心の探求 -正しき心とは- 2 
2016/11/21 Mon. 22:08

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肉体は乗り物、心という運転手こそ主人公
各人、自分の心のなかは、自由に任されているのです。
これを、「心の王国」といいます。
この心の王国を、各人が自治権を持っていて、自分でそれを守り、
自分でそれをおさめていきなさい、ということになっています。
しかし、この自治権というのはたいへんありがたいものであるけれども、
反面からみると、その人の心のなかに他人はちょっかいを出せない、ということであるならば、
逆にどのような心であっても、放っておけるということになってしまいます。
私たちは、この三次元とか、地上界とか、物質界とかいわれるようなこの世を通り越して、
肉体が滅した時に、あの世という世界に入っていきますけれども、この、あの世の世界においては、
心というものは、人間そのものになってしまいます。
地上においては肉体という乗り物があって、この乗り物のなかの運転手としての心があるわけでありますけれども、
この地上を去って、他界をしたときに、あの世に行くところの運転手そのものが、
あなたになり、私になるわけであって、
これ以外に車というものがあるわけでもなければ、乗馬すべき馬がいるわけでもありません。
したがって、心そのものが主人公となるわけです。
そうすると、どうなるかというと、
車の中に乗っていては、運転手がどのような人であるかわからなかったにもかかわらず、
車からいったん降りて、運転手が外を歩くようになると、その人がどういう人であるということは、
だれから見ても明らかになってくるわけです。
つまり、この世を去った実在界においては、人間はだれからも、
その姿と人となりというものを見られることになります。
その人の心の姿は、だれからも見抜かれてしまう、ということになってしまいます。
これが、実在界においては当然のこととなるわけであります。
肩書、知名度、外見美などは、肉体という車の外見にすぎない
けれども、この三次元世界、現象世界においては、車というものを運転しているがために、
車の中の人の姿というものが、フロントガラスを通してしか見えないのでありまして、
実際にどういう人柄か、これがなかなかわからない。
けれども、またそれをいいことにして、車を自由自在に運転しているのはいいけれども、
交通法規を守って正しく運転する人もあれば、交通法規を破って運転している人もおります。
どんな人が中に乗っているか、車の中を見ただけでは、わからないということです。
ただ車のなかにもいろいろな車というのがあって、事故車のような車もあります。
バンパーがへこんでいたり、あるいは、ミラーが壊れていたり、ボディが歪んでいたり、そういう車もあります。
こういう車を見れば、かなり事故を起こしたであろうということ、
その人の運転技術が未熟ではないかというようなこと、
あるいは車自体がいろいろいたんでいたり、汚れていたりすれば、
どうやらその待ち主は、車の手入れをしないらしいということは、外見からも明らかであります。
しかし、そうした外見の特徴以外では、その中身というのは、なかなかわからないわけです。
この車の外見というのが、この世でいえば名剌のなかの肩書でもありますし、
またある時には、収入の額ということであろうし、あるいは、
外見が美人であるとか、凛々しい顔をしているとか、
背が高いとか低いとか、肥っているとか痩せているとか、というようなことになります。
これは、車でいえば車体の特徴そのものであって、
この中に乗っている人がどういう人かということが、わからないのと同じです。
車の外見もだいじだが、乗っている人の運転技術がいちばん大切
ただ車でも、一千万も二千万もするような高級車を持っている人であるならば、
まあ運転手は、おそらくお金侍ちであるか、あるいは地位のある方か、また別の面から見るならば、
そういうふうに豪華にやるのが好きな人か、こういう推測がつくわけであります。
乗っている車種によって、その人の性格というのが、ある程度見極めがつくわけです。
けれども、車は車、どんないい車に乗っていても、運転技術が未熟であれば、
なんの意昧もないことはいうまでもありません。
また、どんないい車であっても、中に乗っている人が、貧相であり、貧弱であって、ドアを開けて出てくれば、
一目瞭然、ガッカリしてしまいます。
いい車に乗って、大会社の社長かと思っても、その車を止めて、中の人を見てみたら、
その人はすぐに見透かされてしまいます。
そういうことであって、人間は、外から見られる姿だけをもって、自己満足に耽ってはならないわけです。
やはり、運転手としての技量を磨き、人物を磨いていく必要があるのです。
この、運転手としての技量を磨き、人物を磨くということが、
心というものをどうしていくか、ということになるわけです。
つまり、心の運転であり、心の操縦であり、また心の作用ということです。
車自体に手を入れることもだいじであるけれども、やはり乗っている人が中心だということです。
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category: 心の探求
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