心の探求 -心の構造- 5 
2022/06/18 Sat. 11:53

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逆にこの世の生活は、あの世から見れば冬眠と同じ
逆に、あの世の世界から見るならば、この地上に、六十年、七十年の人生を持っているということは、
向こうから見れば、魂が寝ているのと同じなのですね。
あるいは、冬眠中と一緒なのです。
本来の世界のほうでは、仕事が停止してしまって、いわば、冬眠中なわけです。
ちょうど、熊が冬の期間、三カ月、四カ月、洞窟の中に寝ているのと同じなのです。
本来の熊というのは、春から秋にかけて、餌を食べて、子つくをつくって、
そして育てて、生活していくんだけれども、冬眠期間中はじっと寝ています。
つまり、秋の間に食物を食べて寝込んでます。
まさしく、大きな目で見るとすれば、この熊の冬眠のようなことが人間にも与えられているわけです。
冬眠の周期は人によって違います。十年ぐらいで生まれ変わってくる人もいるし、
あるいは、五十年、あるいは三百年、千年や二千年単位でこの世に生まれ変わってくる人もいますけれども、
平均的にいえば、だいたい三百年ぐらいです。
つまり、実在界から見れば三百年に一回ぐらい、六十年間ぐらいの冬眠期間があるっていうことですね。
こういうふうに、三百年に一回ぐらいは、六十年ぐらい眠ってしまうのです。
その眠っている問に、何をしているかといえば、じつはその間、地上で活動しているということになります。
ですから、あの世の霊の立場から見れば、この地上の六十年の生活が終わって還ってくるというのは、
ちょうど冬眠から覚めて戻ってくるということと一緒であり、夢からやっと覚めたな、ということなのです。
つまり、あちらから見れば、この世が夢であり、あの世が実際です。そういう世界なんです。
ですから、夢のなかで、時々目が覚める、目を覚ますということがありますね。
いろんな楽しいことをやっていたかと思うと、パッと日が覚めると、真暗のなかで、
布団の中で寝ていたというのを気がつかれた方はいっぱいいると思います。
「逆もまた真なり」で、地上で生活をしていても、夢を見ている瞬間というのは、結局、
あの世からいえば、目が覚めた瞬間なんですね。
一部分だけ目が覚めてまた寝てしまった。また目が覚めた。また寝た。こういうのを繰り返しているわけなのです。
そこで夢の時間に、あの世の霊界へと魂が抜けてくると、あの世の友人たちや先生たちが
「お前しっかりやっているか。忘れていないだろうな。
本来の世界で計画して行ったことをしっかりやるんだぞ。修行するんだぞ」、
ということを睡眠中に教えているわけです。
ところが、また肉体に戻って目が覚めると、その事実を忘れてしまう。
朝の目玉焼の数が多かったとか、少なかったとか、ハムの焦げ方がすごかったとか、
味噌汁がまずかったとか、こういうことで、また妻と喧嘩をしたりするようなことを始めます。
こういうふうになっているわけなのです。
こういうふうに、この世とあの世、夢と現実というのが、実際は逆になっているわけですね。
同じような話として「老荘思想」の荘子という人が、“胡蝶の夢”という話をしております。
あるいは、“一炊の夢”というようなこともよくいいますけれども、ほんの御飯を炊いている間に、
うとうととして見た夢が、現実なのか、現実が夢なのか、わからないという話があります。
これは、唐の盧生という青年が趙州の都の邯鄲で、道士の枕をかりて、栄華の夢をみていたけれども、
目が覚めてみれば、まだ炊きかけの粟が煮えきらないくらいの短い時間であったという故事です。
このように、みなさんが今、三次元で、実際の生活をやっていると思うのが、じつは夢なのです。
大会社の社長をやっていた。大宗教家をやっていた。政治に反対してデモをやっていた。
こういうことは本当は全部夢なのです。そして現実は違うのですね。
こういうことになるわけです。
ですから、立場を変えて考えてみるということが、ひじょうにだいじです。
以上のように話をしてきましたけれども、心というのは、本当は頭脳じゃなくて、別のものなんだ。
そして心というのは、本当は魂の部分のなかの中心部分のことを心というのだということを、
私はいいたかったわけです。
category: 心の構造
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