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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

キリストの霊言 -I- 1  

キリストの霊言


あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

今年も神理の書を紹介させていただこうと思っております。
そして、多くの皆様に真実の世界に気づいていただけたらと思います。

本日は、新年第一回といたしまして、「キリストの霊言」を紹介させていただきたいと思います。
どうかご一読くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。


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私の全生涯は旧約聖書に予言されたとおりでした

イエス イエス・キリスト -。

-善川-  
イエス様、本日はわざわざお招びたてして恐縮しております。

-イエス- 
はい -、何でしょう -。

-善川-   
まず、私たちの勉学のために、旧、新約両聖書に記述されている事柄についてお伺いしたいと思いますが、
先ほど、イザヤ様をお招きしたのですが、その際、あなたが肉体をもって
イスラエルの地にお生れになったこと、
これは旧約聖書にもありますように、はやくからイザヤ様たちによって予言されていたことですね。

-イエス- 
そうです。

-善川-  
新約聖書によりますと、イエス様のご生涯において起きた事柄は、
何事もこれは旧約聖書に書かれてあるように、
それぞれの時代における予言者が言った「予言が成就されんが為なり」という表現になっておりますが、
そのとおりであったわけなのでしょうか。

-イエス-
事実としては、どちらにしても同じですね。確かに予言はありましたし、
私は予言のとおりの生涯を終えました。
ですから「予言が成就されんが為に」という言葉はたしかにおかしいかも知れませんが、
既に私があのような生涯を送るということが、この地上に出る前に、分っていたということは言えます。
ですから、成就されんがために、という言葉に余りとらわれてはいけませんね。

私は神の一人子でもなく、また犠牲でもなかった

-善川-  
過去の人もそうであったでしょうが、現在のキリスト教の信者の方々も、
あなたのことを「神のひとり子」だと言われたというふうに解釈されておりますが、
当時あなたご自身、そういうお考えであったのでしょうか。

-イエス- 
-それは間違っております。「ひとり子」ではありません-。

-善川-  
そうですか。あなたは「われは神の子」であるとおっしゃられましたか。

-イエス- 
わたしは神の子であると申しました。しかし、ひとり子、であるとは言っておりません。間違いです。

-善川-  
そうですか。次におたずねいたしますが、これも聖書にもとづいてですが、神は、あなたを、犠牲として、
十字架につけることによって人類の罪を贖ったのだと解釈しておりますが。

-イエス- 
私は、仔羊や、山羊とは違います。
当時、仔羊を神に捧げる、祭壇に捧げて神に供養するという習慣がありましたから、
私のことを、そのように解釈されたかも知れませんが、生贄とか、犠牲とかでは私はないのです。

-善川-  
そのことについて、人類の罪が赦され贖われるということ、
ただし洗礼を受けてキリスト教を信ずるという契約においてですが -。

-イエス- 
そんなに安易に罪が赦されるわけではありません。

-善川-  
そういうふうに解釈しているのが、今日のキリスト教の主流ですが -。

-イエス- 
それは間違っております。

-善川-  
これは根本的な問題なのですが、そういうことについて、あなたはあなたの直弟子なり、
あなたの影響下にあるその筋の人を遣わして指導したことがありますか。

-イエス- 
あります。



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