運命の開拓 -神の栄光- 7 
2019/01/08 Tue. 22:26

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五: 肉 体
さすれば、人間よ、肉体とはこれ霊の影なることを知れ。
肉体はこれ霊の影。
霊あってこその肉体である。
肉体というのは誓えて言えば、映写機において投ぜられたる壁の絵にしか過ぎない。
スクリーンの絵にしか過ぎないということを知れ。
汝ら映画にて人物が動けるのを見ても、それを本物の人物と思わんであろう。
ただ、映画をみておる中において、登場人物が実在の人物かのごとく錯覚するであろう。
すべてあのようなものだ。
肉体というものは霊の影である。
スクリーンに映し出された心の映像にしか過ぎないということを知れ。
したがって、映像が歪んでおったり、映像が曇っておるのは、これは映像の責任でもないし、
映像の作用によるものでもない。
映像の映りが悪いのは、これは根源なるところにそれを妨げるものがあるからである。
映写機のレンズが曇っておるか、壊れておるか、フィルムに傷がいっておるかということなのである。
すなわち、肉体はこれ霊の影であるならば、肉体に現われたる変調は、
これすなわち、魂の影であるということを知れ。
肉体に現ずる不調和の前に、魂に現ずる不調和。
その魂は肉体的に宿れる霊の姿なり。
しかして霊の中に何らかの病めるものがあるということを知れ。
霊の中にある病めるものとは何であるか。
それが思いの曇りということではないのか。
たとえフィルムが完全なものであっても、フィルムにゴミ、ほこりが付いておっては完全な映像は映らんであろう。
フィルムが完全であっても、映写機のレンズが曇っておっては完全な映像は映らんであろう。
同じだ。
地上に現われたる肉体人間の姿というものも、これは放映されておる映画と同じであるから、
この本源なるものの近くに何らかの曇りができておるということである。
あるいは本源なるものにかぶさったレンズに傷みが生じておるか、歪みが生じておるということだ。
すなわちこれ霊の本体の表層に悩みあり。間違いがあり。こうしたことである。
さすれば人間よ、霊の本質のそば近くに、人間の心といわれている領域があることを知れ。
その心の領域の浄化こそが、汝らに課せられた使命であるということを知れ。
したがって、その心を良くするためには、霊の実相そのものを汝の心とせよ。
実相こそ、原点とせよ。実相こそ、本来の姿とせよ。すなわち、汝の心を神の心と同じくせよ。
さすれば、肉体の不調和は消えていくしかないのである。
本来実相において完全なるものであるから、その完全なる実相をこの地上に投映した時に、
この地上の投映もまた、完全とならざるを得ないのである。
このことを知れ。この事実を知れ。この真理を知れ。
肉体を実在だと思えばこそ、人の心は千千に乱れるのである。
しかし、肉体は実在ではない。それを知れ。それは霊の影だということを知れ。
そして、現にある物質、物体と思いしものは、実は、小さな粒子の集まりであるということを知れ。
そしてその小さな粒子を創り出しているものは、念であるということを知れ。
念が集まりて物質を創っておるということを知れ。
そして念がどのように集まるかということを決めておるのは、すなわちこれ、人間の心であり、思いであるということを知れ。
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