大天使ミカエルの降臨2 -愛とは思いやりの心- 2 
2022/08/13 Sat. 16:05

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二つのたとえ話をいたしましたが、鶴にしても我利我利亡者にしても、
どちらも欲が深いがために決して幸せになれなかった例であろうと思います。
この二つの話を聞いて、バカバカしいとお思いになる方は数多くおられることでしょう。
しかし私が見ていて、似たようなことは人間の間にも、あちらにもこちらにもあるのです。
おたがいに助け合うことができたら、どうにかすることができたのに、
どうしてそれをしなかったのか。
おたがいに長いくちばしで助け合ったら食べることができたものを、
おたがいに長い箸で料理を食べさせ合うことができたら、
その昧を心ゆくまで堪能することができたのに、
自分が食べることしか考えていないがために苦しんでいる多くの人たち。
その姿はあちらにもこちらにもあるように思います。
私はこうした人たちに、まず「愛とは他人を思いやる心である」ということを言っておきたいと思います。
なぜ、それが愛の根源にある考え方であるか、あなたがたはおわかりでしょうか。
この考え方が愛の根源にある理由は、神ご自身が、そういう行為をなさっているからです。
神ご自身は、この宇宙に満ちている万生万物を在らしめることに全精力を注いでおられるのです。
すべての生きものが在るということ、存在するということは、神の愛の思いゆえなのです。
それは、かならずしも彼らを生かしていることが、自分のみかえりになるというわけではないのです。
ただ与えている
それはそうです。地上の人間、動物、植物、川の中の生きもの、土の中の生きもの、
いろんなものをすべて神は養っておられます。
しかし彼らが存在することが、どれほどの自分の対価になるのか、そうしたことを考えているとは思えないのです。
神はただ、万生万物が楽しそうに生きているのを見て喜んでおられる。
そういうふうに私は感じられるのです。
それゆえに愛の根拠が、ここにあるように思います。
与えることに喜びを感ずること、人に喜んでもらえることに喜びを感ずること、
ここにどうやら愛の典型的な姿があるように思います。
多くの人びとは、たとえば地位の争いのためにしのぎをけずっていることもあるでしょう。
そういう時にも、どうか自分が欲深い、利己主義の鶴になっていないかどうか、
欲深い地獄の亡者になっていないかどうかを、よく考えることです。
他の人に自分が愛を与えたことによって、その人が生き返り、喜びに満ちることができるならば、
それは素晴らしいことではないでしょうか。
そうしておたがいに愛を与え合うことによって生き残っていくことができるなら、
これもまた素晴らしいことではないでしょうか。
私はこのように思うのです。
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category: 愛とは思いやりの心
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