太陽の法 -押し寄せる愛の大河- 
2014/04/27 Sun. 00:02

人間として生きてゆく人生の過程において、もっとも大切なもの、いちばん輝かしいもの、
それは、やはり愛なのではないでしょうか。
私たちは、愛ということばに、その響きに、魅せられてしまいます。
愛ということばには夢があります、愛ということばには情熱があります、愛ということばにはロマンがあります。
たとえば、今日一日という日が、あなたに残されたすべての時間だとしましょう。
そして、夕べには死すべき運命であったとしても、だれかに愛をささやかれたら、
すべての人間は、幸福の微笑を浮かべて、死へと旅立ってゆくことができるでしょう。
愛なき人生とは、疲れはてながらも、砂漠を歩む旅人の人生だといえます。
しかし、愛ある人生とは、道ゆく砂漠のなかに、そのところどころに、オアシスがあり、花が咲いている人生です。
愛、それは、私たちが、その人生の途次において、もっとも価値があると思うからこそ、
もっともすばらしいと思うからこそ、もっとも光り輝いていると思うからこそ、
何とかして、いかなることをしてでも、なんとしてでも、手に入れたいと思うのではないでしょうか。
私たち、そして、全人類といってもよいと思います、そのすべての人たちが何としてでも手に入れたい、
まさしく、全身全霊をこめて手に入れたいと思っているもの、それが、愛である、こう言っても過言ではないと思います。
しかし、それを手に入れることができない、いかなる手段を講じてでも、自分のものとすることができない。
それゆえに、多くの人びとは、苦悩に陥って行くのではないでしょうか。
しかし、はたしてそうでしょうか、愛を与えられることだけが、他人からなにかをしてもらうことのみが、
そう、他人から、愛を奪い取ることのみが、本当に私たちの幸福なのでしょうか。
私たちは、ここに、その考え方を百八十度変えてみなくてはいけないのではないでしょうか。
そうです、愛の本質とは、まず、与えることなのです、この点をよくよく理解していただきたいと思います。
愛に苦しむ人びとよ、よくよく聞いてほしいのです。
なぜあなた方は、苦しむのですか。
なぜ愛において苦しむのですか、愛を与えることによって苦しむのですか。
みかえりを求めてはいけません、みかえりを求めることは、ほんとうの愛ではありません。
ほんとうの愛とは、与える愛です。
与える愛とは、すなわち、無償の愛です。
あなたが与える愛は、本来、あなたのものではないのです。
あなたの愛は、神から与えられた愛なのです。
その愛を神にかえしてゆくために、わたしたちは、ほかの人びとを愛すべきなのです。
私たちは、偉大なる神から無限の愛の供給をうけているのです。
つねに、つねに、いついかなるときも、神は、わたしたちを愛してくださっているのです。
これだけ、たくさんの、すばらしい愛を受けているのだから、それを自分ひとりのものとだけせずに、
多くの人にも、分け与えていきましょう、こうしたことを言っているわけです。
神の愛は無限です、だから私たちが愛を与えたとしても、それがなくなることはありません。
神の愛は与えれば、与えるほど、そのみかえりは神から来るようになっているのです。
神からくるみかえりとは、なんでしょう、それは、すなわち、愛を与えれば与えるほどに、
あなた自身が神近き人間になってゆくということです。
それが、神のみかえりなのです。
私たちの生命、そしてこの世界、そして、これらすべての存在は、神の念いで出来ています。
そして、神の念いが、愛そのものであるならば、この世界は、愛そのものであるといっても過言ではないのです。
肉体を去って、霊的なる目で、神の愛を見たときに、それは、おおいなる一つの大河として映ってきます。
はるかなる高次元に源を発した愛の大河が、巨大なエネルギーの川となって流れくるさまは、
まさしく壮大な景観、一大パノラマです。
愛に敵なし。
実際に、この霊的な愛の大河のパノラマを見てしまうと、
愛に敵するいかなるものもありえないことが、はっきりとわかります。
すべてを与え、すべてを押し流してゆく力だからこそ、永遠に愛にあらがいつづける悪など、この世に存在しないのです。
どうか、みなさまも、このおおいなる神の愛に感謝し、知恵をもって、勇気をもって、与える人生、すなわち、
無償の愛を人びとに与える人生を歩んでいってほしいと思います。
そうすることが、神の子人間としての、本当の幸福を手に入れることができる、悟りの道に他ならないからです。
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