永遠の法 -ダイヤモンドの原石- 
2013/09/08 Sun. 15:55

今日は、「ダイヤモンドの原石」についてお話してみたいと思います。
「ダイヤモンドの原石」とは、いったいなんなのか、それはほかならぬ、私たち自身のことであります。
私たちの本質は、ダイヤモンドのようにすばらしい存在であるのです。
その事について、「永遠の法」のなかにおいて、非常にわかりやすく説明がなされています。
以下、その本文を紹介させていただこうと思います。
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「永遠の旅人」として、人間は魂の進化を求めている存在でありますが、
ここで、多くの人々の心に浮かんでくる疑問というのは何か。
なぜ高級霊や低級霊という区別があるのか、なぜ偉い人と偉くない人がいるのか、
なぜ光の天使と言われる人がいて、そうでない平凡な霊がいるのか、
神様は人間を平等に愛しておられるはずなのにおかしいではないか、と。
こうした疑問というものが、ふつふつと心の底から浮かんでくるのではないでしょうか。
それに対する答えが、本節の表題でもある「ダイヤモンドの原石」ということであります。
人間というものは、誰もが、磨けば光るダイヤモンドとして創られているのです。
このダイヤモンドは、原石として、各人切り出されている、つまり、山から原石として掘り出されている
わけでありますが、このダイヤモンドをどのように光らせるかということが、
各人の課題として与えられているのです、これが、課題なのです。
そして、誰もが、この課題から逃れることはできないのです。
私たちは、光の天使とそうでない霊とを考えて、光の天使というのはダイヤモンドであって、
自分たちは石炭殻や、あるいは、木炭、あるいはまた、河原の石ころのように考えてしまうかもしれませんが、
本来は、そうしたものではないということです。
キラキラ光るダイヤモンドと河原の石ころであっては、その差は非常に大きなものでありますが、
本質は決してそうではないのです。
すなわち、その証拠は、どのような人間であっても、磨けば魂から光が出てくるということ、
この事実によってはっきりとわかるわけです。
この比喩だけでわからないとするならば、さらに具体的に、話をしていきましょう。
たとえて言えば、地獄霊です、
よく地上の人たちは、地獄霊、あるいは、悪魔というような話を聞くと、
何でそんなものが存在するのか、そんなものの存在は許せないと、こう思う気持ちがあります。
神様は、そういう悪霊たちを退治してしまえばいいのではないか、この地上から追い払い、また、
地獄界から追い払って、宇宙の彼方にでも閉じ込めてしまえばいいじゃあないか、と、
こうした考えをもつ人もいらっしゃると思います。
けれども、これはまだ、魂の本質を知らないわけですね。
私たちの目には、地獄霊というのは非常に嫌なもの、醜くて、常に人を不幸にしようとしている姿、
こうしたものに見えますが、彼らもあるきっかけを得て立ち上がることがあるわけです、
立ち直ることがあるのです。
たとえば、私のところには、さまざまな人生相談もあるわけですが、そのなかには、悪霊に憑かれている人の相談もあります。
実際、その悪霊と直接話をしたことも数多くあります、そうしたときに感じるのは、結局のところ、
彼らは、ほんとうのことを知らないということです、霊の本質を知らない、人間が肉体ではないことを知らない、
善いことをせねばならないのだということを知らない、自分が地獄にいることさえ知らない、
こうした知らないづくしの地獄霊なのです。
ですから、こうした彼らに、ほんとうのこと、すなわち真実真理を教えてやったときに、
彼らはハッと我に返ることがあります。
ハッと我に返って、「しまった、自分は今まで偽りの人生を生きてきた、このままではいけない。
自分はまっとうな生き方をせねばならない」と、悪霊と言われる人びとも、こうしたことに気がつくことがあります。
その瞬間です。真っ黒に見えていた霊体が、光を放つのです。後光が射してくるのです。
彼らの薄ぼんやりした頭の後ろからも、後光が射してきます。
では、なぜ後光が射すかです。もし彼らが、河原の石ころであったら、磨いても光はしないはずです。
しかし、磨いたら光が出るということは、彼らが悪霊やサタンと言われる者たちであっても、もともとは、
ダイヤモンドであるということなのです。
ダイヤモンドの原石なのです。
だからこそ、光が出るのです。
ただ、そのダイヤモンドの原石が、すすで曇ったり、あるいは、泥にまみれているだけなのです。
だから、通常人の目からみれば、泥にまみれたダイヤモンドなのにもかかわらず、ただの石ころだと思えて、
捨ててしまいたくなることがあるのです。
しかし、川の水で洗えば、その石ころは、燦然と、また光を放ち始めるのです。
こうしたところに無限の可能性があり、そして、無限の可能性を与えられているというところに、
神の無限の愛というのが現われているのではないでしょうか。
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category: 永遠の法
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