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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

心の探求 -正しき心とは- 7  

心の探求128-184


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正しい法規とは、神から流れ出てきた教えである

では、先ほど言った交通ルールは何だろうか。
その正しい法規とは何かというと、その神から流れ出てきた教えということになりましょう。
では、どのようにして、神から流れ出た教えというものを判断するのか。

地上にはさまざまな思想家あり、哲学者あり、文学者あり、芸術家あり、
そしてまた宗教家ありである。

この百花繚乱の姿を見た時には、どれが真実であり、どれが真実でないかと、
どうやって見分ければよいのか。
これが問題であろうと思う。

どれが正しい法規かがわからなければ、そのルールを守ることもできないはずです。

そこで私は、正しいルールであること、
神からの教えであるということを見分ける基準というものを、明らかにしたいのです。

これはすなわち、真実なる神の教えでありますから、
いわゆる神理であり、また正法ということになります。

したがって、正法の定義とは何かということが問題になるわけです。

何をもって正法とするか、
正しい教えとするか、ということを定義すれば、このルールが明らかになります。


正法の定義①
   過去の人類の知的遺産に照らして合致すること


私は、正法の定義として三点を挙げていきたいと思います。
それが正法かどうか、正しい教えかどうかを見極める第一点目の、第一番目の物差し、
これは、その教えというものが、過去の人類の知的遺産に照らして合致するような、
納得を得るような内容を含んでいるかどうかです。

最近のものは、正しいと思われるものでも評価が定まっておりません。
しかしながら、古きものは、ある程度評価が定まっているのです。
これは動かないのです。

釈迦の業績というものは、誰が何を言おうとも動かないのです。
これはエシプトのピラミッドのように固まっているのです。

またイエスの業績も動かないのです。
無神論者であっても、神を信じない人であっても、
イエスを気狂いだという人は、今いないはずです。

クリスチャンでなくとも、霊を信じなくとも、
イエス・キリストをおかしいという人はいないのです。

現在ある、キリスト教徒たちやキリスト教系の新興宗教はおかしい、という人はいくらでもおります。
しかしイエス・キリストそのものを狂人だと考える人はいません。

けれども、イエスの時代の当時の人たちはそう考えて、彼を十字架にかけたということですね。
そういうように、時代が新しいとわからないけれども、
古い時代になると明らかにわかるということです。

そうすると、正法の基準としては、釈迦なり、イエスなり、ソクラテスなり、
モーゼなり、孔子なり、こうした過去の評価が定まっている偉人の、人類に対する知的遺産、
これと照らし合わせて、大きな矛盾がないかどうか、納得がいくような真理が、
合致するような真理がそこにあるかどうか。
説き方の違いはあるにしても、本質において同じかどうか。

これが点検されねばなりません。時代が変わる分だけ、教えが変わるだろうけれど、
その本質が変わるようであっては、神からの教えとはいえません。これが第一点です。


-正しき心とは- 6

-正しき心とは- 8

category: 心の探求

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