谷口雅春霊示集 -本来肉体なし- 1 
2023/01/01 Sun. 13:39

あけましておめでとうございます。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
今年も、みなさまのかてになる内容を投稿させていただけたらと思います。
本年第一回といたしまして「本来肉体なし」という内容を紹介させていただきます。
どうかご一読よろしくお願いいたします。
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「本来肉体なし」は仏教の真理
谷口雅春です。
私のこの霊言集というか、霊示集もなかばを過ぎ、いよいよ第5章にきたわけであります。
そこで、この章では、「本来肉体なし」と、こういう表題を選んでみました。
私の生前の教えに触れておらぬ一般の人から見れば、「本来肉体なし」とはずいぶん変わったことを言う。
と、まあ、こういうふうに思うかもしれませんが、昭和五年の頃から、すでに六十年近く、
私はこの「本来肉体なし」ということを一貫して説いてきたわけであります。
では、なぜこの「本来肉体なし」という教えが大切であるのか、
この点に関し、さらに話をしていこうと思います。
この言葉で大切なことは、「肉体なし」の上に、「本来」という言葉がついていることです。
これが何にもまして肝要であります。すなわち、乱暴な議論を言っておるわけではないということです。
肉体がないから肩から斬っても死なんとか、ご飯を食べんでもよいとか、そういうことを言っておるのではない。
この「本来肉体なし」というのは、「生長の家」の真理のなかでも大切な真理のひとつ、
いわば、縦の真理であるわけですが、結局は、こういうことなんです。
この「本来肉体なし」の教えというのは、釈迦仏教の本質と、少しも変わっておらんわけです。
なぜ少しも変わっておらんか、それを説明するならば、
結局、釈迦は、この世界を無常なものというふうに説いたわけです。
無常とは何か。常ならずということですね。目に見えるこの肉体も、あるいは家にしても、
あるいは他の人間がつくったもの、お寺にしても、あるいは稲にしても、麦にしても、猿にしても、
象にしても、蟻にしても、この世の中のものに関して、無常ならざるものというのはひとつだにないわけであります。
このひとつだにないもの、すなわち、無常なもののなかにあって、
人間は一体いかなる考えというものを基礎において、その人生観、これを打ち立てねばならぬのか。
ここが問題なわけであります。
そうしてみると、人間の肉体というのは、本当に有限であります。
有限であって、男性と女性の精子と卵子が結合して、やがてそれが大きくなって、赤ん坊が生まれ、
やがてまた、子供となり、大人となり、そして、年老いて死んでいく。
そういうわけでありますが、久遠の実在としての人間の本性を悟った釈迦は、
このような変転する無常なる肉体をもって、人間の本質とはしなかったわけであります。
人間の本質とは、無常のもののなかにあって、常なるもの、常なるもの、すなわち、
変わらざるもののことを言っているわけであります。
変転する世界のなかにおいて、色あせていく世界のなかにおいて、変転せぬもの、色あせぬもの、
それこそが久遠の実在であり、人間の本質である、と。
釈迦は、このように悟りを開いたわけであります。
実在が実在であるというところのものは、常なる存在であるということ。
滅失したりするようなものではないということであります。
肉体的には、六十年、七十年、百年もすれば、必ず滅失し、滅んでいく。
そのように滅んでいくようなものが、人間の本質であってたまるか、ということであります。
ですから、あなた方は、そんなものが人間の本質だという考えにとらわれてはならぬ。
そうした考えは、まったく病気のような考えであり、世の人びとを惑わしておる伝染病なのです。
思想病という名の伝染病なのです。
人生をこの世かぎりだと思い、わずか数十年だと思い、肉体が滅びればすべてが滅びると思うような考え、
こうした唯物論的な考えというのは、ひとつの病気なわけです。思想病でありて、それか伝染しておるわけであります。
よって、このような考えに、人間はとらわれてはならぬのです。
谷口雅春は、二年前にその肉体というものを地上に置き去ったわけでありますが、谷口雅春が個性は、
こちらに還っても、一向に変わってはおらんのです。
「生長の家」の信徒諸君は、初代総裁谷口雅春の声を聞けばわかるはずです。私の教えを聞けば、わかるはずです。
category: 本来肉体なし
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