親鸞聖人霊示集 
2013/11/24 Sun. 21:52

失敗をした人、過ちをおかしてしまった人、挫折をしてしまった人、
自らの無能さと愚かさから立ち直れないでいる人、
自分はなぜ、このように無能なのだろう、なぜここまで力がないのだろう、
なぜ、なにごともなすことができないのだろう。
私は、人に対して、世の中に対して、何の役にも立っていない、何の助けにもなっていない、
私は本当に不要な人間である、生きている価値のない人間である。
このような思いの中で、日々苦しんでおられる方がいるかもしれません。
あるいは、罪を犯してしまった人、はからずも罪を犯さざるを得なかった人
とりかえしのつかない罪を犯してしまった、ぬぐいさることの出来ないその事実を前に
苦悩のまっただなかにおかれている人、
その人が、その罪をおかすまで、どのような心の遍歴があったでありましょう、
それは、想像するに、あまりあるものであったはずです。
私は、とりかえしのつかない罪を犯してしまった、いま死ねば地獄の底で何百年ももだえ苦しむに違いない。
こうした人達には、もう救いというものはないのでしょうか。
世の勝者、成功者たちは言うでしょう、失敗した人たちよ、
あなたがたが失敗をしたのは、あなたたちに能力がなかったからだ、努力が足りなかったからだ、
精神力が足りなかったからだ、人間として劣っていたからである。
罪を犯した人たちよ、それは、あなたがたの信仰心が足りなかったからであり、心に中に悪があったからだ。
私たちが成功したのは、そのすべてにおいて、他の人より優れていたからである。
一般の人とは違う、優れた存在であり、特別な存在であり、善なる存在であるのだ。
はたしてそうでしょうか、世の勝者、成功者は、成功してゆく過程において、
なんらの間違いも犯さなかったのでしょうか、
多くの人びとを苦しめ、傷つけ、敵対する人を落としいれ、蹴落としてきた、
そのような事はなかったのでしょうか。
世の成功者の代表的なものに、社長というものがあるでしょう。
こうした社長という人は、そうした立場になっていくうえで、
いったいどれだけの人びとを苦しめたのでしょうか。
いったいどれだけの人を傷つけたのでしょうか、多くの人を左遷し、首を切り、
その人の家庭にどれだけの不和を、不幸を起こしてきたのでしょうか、
しかも、それを本人は善人であり、成功者であると思っているのです。
そして、世の人びとは、社長のようになりたいとうらやましがっているのです。
人を裁き、人を追いつめる立場にある人は、自分自身の心、自分自身の行いを振り返ってみるべきです。
それを問いつめるだけの優れた自分であるかどうかを、よくよくお考えになればいい。
人間、人を裁くことはできないのです。
すなわち、本当の世界とは、心の世界なのです。
外見を偉い人であるかのごとく、罪一つ犯さない人のように、取り繕うことは可能です。
しかし、心の世界は、誤魔化すことはできません。
神仏の眼から見た人間の心は、一目瞭然です。
「汝らのうちで罪なき者のみ、この女に石もて罰せよ」とイエス・キリストは言いました。
キリストは、罪を犯したことのない者と言いましたが、では、もう一歩進めて、
「汝らのうちで、悪を思ったことがない者だけ、この悪人を罰しなさい、裁きなさい」と言ったとしたら、
裁ける人は一人でもおりますか、そんな人は、だれ一人としていないはずです。
この世に生きている私たちにとっては、何が善であり、何が悪であるかは、なかなかわからないのです。
何が善であり、何が悪であるか、何が正しいことであり、何が間違っていることなのか、
それを知っているのは、神仏のみであるということなのです。
そうであるならば、神仏の前に謙虚であろうではありませんか、謙虚に生きていこうではありませんか。
神仏とは、偉大な方であります、この世界を創り、生きとし生けるものすべてをこの世界に送り込んだ方なのです。
神仏とは、私たちの父であり、母であるのです。
あなたは、あなたの可愛い子が足にすがりついたとして、それを蹴飛ばせますか、両手で抱き起こすでしょう。
人間は神仏が創られた子供なのです、神仏の分けみ魂なのです、なぜそのようにつれなくつきはなしましょうや。
その子のお行儀がいいから、その子のはい方がいいから、その顔つきがいいから抱き上げる、
その子の顔つきが悪ければ蹴飛ばす、そのようなことを神仏がなされるはずがありません。
もし、あなたが、地獄の底に堕ちたとしても、いかなる罪を犯してしまったとしても、
どのような悪にそまってしまったとしても、けっして神仏は見捨てることはありません。
たとえ、世界中の人があなたを見捨てたとしても、神仏はけっして見捨てない。
限りないやさしいまなざしで、限りない愛でもって、あなたを見守り、そこから救い上げ、
限りない幸福へと導こうとしている方なのです。
神仏の愛とは、神仏の慈悲とは、それほどまでに深く、広大なものなのです。
私たちは、このような神仏の慈悲のもとに、生かされている存在なのです。
そのすばらしい真実のもとに、勇気をもって生きていこうではありませんか。
そして、そのことが神仏の御心にかなうことであり、神仏が私たちに期待していることであるのです。
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