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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

出口王仁三郎霊示集 -天女の舞い- 3  

出口王仁三郎霊示集128-184


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わしの弟子で谷口雅春というのがおったけれども、あれは生命の実相とか言うて、
まあ、ずいぶん景気のいいことを言うておったじゃろう。

まあ、今流に言えば、生命の実相を言うておるのじゃ。

こういう病人だとか、悪人だとかいう、そういうどうしようもない、この世の何と言うか、見捨てられた人たち、
こういう見捨てられた人たちの心のなかにも、やはり神様としての本質があるということを教えとるわけじゃ。

つまり、地上の人を見るとね。悪人じゃとか、善人じゃとか、健康な人じゃとか、
病人じゃとか言うけれども、ほんとうは人間ちゅうのは、皆んな、神様の子であって、
一緒なんじゃということを言うとるわけじゃのう。

じゃが、通常の人間というのは、やはり自分が可愛い。自分が可愛いがために、
自分の生命を賭してまで、人を救おうとは思わぬ。

ところが、光明皇后という人は、ライ患者の膿なんか拭いとったら、自分が死んでしまうかもわからんのに、
それでも平気でやっておった。

やっていたところが、そこが光輝く、大如来と変わっていった。
ライ患者が。まあ、こういう話である。

こういう話は、西洋にもあろうのう。
ある何じゃったかのう、神父さんだったか、修道女だったか、わしは忘れたけれども、

まあ、神父としておこうか。重病患者が来てのう、
そしてどうしても助かりようのない重病患者を一生懸命介抱して、
まあ、抱きしめようとしたら、そのやせおとろえた、重病患者というのは、
実は、イエス様の姿に変わって出て来た。

主の姿であったということを、わしも何かで読んだことがある。

これなども、重病患者がイエス様に変わるというのは、まあ、おかしいわけじゃけれども、
実相においては、そうじゃということじゃのう。

まあ、病人であっても、つい昨日まで、痛い痛いと言うとった病人であって、
「死にとうない、死にとうない」と言うとった病人が、それを介抱する人の愛を受けて、
優しさを受けて、感謝の日々を送る。

昨日まで喚いておった病人、わがままを言うておった病人が、急に、その人びとの愛を受けて、
やはり考え方を変える。

ああ、私は自分の生命ばかりを言うておったけれども、ああ、人びとの、これだけの
お世話を受けて、現在があった。

一日生きのびただけでも、私はありがたいことであった。
皆さんありがとうございました。

という感謝の気持ちになって、わがままを言うておった病人が、手を合わしたとき、
その病人の姿っちゅうのは、もう観音様に変わっていくわけじゃ。

こういうのを、霊的な目がある人が見ればのう、人間というのは、そういうふうに、
悔悟したときに、光り輝く存在のように見えるわけじゃ。

つまり、弟子の谷口雅春が言うように、人間のなかには、生命の実相というのがあって、
これが万人のなかに宿っておるんじゃ、と。

生命の実相というのは、ほんとうに素晴らしい無限の光なんじゃ。
病人じゃから、健康人じゃからといって、分けへだてはない。

悩んでおる人じゃから、悩んでおらん人じゃからといって、分けへだてはない。
偉い人も、偉くない人も、何の関係もない。金持ちも、貧乏人も、分けへだでない。

生命の実相は、ただこれ光であって、その実相というものは、
自らの心を光に向けたときに、顕れるんじゃ、と。

まあ、谷口は言うとる。
弟子ながら、よう頑張っておる。ようわかっておる。よう悟っておる。
そのとおりじゃ。

そういうことであってのう、まあ、観音様の話をしとるわけじゃけれども、
そういうふうに、多くの人を救うのが、観音の役割であって、また、救われる側の人であっても、
心を改めたときに、観音のように見えることもあるということじゃ。




category: 天女の舞い

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