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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

運命の開拓 -神の栄光- 5  

運命の開拓128-182


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四: 霊

神の栄光を語る時、霊の本質ということを考えないわけにはいかないのである。

人間はこの霊という言葉に、摩詞不思議な印象を与えておる。

そうして、この霊という言葉に、良くないイメージを持ち、良くない響を持ち、不吉なイメージを持って、
自らの肉体であることをよしとしておるのではないだろうか。

まるで、自分の衣服が自分自身であるかのように、鏡に映った自分の姿を誤解する者がいる。

しかし、衣装は衣装であって、人間そのものではないということを知れ。

霊というものの本質を知って生きていくことが、本当の神の心のありかを教えてくれるのである。

人間は、過去、何百回、何千回となくこの地上に生まれきて、
あの世とこの世の間を転生輪廻してきておる存在なのである。

それが、この神が創られた世界の秘密であるのだ。

そしてそれは当然の原理であり、原則であり、誰もが否定できない真実である。

しかし、その真実を忘れ、霊ということを見落としておるのが、ほとんどの人間ではないであろうか。

霊ということを否定することをもって、知識人の代表であるかのように語っておるのが、
現在の代表的な人たちの考えではないだろうか。

霊ということでもって肩をすくめ、霊ということでもって恐れおののき、霊ということでもって線香か抹香か、
そうしたものを思い浮かべるようであっては、人間とははなはだ情ないものである。

それは、自分の本当の名前を忘れ去って、自分の本当の住処を忘れ去った迷子の姿であるのです。

人間は迷子になってはならぬ。あくまでも本当の姿、自分の本名というものを忘れてはならん。

本名はすなわちこれ霊なり。肉体はこれ仮の名なり。

こうしたことを忘れてはならない。

それでは、霊とは一体何であろうか。

霊とはすべてのすべてである。まずこれを知れ。

ただ、この霊の中に、さまざまな霊があり、霊姿がある。

地上におる霊的能力者が、霊を見たと言っても、霊を感じたと称しても、これにさまざまなる、甲乙なる霊姿がある。

ある時には病める霊あり。ある時には病もないのに病を見て苦しめる霊、傷もないのに傷を痛がる霊、
心臓もないのに心臓を病む霊、胃もないの胃が痛いと訴える霊がある。

これらは、霊の本質を知らぬ者だ。



-神の栄光- 4

-神の栄光- 6



category: 神の栄光

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