心の探求 -正しき心とは- 1 
2016/11/20 Sun. 13:47

私はつねづね、人間の本当の姿は肉体ではなく、そこに宿っている魂、心こそが本当の姿であるとお話しております。
では、人間の本当の姿は心であるということはわかった、それならば、そうした事をふまえたうえで、
私たちはどのように生きていけばよいのか、どのような人生を歩んでゆけばよいのか、
そうです、「正しき心」とはいったい何なのか、
そのことについて非常にわかりやすく説明している書があります。
今回は、数回にわけて、その書を紹介させていただきたいと思います。
どうか、よくよく味読していただければ幸いです。
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「正しき心とは」という題で本章の話をしていきたいと思います。
まず、人間の心というものを、もう一度根本に遡って、考えてみなければならないと思います。
私たちは、目を覚ましている時間、一日二十四時間のうち八時間の睡眠時間を除いたならば、
残り十六時間ということになりますが、この十六時間の間に、朝から夜までの間、
さまざまなことが心に思い浮かびます。
ただ、何も本格的に考えたりしない人にとっては、
単に心に思い浮かぶということにすぎないわけでありますけれども、
しかし多少なりとも、文学的に、あるいは哲学的に、またある場合には、宗数的に、
物事を詰めて、つき詰めて考えることをやってきた人にとっては、
心のなかに去来する思いというのは、単に思い浮かべるということにはとどまらないわけです。
思い浮かべるということは、たとえていえば、流れゆく川のなかのうたかたのごとき、
泡のようなものであって、流れのところどころで泡ができては、また流れのなかにのみ込まれていき、
またせせらぎでは泡ができ、また流れのなかにのみ込んでいかれる。
一日のうちの時間の流れというものを川の流れというものに照らし合わせてみるならば、
そうしたことがいえるでしょう。
ただ本当に人間の心というものを十二分に掴んだ人から見るならば、人間の心のなかの思いというのは、
本当は、そういううたかたのごとき、泡沫のごときものではないということです。
言葉にはさまざまな表現のしかたがありますけれども、たとえば「考え抜く」という言葉があります。
長時間一つのテーマに関して考えるということです。
これも、ある程度修行を積み、鍛練を積んでいくとできるようになります。
こういうふうに「考え抜く」ということができるようになった人というのは、
まあパーセンテージでいっても、おそらくひじょうに少ないでありましょう。
百人で、二、三人しかいないのではないかと思います。
本当に考えるということができる人は、コーヒー一杯を飲む間にも、さまざまなことを思索し、また思考します。
あるいは、道を歩いていても、禅の歩行禅ではありませんが、歩きながら、さまざまなことを考えることも可能であります。
あるいはこれ以外にも、通勤電車のなかにおいても、あるいは人と話をしている間においても、
ごく短時間に、短時間のうちに、閃きのごとく着想がおりてきて、一つのことを考えることも可能になってきます。
こうした人たちは、心の本質というものを、よく理解しているといえます。
人間は、さまざまな人によって、体は鍛えれば鍛えるほど強くなるということを教えられています。
またスポーツにおいても、訓練すれば、野球であれ、水泳であれ、マラソンンであれ、
それなりの実績が上がってくるということを教えられていますし、
またこれを万人が認めているところだと思います。
しかしながら、心という領域は、残念ながら、長いつきあいがあるにもかかわらず、
等閑にされているところが多いわけであります。
昔から人間は、心というものについては真正面から取り組んできたつもりでありながら、意外に遅れているわけであります。
-正しき心とは- 2
category: 心の探求
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