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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

心の探求 -心の構造- 9  

心の探求128-184



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悟りについての平等観と差別観

ですからこの意味で、人間は平等観と差別観、両方持たねばいかんのです。

平等観としては、すべての人間が同じような竹の子であるということです。

何枚もの皮に包まれた存在であり、その中心部には、真我なる自分、
嘘、偽りのない自分、自分自身に嘘をつけない心。

こういう神の子としての自分が、その中心にあります。

けれども、差別観の面においては、それぞれの人間がやはり何枚目の皮を着ているかということは、
公平の観点からは違いがあるのです。

食べ頃の竹の子になっている人もいれば、ごわごわの皮を被っている人もいる。

こういうふうに、何層もの皮をまとっているということですね。
こういう違いがある。

ですから、悟りが進んでいる、あるいは修行が進んでいるという人は、
こういう皮が剥けた人であり、進んでいない人というのは、皮を被っている人なのですね。

こういうふうに考えればいいわけです。

このように、悟ってないとか、あるいは悪人でないとかいっても、その本当の意味は、
悪人という名の竹の子があったり、善人という名の竹の子があったりするわけではないのです。

悪人というのは結局、外に皮を被って、泥がいっぱいついている竹の子のようになっているのを悪人というのです。

いわば顔に泥がついていても、それで中身が汚れているかというと、そんなことは一切ないのです。
中身は中身できれいな竹の子があるのです。

ただ外に出ている部分は、破れたり、汚れたり、いろんなことをしているわけです。
ですから「本来悪人なし」というのはこのことをいいます。

また、「本来肉体なし」ということも、このことをいいます。

「本来病なし」というのも同じです。

肉体という名のゴワゴワした皮が外側に一枚あるだけだということです。
肉体人間が病気になるということは、つまり竹の子でいうと、皮の部分に傷がついたということです。

あるいはこれが一部破れたということです。これが病気ですね。

悪人というのもそうです。皮の部分に泥を被ったということです。
だから、この世に善人があるか、悪人があるかというけれども、善悪本来なしです。

本来は、そうした皮があるかないかの違いだけであり、これは、別な誓えでいえば、
目に鱗が入っている人と入っていない人との違いと同じです。

目の鱗が取れれば、みんな神の子。

しかし、目に鱗が入っていて、自分が悪をなしていることがわからない人が、この世の中にはいるということです。

したがって、これが本来悪なし、病気なし、ということの説明でもあるし、
人間が平等であって、また人間の心の世界に階層がある、あの世に次元の差があるという説明でもあるわけです。

結局人間は、竹の子のように何重にも重なった層として、心ができ上がっている。
そういう心の構造を持っているということです。

こういう認識から始めていった時に、初めて人間の本来の姿、これがわかるわけです。

ですから、医学者や心理学者たちは、この竹の子の皮ばかりを一生懸命勉強しているわけです。

皮のこの部分の繊維の筋のこの部分に神経があって、思考の中枢があるのではないかといっているのが、
医学者や心理学者です。本当のことを知らないわけです。

そういう誤解をとくためにも、こうした心の構造、心の仕組みが今後とも明らかにされていかねばならないのです。

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category: 心の構造

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