カントの霊訓 -あの世では階層ごとにどのような人が住んでいるか- 7 
2022/01/09 Sun. 13:12

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キリスト者と仏教徒のかつての罪悪感は誤り
この場合、血の池地獄から私はかつての宗教家達の誤りをいくつか正しておきたいと思う。
キリスト教の考えにおいては、この地獄の中においても、たとえば貞節を喪う罪といって、
結婚前に貞操を失ったら直ぐ地獄に行くというような考えもあった。
或いは二夫にまみえずという言葉があるが、夫以外と交わると直ぐ地獄に行くというような教えがあったと思う。
こういった考えは確かに社会生活を維持する上には有益であり、正しくその方向でいかねばならないけれども、
逆に人間が霊的な存在であるならば、性的な経験を持ったかどうかということ自体で、
その人自身の全人生が裁かれて地獄に陥ちるわけではないのである。
これは間違えてはいけない。
かえって性的なものに余りこだわるということは、唯物的に物事を考えているということである。
であるから、この地上における性道徳に関して一言いっておくならば、
あくまでも良識ある行動は大切だけれども、かたくなに、余り形式的に考えるならば、
この世のほとんどの人は今は地獄に堕ちねばならない。
しかしながら、人間はそういった不自由なものではないのである。
要はその人の価値観、人生観であるということだ。
こういったことで、仏教徒に対しても、私は言っておきたいけれども、
年老いてから自分がさまざまな遍歴をして来た。
性的な遍歴をして来たから、もう自分は地獄に陥ちると、
罪の意識にさいなまされている人も居るかも知れないけれども、
必ずしも性的な経験そのものが地獄に結びつくわけではないのである。
要は、その人のトータルの人生観であり、
トータルの価値観として何を一番強く人生において心に刻みつけたかということなのである。
であるから、ある罪を犯したら、直ぐ地獄に陥ちるわけではない。
かつて宗教家達は、そのような偏狭な思いが多かったようである。
例えば〝万引き″という行為がある。これ自体は悪い行為である。
しかし、人間が七十年生きて来て、一つの万引きをやったからといって、
それで地獄に陥ちるわけではないのである。
残り数十年、六十年、七十年の彼の人生が、トータルで見て、
如何なる人生であったかということが肝要なのである。
そのような形式的な罪の意識が、有名な小説である例えば『レ・ミゼラブル』の
ジャン・バルジャンのようなことになるのである。
生活苦のために、一片のパンを盗んだということで、全人生を批判されるというようなことがあるであろう。
そういったことになるわけである。
人間達、特に宗教家達、道徳家達は罪の意識が余りにも尖鋭化されているために、
一片の罪と、また山を築くような善行との比較さえもできないようなことがあるのである。
であるから、この際私は、地上に在る人々に言っておきたいのであるけれども、
人間は、一片の罪なく死することは出来ないのである。
さまざまな罪を犯していくであろう。
それを反省することは大事であるが、要は全人生において、自分が如何に善なるものを創り出していくか、
如何に善なるものを生み出していくかということだ。
たとえ罪を犯すとしても、その罪に囚われて一生を送るようでは、やはりあなたは罪の人であるということだ。
罪を犯したとしても、その反省を契機として、さらに素晴らしい人間として起ち上がるならば、
あなたは一つの罪を犯さずに善良なる人生を送った人以上の人格を築くこともできるのだ。
決して決して、罪を犯すこと自体が悪いのではないのである。
罪を犯したままの心で一生終わることが悪いのである。
これを「経験」としてみたならば、さまざまな経験として見たならば、また人間としての雅量を、人格を、
大きな器とするための契機とすることはできるはずである。
要はどのような経験を得ようとも、それを契機として、その人の人格がより一層素晴らしいものとなったか、
その経験によって本当に穢された人生となったかどうか、ということだ。
であるから特に仏教徒もそうであるけれども、キリスト教徒の皆さんに対しては、
罪の意識に対して、私はいま一つ言っておきたい。
地獄で確かに苦しんでいる人達も居る。
彼らは生きていた時に、十分反省しなかったために、いま自分の経験を通して苦しんでいる。
けれども、罪の意識というものは、罪というものは、その人とイコール、その人と同じものではない。
罪を犯したからその人が罪人ではないのである。
罪は罪であり、その人はその人であるのである。
喩えて言えばこういうことだ。鏡というものがある。鏡が曇れば人の姿も曇ってくる。
けれども、鏡が曇るということは、鏡自体が曇ったということではないのである。
鏡の表面に霧や、或いは塵芥が、そういったものが付着したということだけである。
これはまた、磨けば美しい鏡となるのである。
罪というものは、このようなものであって、拭けば無くなるものであり、
人間の本性そのものを喪うことはできないのである。
であるから罪というものは、譬えて言うならば、衣服のようなものである。
人間、何十年か生きていく間に、さまざまな衣服を着込むのである。
この衣服、間違った汚ない衣服を着てしまっているのである。
間違った汚ない衣服を着ているのであるから、この汚ない衣服を脱ぎ捨てて、
新しい清潔な美しい衣服に着替えなさい、と言っているのだ。
中味の人間自体は汚れもどうもしていないのである。
どうかこのことは忘れないで頂きたいのである。
これが四次元の説明である。
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