運命の開拓 -神の栄光- 3 
2019/01/04 Fri. 16:17

----------
三 美
神の栄光というものを考えるとき、私たちは「美」というものを考えざるを得ない。
なぜこの世に美というものがあるのか。なぜ美しさというものがあるのか。何をもって、美しいとしておるのか。
私たちは、これらのことを深く深く知らねばならんのである。
美とは何か。その美の本質とは何か。世によく言われることは、
美の本質として女性の美しさをよくあげられる。
確かに女性は美しく見えることが多い。ただ、その美しさは一体どこから来ておるのか。
その髪の黒さか。その髪の長さか。そのまゆ毛の濃さであるのか。その目の大きさであるのか。
その鼻の筋が通っておることであるのか。その口もとの美しさであるのか。
一体何をもって美と言うのか。この定義ははなはだ難しい。
されども、人びとは、あるものを見て必ず美しいと言う。あるものを見て醜いと言う。
人びとには、それが定義される前に、美というものをすでに知っておるのである。
一体では、どこでその美なるものを、美しきものというものを彼らは学んだのであるか。
空を見て美しい思う。夕焼けを見て美しいと思う。大海原を見て美しいと思う。
花が咲くのを見て美しいと思う。女性を見て美しいと思う。
こうした美しいと感ずる感情は、決してこの世的に教えられたるものだけではないということだ。
我らは、その美しいという感情を根本において知っておるのです。
なぜ知っておるか。すなわち、神は美であるからです。
神が美である。神から分かれて来た私たちであるからこそ、
私たちは本質的に美とは何かということを知っているということなのです。
本来美しいものが美しいものを感じておるのです。
自らの心の中にあるものと共感して、外部にあるものが美しく感じられるのです。
花を見て美しいと感じるのは、その同じ美しさを心の中に持っているからなのです。
心の中に持っておるその美しさが、外部に現われたる花の美しさと共感し合い、共鳴し合っておるのです。
では花の美しさとは一体何であるか。その色か。その形か。
確かにそれらのものも、美しさを醸し出すための要素となってはおるのである。
しかしながら、花が美しいその理由もまた、花の生命力の中にあるということを知れ。
彼らも、本来美というものが何かということを知っておるのだ。
すみれの花というものは、どれを見ても美しい。すみれの花は醜く咲くことを知らない。
彼らはどう咲けば醜くなるかということを知らない。彼らはただ美しく咲いておるだけである。
それは谷間に咲こうが、花壇に咲こうが、あるいは、山肌に咲こうが、
すみれはすみれとして美しい花を咲かしておるのである。
それは、すみれであることというそのこと自体が、美しさを保っているのだ。
しかるに、人間よ、汝らに美醜があるがごとく見えるのはなぜであるか。
それは、男女を問わない。男性にしても女性にしてもそうだ。
汝らには美醜があるかのごとく見える。美しく見えたり、醜く見えたりすることがあるようにも見える。
これはなぜか。すみれはすみれ、すべてが美しくなっておる。
なぜ人間に美醜があるかのごとく見えるのか。牡丹の花はすべて美しく咲くように見える。
白百合の花はすべて美しく咲くように見える。菊の花はすべて美しく咲くように見える。
しかるに人間の男女よ、汝らはなぜ醜く見えることがあるのか。
それは、醜く見せておる心と、醜いものと見ておる心があるということだ。
-神の栄光- 2
-神の栄光- 4
category: 神の栄光
« 運命の開拓 -神の栄光- 4
運命の開拓 -神の栄光- 2 »
コメント
| h o m e |