運命の開拓 -神の栄光- 8 
2019/01/09 Wed. 22:27

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六: 健 康
肉体は霊の影である。
さすれば、病ということに関しても、我らはここに一つの結論を出すことができると思う。
肉体が霊の影であるならば、肉体の病というものは、本来存在しないということである。
これは実相の世界において、レンズが単に曇っておるということと同じであるということを知れ。
レンズそのものに曇りがあり、レンズそのものに歪みがあったことを知れ。
しかして実相の姿が完全なることを知れ。
ではこのレンズを完全に戻すための作業とは、一体いかなる作業であるか。
それは神の心を心とした生き方ではないか。
神の心を心とした生き方とは一体何であるか。
それはまず、繁栄を求める心であり、美を求める心であり、日々に新生を誓う心ではないのか。
日々に善きものとなっていこうとする心ではないのか。
よいか。悪によって毒されてはならん。迷いによって毒されてはならん。脅かしによって怯んでもならん。
本来の完全なる実相をこの地上に投映するために、このレンズのひずみと、レンズの汚れを取り除くしかないと思え。
そしてこのレンズを調整するための原理は、神の子としての本源に立ち戻るという作業であることを知れ。
その作業とは、人間とは善きものであり、光の子であり、光そのものであり、
発展であり、繁栄であり、美であるということを悟ることである。
神の子としての自分を顕現しようとせよ。本来の自分を出そうとせよ。
それがすなわちレンズの歪みを直すこととなるであろう。
まず神の子としての自覚を持て。
神の子が病にかかるか。神の子が死ぬか。神の子が挫けるか。神の子が不運をかこつか。
神の子が不遇を嘆くか。神の子が失敗をするか。
そうしたことをよくよく自問自答せよ。
そして、神の子にそういう姿が本来ないということを知った時に、勇ましく立ち上がらざるを得ないのだ。
いざ、勇ましく立ち上がって、本来人間はそんな迷いに引っかかる存在ではないということを知ることだ。
勇ましく両足で立て。神の子よ、立て。
神の子が薬を要するか。神の子がベッドを要するか。神の子がなんで悩むのか。悩んで何の得があるか。
本来完全であるにもかかわらず、不完全な心を描いて、不完全な姿を描いて、自分で自分の心にそうした像を描いて、
そしてその映像におどらされて苦しんでおるのが自分の現在の姿ではないのか。
本来完全だということを知れ。
本来病もないということを知れ。
健康しかないということを知れ。
なぜなら汝らは神の子であるからだ。
病は本来ないということを知れ。
こんなものに迷ってはならん。
こうした病があるという、病が実在するという迷妄によって、世の人びとは暗示にかかっておるのだ。
そして人間である以上必ず病にかからねばならんという、こんな錯覚に陥っておる。完全なる間違いである。
人間というものは、一生病にかからずに生きるのが本来の姿であって、
誰をもがそういうふうに生きることが可能なのである。
そういうふうに創られておるのである。
病にかかるようには創られてはおらんのである。
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