永遠の法 -霊の本質と天国地獄- 
2013/05/05 Sun. 10:21

私たちは死後あの世に還ってゆくわけですが、あの世には天国と地獄があり
必ずどちらか一方におもむいてゆくことになります。
私たちはみな天国に行きたいと思っているはずであり地獄に行きたいという人はいないでしょう。
ではいったいどうすれば天国に行けるのでしょう、いったいどのような人が天国に住んでいるのでしょう。
その明確な説明がされているものはほとんどないといってもよいでしょう。
昔からよくいわれているものに戒律というものがあります、それに照らし合わせて罪とそうでないものをわけ、
罪多きものは地獄に堕ち、罪のないものは天国に行くという考え方です。
例えば、人を殺せば地獄に堕ち、人を殺さなければ天国に行ける、あるいは物を盗めば地獄に堕ち、
盗まなければ天国に行ける、こうした考え方です。
たしかに、こうした考え方にも真実が光っていると言えます。
しかし、本当の天国、地獄を分けるものは何かというと、こうした戒律ではないのです。
結局、その人の六十年、七十年の人生を通して、神の子としての本質に気がついた人は天国にいっており、
またその本質を発揮すればするほど、高い天上界に昇って行っているわけです。
その一方、神の子としての本質に気付かずその芽を出さないままにこの世を去った人は、
地獄界というところで厳しい試練をうけている、これが本当の姿なわけです。
昔話によくでてくるものに畜生道というものがあります。
そこでは人間はもはや人間の姿をしておらず、体が馬であって顔が人間、
体が牛であって顔が人間、こうしたものが現実に存在するのです。
またヘビのようになって地獄の地面をはっているものもいる、
こうした人たちは、なぜ自分がこういう姿になったのか、という事がわからずそうしているのです。
それは、彼らが、霊の本質ということを知らないからです。
霊の世界は、思った事が実現する世界なのです。
しかし、彼らは生前、生きていた時に思った事は、心の世界においてすでに実現したことだということを知らないでいたのです。
心の中でどのような思いを持っていても、外面から見えないからかまわないと思って生きてきた人たちなのです。
肉体を持っていた時に、その心の中が透き通しで、何もかも見通されてしまえば、
恥ずかしくてとても人前に出られなかったような人たちなのです。
そうした人たちが、あの世の世界に還って、つまり、霊の世界に還ってはじめて、
自分の心の中をすべて見られてしまって、そして、思った通りのすがたになると知って愕然とするのです。
地上に生きていた時に、人に対する妬みや恨み、そうしたものをもって生きていると、
体がヘビのように変わったとするならば、人はその間違いに気付くでしょう。
しかし、生前はそうしたことがなく、この世の法則の中で生きているために、それを知らないでいるのです。
こうした真実の世界の姿を知ったならば、人間は地上にいたときに、
いったいどのように生きなければいけないか、よくわかるはずなのです。
永遠の生命などなく、この世かぎりで、有限の人生だと思っているからこそ、やりたい放題の事をし、
人を傷つけ、人を蹴落としてでも偉くなろうとしているのです。
ところが、そうした結果が、地獄の中で、永遠の生命どころか永遠の苦しみの中でのたうちまわるという事を知れば、
どれだけ割が合わないかということがわかるはずなのです。
しかし、生きていた時にささやかな善意の中に生きていたということが、あの世での至福の生活、
これ以上ない素晴らしい生活へと展開していくならば、
「なぜ地上にいたときにもっといいことをしてこなかったか」と誰もがそう思うはずなのです。
この世で良い事をしたら、あの世で十個いい事をしたぐらいの価値があるのです。
なぜなら、この世とは非常に難しい世界であり、魂は盲目、目かくしの、手探りの状態で修行をしているのですから、
目かくしの、手探りの状態で天国的なる生活を展開した人はあの世での五倍、十倍の値打ちがあるのです。
この世でのわずか数十年の間、天国的生活を送った人は、あの世では、その十倍になって帰ってくるのです。
この世はまた、そうした価値ある世界でもあるのです。
こうした真実の世界観をよくよく理解して、日々勇気を持って生きていってほしいと思います。
category: 永遠の法
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