合致するような、
納得を得るような内容を含んでいるかどうかです。
最近のものは、正しいと思われるものでも評価が定まっておりません。
しかしながら、古きものは、ある程度評価が定まっているのです。
これは動かないのです。
釈迦の業績というものは、誰が何を言おうとも動かないのです。
これはエシプトのピラミッドのように固まっているのです。
またイエスの業績も動かないのです。
無神論者であっても、神を信じない人であっても、
イエスを気狂いだという人は、今いないはずです。
クリスチャンでなくとも、霊を信じなくとも、
イエス・キリストをおかしいという人はいないのです。
現在ある、キリスト教徒たちやキリスト教系の新興宗教はおかしい、という人はいくらでもおります。
しかしイエス・キリストそのものを狂人だと考える人はいません。
けれども、イエスの時代の当時の人たちはそう考えて、彼を十字架にかけたということですね。
そういうように、時代が新しいとわからないけれども、
古い時代になると明らかにわかるということです。
そうすると、正法の基準としては、釈迦なり、イエスなり、ソクラテスなり、
モーゼなり、孔子なり、こうした過去の評価が定まっている偉人の、人類に対する知的遺産、
これと照らし合わせて、大きな矛盾がないかどうか、納得がいくような真理が、
合致するような真理がそこにあるかどうか。
説き方の違いはあるにしても、本質において同じかどうか。
これが点検されねばなりません。時代が変わる分だけ、教えが変わるだろうけれど、
その本質が変わるようであっては、神からの教えとはいえません。これが第一点です。
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