太陽の法 -悟りの功徳- 
2021/09/25 Sat. 11:18

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私たち人間は、一体なんのために悟ろうとしているのでしょうか。
もし悟れたとして、そこから、一体なにが得られるのでしょうか。
このことについて考えるためには、まず人間本来の目的と使命という点から考えていくことが必要です。
その出発点は、なぜ人間はこの世に生まれてきたのかということにあります。
なぜ肉体をもって生まれてきたのかということにあります。
私たちは、人間として生まれてくる以前、天上界において、霊として自由自在な生活をしていたのです。
天上界では、食物をとらなくても、死ぬことはありません。
お金もうけをしなくても、路頭に迷うことはありません。
母の胎内にて、十月十日苦しむこともなく、幼くして、
ものごとの判断がつかずに泣いてばかりいる必要もない。
青春期の性の苦しみもなければ、親子の葛藤もない。
経済的な苦しみはなく、職場で人に使われる苦しみもないし、
いやな人と会う苦しみも、好きな人とわかれるかなしみもありません。
老いるかなしみ、病気の苦しみもない。
さらには、醜くなってゆく苦しみ、子や孫にすてられる苦しみ、配偶者と死にわかれる苦しみ、
やがては、自分自身も死んでゆかねばならないという恐怖に対する苦しみ。
天上界とは、こうした苦しみがなにひとつない世界なのです。
天上界では、お互いの心がガラス張りで、だれからでもわかるため、
不調和な心をもっていたのでは、とても同じ世界にはいられなくなります。
したがって、毎日会う人びとは、みんな、自分と気心がしれたすばらしい人びとです。
そこでは、お互いが愛しあい、生かしあう世界です。
また、霊人たちは、自分の年齢は自由自在であり、ほしいものがあれば、
念えばすぐ目の前にあらわれてきます。
そして、すべての人が、少しでも神理に目覚めようと、それぞれの段階において、修行にはげんでおります。
地獄界にいる不調和な霊たちは、決して地上界に人間として生まれ出ることはできません。
彼らの心は、闘争と破壊の心であり、そのような心でもって、人体に宿ることは決して許されてはいないからです。
では、この地上に生まれかわるためにはどうするか。
まず、少なくとも、四次元幽界(精霊界)の住人であることが必要とされます。
そして、天上界の人間として、自らが霊的なる存在であり、神仏の子であるということを多少なりとも悟らなくては、
この地上に生まれかわることはできません。
したがって、最低限、なすべき反省がおわっていない場合には、そういう人は、転生できないのです。
このように、地上に生まれかわるということは、天上界にいる者にとっては、当初からひとつの試練だといえます。
また、長年地獄界にいて、やっと反省をおえた霊にとっては、
人間として再出発し、もう一度やりなおせるチャンスでもあるのです。
ですから、地上界というのは、ひとつの修行の場なのです。
天上界で自由自在に生きていた霊にとっては、肉体に宿るということは、
すなわちこれ、自らの霊性、神性が試されるときなのです。
自分の霊的なる覚醒が、はたしてほんものかどうかが、徹底的に試される場なのです。
霊的に自由自在のときに、神仏を信ずることは容易です。
しかし、この三次元の物質世界のルールの中で生活して、一体どれだけ四次元以降のルールを悟れるか。
神仏の力を悟れるか。神仏の力が働いている世界であることを悟れるか。
それが徹底的に試されるのであり、この試験にパスしてはじめて、人間は、
もといた世界以上の高次元世界へと還ってゆけるのです。
長年、地獄界で苦しんでいて、やっと反省の境地に到達し、
神仏の子である人間としての最低限の悟りを得た人びとは、
「今度こそ立派な人間になってみせる」と意気込んで、この地上界に生まれてきます。
しかし、三次元の物質世界の荒い波動に強い影響を受けて、
神仏の子としての自覚を得ることのないまま、深く欲望の世界に耽溺し、
再び天上界に還って来ることなく、さらに暗黒の地獄へとくだってゆく人もおります。
この三次元の物質世界、現象世界というものは、それだけきびしい修行の場だといえます。
しかし一方では、救いもあります。実在界においては、決して会うことのできない人びとが、
この三次元世界においては、一堂に会する。そういうチャンスがあるのです。
肉をもった光の大指導霊に会うこともできるし、地獄のサタンに心が通じている人びとに会うこともできる。
こうした人びとが、同じスタートラインに立って、オギャアと赤ん坊として生まれて、
平等に人生をやりなおす機会が与えられているのです。
すなわち、悟りの功徳とは、人生のやりなおしがきくというところにあるのです。
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category: 悟りの功徳
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