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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

心の探求 -心の段階- 8  

心の探求128-184



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人類を救っていると勘違いしている宗教家の場合

ただ、その心のなかをどうみるか、ということがわからないときには、
正確に判断できないことがあります。

世の宗教家をみていてもそうです。みな自分を、如来だ、菩薩だ、と思って世を救い、
人を救っていると思うけれど、実際問題、死んで地獄へ行っていることがよくあります。

これは、本人自身の客観的な評価ができないわけです。

主観的にはいいことをやっているつもりでいるけれども、
第三者から見れば、大変なことをやっているわけです。

たとえば、そのお札を身につければあなたは救われる、というようなことをやっております。

そうして多くの人たちが来て、寮銭を置いて、ありがとうございました、
たすかりました、といってよろこんで帰る。

自分は人間を歓ばしているものだから、
これはよいことをしているんだと思うけれども、死んであの世へ還ってみれば、地獄に堕ちてしまう。

そして、なぜ堕ちたかわからない。多くの人を歓ばしているのに、なぜ堕ちたかはわからない。
こういう事がいえます。

たとえば、ある人は祈りさえすればよいという事を教えます。

○○が○○でありますように、と祈りさえすれば、人類は救われる。
こんなよい祈りをしているのだから間違いはないと思って、生前指導してきました。

ところが、祈りをしている人たちの心はどうかというと、結局、救われたい、という一念で、
自分の悪いところはいっぱいあるけれども、そういうことは隠して、臭いものフタをしてでも救われたい。

○○の○○さえ祈っていればお前たちは救われるんだ、
というならば、先ほどいったお札の類と少しも変わらないわけです。

その本質は少しも変わりません。

単にナムアミダブツと一回唱えたら救われる。
というのと同じです。そうなってしまいます。

人間が救われるためには、心の浄化をしなければなりません。

心を浄化するためには、反省というものが必要なのです。

それをしないで、天照大神の御札を胸にいだいたところで、お守りを常につけて歩いたところで、
それで天国へ行けるわけではないのです。

美辞麗句だけでは、人間というのは救われないのです。





category: 心の段階

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