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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

心の探求 -正しき心とは- 3  

心の探求128-184


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正しい運転技術とは、正確な交通知識を持ち、それに準拠した運転技術を身につけること

さて、では、その運転技術というのは、いったい何でしょうか。
どのように運転すればよいのでしょうか。
これが本章の眼目である「正しき心とは」、ということになるわけです。

通常、運転免許を与えられるためには、二十何時間か、三十何時間か自動車教習所で講義を受け、
実技訓練を受けます。

そうして路上での試験にパスして、その後筆記試験にもパスをして、
初めてライセンスというのが与えられることになります。
そのときに、私たちが学んでいることを、もう一度考えればいいわけです。

それは一つには、学科としての交通法規の学習ということがあります。
これをまず、知識として知らなければ、信号が赤の時に勝手に進んでいいと思って車を走らせてしまい、
あっちもこっちも事故だらけです。

赤のときには進んではならない。青のときには進んでもよい。
黄色なら注意をしなさい、ということですね。
これをすべての運転手が知っているという前提のもとに、運転免許というものも与えられるわけです。

ですから、まず共通の知識、ルールというものを、人間は手に入れなければならないわけです。
このルールを知ってこその運転マナーであり、運転技術なわけです。
いくらハンドルさばきがうまくとも、いくらアクセルをふかすのがはやくとも、
いくらブレーキを踏むのがはやくとも、交通ルールを知らないでは、運転がうまいとはいえないのです。

それは、ひじょうに危険な方です。そういう方を野放しにしておいては、なかなかすみやかな運転もできないし、
事故車、あるいは死傷者というものを、減らすこともできないわけです。

以上の車の例でわかったように、まず正確な法規、交通知識というものを持つこと。
次には、それに準拠した運転の方法、技術というものを身につけるということ。
この二つがだいじであることを私は述べました。

こうして人生の長い長い道筋を、人間は辿って生ゆくのです。


交通ルールとしての「公的』な正しさとは

さてそれでは、今の二つの部分に相当するものは、
人間の心というものに焦点を合わせた時にいったい何であるのか。
この点について、さらに詳しく検計に入っていきたいと思います。

第一点として、交通ルール、法規にあたるものは、いったい何だろうか。
これをまず、私たちは、考えてみなければならないのです。

まず、交通法規を与えられていなければ、
そのルールを知らされていなければ正しい運転ということは無理なわけです。

そのルールとは何でしょうか。ルールがルールである以上、
それは「公的なるもの」でなければなりません。

それでは心の世界において、公的なるものというのはいったい何だろう。
何をもって、公的なものとするのであろうか。

それぞれの人間が、これこそ正しいと言い張っているのであるならば、
それは私的なものであって、公的な考えとはいえません。

公的なるものというのは、結局のところ、
それが唯一の権威あるものから流れ出ているということであります。

では、その唯一の権威あるものとは何でしょうか。
それが、人類が長い間探し求めてきた神ということではないでしょうか。



-正しき心とは- 2

-正しき心とは- 4

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