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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

キリストの霊言 -I- 9  

キリストの霊言

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私にも罪はあった

-善川-
あなたのことについて、イエス・キリストは、神の一人子であって一点の罪もなく、この世に生れ、
この世を去った方だとキリスト教を信ずる方々は言っていますが、そうであったのですか。

-イエス-
悲しいことではありますが、私もさまざまな罪を犯しました。
私はたとえば、親孝行をしませんでした。これは私の罪でありましょう。
私は兄弟たちを捨てました。これも罪であったでしょう。
とり方によっては私の声は、ある時は不遜に聴こえ、倣慢に聴こえたでしょう。
あるときは、かつての宗教、モーゼの教えを信じていた人たちを傷つけたかも知れません。
これもある意味では罪でありましょう。
しかしながら、そうしてでも実現しなければならないことがあったのです。
そうです。大きな道があったのです。
私はその過程でさまざまな罪を犯しております。
私は一つの罪もなく殺されたものではありません。

-善川-
それでは聖句の中に『もし右の目汝をつまずかせば、扶り出して棄てよ。
五体の一つ亡びて全身ゲヘナに投げ入れられぬは益なり。もし右の手汝をつまずかせば切りて捨てよ‥…』
という一節があるわけなんですが。

-イエス-
言い過ぎです。それは後の人びとがかなり誇張した形で言い過ぎております。

-善川-
言い過ぎといいますと-。

-イエス-
目を棄てよ、とまでは私は言っておりません。

-善川-
もし右の手汝をつまずかせば切りて棄てよと。
                                    
-イエス-
言い過ぎです。ただ私はそのような眼を持つなら、
眼を持たない盲目の方がましだということを言ったのです。
目を抉りて棄てよなどとは、私はいっておりません。

-善川-
そういう誡を守り、自らの腕を切った僧侶もいましたですね。

-イエス-
愚かであります。そういう話を聞くことは、非常に悲しいことです。
私たちにとって、自分の教えがその通り伝わらず、間違ったふうに伝わり、
間違ったようにとられ、さまざまな不幸を生み出すということは一番つらいことです。
私は目を扶りとれとまでは言っていないのです。
そのような眼は持たぬ方がましだと言ったのであります。




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