出口王仁三郎霊示集 -天女の舞い- 3 
2020/07/25 Sat. 12:54

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わしの弟子で谷口雅春というのがおったけれども、あれは生命の実相とか言うて、
まあ、ずいぶん景気のいいことを言うておったじゃろう。
まあ、今流に言えば、生命の実相を言うておるのじゃ。
こういう病人だとか、悪人だとかいう、そういうどうしようもない、この世の何と言うか、見捨てられた人たち、
こういう見捨てられた人たちの心のなかにも、やはり神様としての本質があるということを教えとるわけじゃ。
つまり、地上の人を見るとね。悪人じゃとか、善人じゃとか、健康な人じゃとか、
病人じゃとか言うけれども、ほんとうは人間ちゅうのは、皆んな、神様の子であって、
一緒なんじゃということを言うとるわけじゃのう。
じゃが、通常の人間というのは、やはり自分が可愛い。自分が可愛いがために、
自分の生命を賭してまで、人を救おうとは思わぬ。
ところが、光明皇后という人は、ライ患者の膿なんか拭いとったら、自分が死んでしまうかもわからんのに、
それでも平気でやっておった。
やっていたところが、そこが光輝く、大如来と変わっていった。
ライ患者が。まあ、こういう話である。
こういう話は、西洋にもあろうのう。
ある何じゃったかのう、神父さんだったか、修道女だったか、わしは忘れたけれども、
まあ、神父としておこうか。重病患者が来てのう、
そしてどうしても助かりようのない重病患者を一生懸命介抱して、
まあ、抱きしめようとしたら、そのやせおとろえた、重病患者というのは、
実は、イエス様の姿に変わって出て来た。
主の姿であったということを、わしも何かで読んだことがある。
これなども、重病患者がイエス様に変わるというのは、まあ、おかしいわけじゃけれども、
実相においては、そうじゃということじゃのう。
まあ、病人であっても、つい昨日まで、痛い痛いと言うとった病人であって、
「死にとうない、死にとうない」と言うとった病人が、それを介抱する人の愛を受けて、
優しさを受けて、感謝の日々を送る。
昨日まで喚いておった病人、わがままを言うておった病人が、急に、その人びとの愛を受けて、
やはり考え方を変える。
ああ、私は自分の生命ばかりを言うておったけれども、ああ、人びとの、これだけの
お世話を受けて、現在があった。
一日生きのびただけでも、私はありがたいことであった。
皆さんありがとうございました。
という感謝の気持ちになって、わがままを言うておった病人が、手を合わしたとき、
その病人の姿っちゅうのは、もう観音様に変わっていくわけじゃ。
こういうのを、霊的な目がある人が見ればのう、人間というのは、そういうふうに、
悔悟したときに、光り輝く存在のように見えるわけじゃ。
つまり、弟子の谷口雅春が言うように、人間のなかには、生命の実相というのがあって、
これが万人のなかに宿っておるんじゃ、と。
生命の実相というのは、ほんとうに素晴らしい無限の光なんじゃ。
病人じゃから、健康人じゃからといって、分けへだてはない。
悩んでおる人じゃから、悩んでおらん人じゃからといって、分けへだてはない。
偉い人も、偉くない人も、何の関係もない。金持ちも、貧乏人も、分けへだでない。
生命の実相は、ただこれ光であって、その実相というものは、
自らの心を光に向けたときに、顕れるんじゃ、と。
まあ、谷口は言うとる。
弟子ながら、よう頑張っておる。ようわかっておる。よう悟っておる。
そのとおりじゃ。
そういうことであってのう、まあ、観音様の話をしとるわけじゃけれども、
そういうふうに、多くの人を救うのが、観音の役割であって、また、救われる側の人であっても、
心を改めたときに、観音のように見えることもあるということじゃ。
category: 天女の舞い
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