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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

大天使ミカエルの降臨3 -地獄の将来- 4  

大天使ミカエルの降臨3 128-187



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魔に打ち克つ心とは

そこで私は、地獄の魔王たちから身を護るための方策を、いくつか授けたいと思うのです。

彼らが人間を扇動し、支配するには、それだけの理由が要ります。

彼らにとっての好都合の理由がかならず要るのです。
その一つは悩みというものです。

彼らはまるでハイエナか何かのように、悩みという名の精神の腐敗臭を嗅ぎつけると寄ってきます。
かならず寄ってくるのです。

血の臭いを嗅いだ野獣のように、悩みの臭いを嗅いでかならずやってくるのです。

したがって悩みのなかに長い時間、決していてはならない。
これは鉄則であります。

もし一日のうちに悩みがあるとしても、この悩みの時間を小さくしていくこと。

一日のうち一定の時間悩めば、もう考えないでいいような、そうした生き方をしてゆくこと。
これがだいじです。

魔に打ち克つための警戒の要所としての第二は、迷いです。
悩みと迷いとはよく似ているようですが、ここにも違いがあります。

迷いは何を意味するかというと、自分自身の未来が見えない、
未来の方向が見えない、道が見えない。右すべきか、左すべきかがわからない、
こういうことであります。

選択肢がわからない。どの道を進むのが本当なのかがわからない
これを迷いというのです。

この迷いに際してとるべき方法は二つです。
一つは悠悠自適。時の流れを忍耐して待っという生き方です。

もう一つは、とりあえず、これぞと思う方向をまっしぐらに歩んでみることです。
まっしぐらに歩んでゆくうちに通が開けることもある。
そうした生き方があります。

ただ、こうした迷いの時に、得てして人は試行錯誤をくり返します。

そして新たな悩みを作っていきます。迷いの結果違った行動をとり、その結果悩みという結果を作り出していく。
これが人間の愚かな姿です。

そうした時に、私があなた方に薦めたいことは、ときおり大きく深呼吸をし、
問題の所在からとりあえず離れて自己というものをもう一度見直してみる。

自己というものを澄んだ目で、澄んだ心で見直してみる。
そういう必要があるのではないでしょうか、ということなのです。

これもだいじな生き方であると思います。

さらに、魔から身を護る際のチェックのポイントの第三としてあることは、これは執着です。

迷い・悩み・執着どれもよく似ているようであって、少しずつ違っているところがあります。

執着とは、ある物事の一点に心が止まっていくことです。
つねに考えがそこに返っていくことをもって執着というのです。

悩みももちろん、執着の一つになりはするでしょうが、悩みの場合、もう少し非生産的な心の在り方でありましょう。

つねに悪しきことを考えて、心からスモッグが出ている状況のことを悩みというならば、
執着というのは、自分自身それが善きことか悪しきことかわからないままにある物事にこだわって、
そして心がその一点に止まっていることを言うのです。

ただ、たいていの場合、この執着と称されるものは三次元的な、
まったく取るに足らないことに人びとの心が向くことを意味しています。

よく言われるように、地位だとか、名誉、金銭、評判、名声、また外見、
そういうものにこだわることを執着と言います。

これ自体は悩みとも、迷いとも言われないものでしょう。

しかしこうしたものに心が執われていった時に、
それはそこに無限の底無し沼が展開してくるようになっていくのです。

それはほんの軽い気持ちで向かっていったところが、ズブズブと深い沼の中に入り、
腰まで入り、胸まで入り、抜けられなくなってくることを意味します。

この意味での執着はおそらく、地上に生きている以上、万人にあるであろうと思います。
この執着は向上心のなかにも含まれているからなのです。

よくならんとする心、向上せんとする心のなかにも、やはり一部の執着はあります。

そこに「ぜひともこうせねばならん。」という気持ちが強く起きた時に、
それが成就すればよいが成就しない場合、こだわりとなり、やがて執着となってゆきます。

ここで私は、地獄霊に対抗するための考え方としてだいじなこととしては、
この執着に対してもあっさりとした気持ち、さっぱりとした気持ちを持ち続けるということだと思います。

地獄霊の特徴は、ほとんどの人が性格において粘着質であるということが言えると思います。

何かにこだわって離れない考え方、そういうクヨクヨする性格、執着する性格、これが地獄霊の特徴であります。

一方、地獄霊のなかに決していない性格は、サバサバとした性格、サッパリとした性格です。
地獄霊にはこれがありません。こういう人たちがいないのです。

サタン、魔王といわれる人たちのなかでサバサバとしている者はありません。

ほとんどが執念深い、ほんとうに執念深く、ヘビのごとく狙った獲物は逃さないという形で音もなく忍びより、
そして咬みついてくるということが多いといえましょう。

したがって、アッサリしているということもひじょうに大きな美徳である、
ということを私は述べておきたいと思うのです。

さまざまな物事に対してアッサリとしているということ、

これに対して天使のなかにも多くある性格ですが、完全主義的な傾向で悩みにおちいっていると、
またサタンが忍び寄ってくることになります。

完全主義という性格は、それはいい方向に向かえば、たしかに自己向上の原理とはなるわけなのですが、

一方これが完全主義という性格にこだわってくると、どうしても自己が低く見られたくない、
自己の欠点を人に見られたくない、自己を人によく見せたいという気持ちで凝り固まっていくようになってきます。

これもまた一つの執着であります。
理想家肌の人にはひじょうに多いのです。

しかし現実に見た場合に、どこに完全なるものがありましょうか。

人間にしても動物にしても、家にしても道路にしても、建物にしても、いろんなものにしても、
完全というものは追究してもあるものではありません。

それぞれに欠点を見る目で見れば欠点が見え、長所を見る目で見れば長所が見える、
そういうものではないでしょうか。




category: 地獄の将来

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