心の探求 -心の段階- 8 
2022/09/28 Wed. 21:17

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人類を救っていると勘違いしている宗教家の場合
ただ、その心のなかをどうみるか、ということがわからないときには、
正確に判断できないことがあります。
世の宗教家をみていてもそうです。みな自分を、如来だ、菩薩だ、と思って世を救い、
人を救っていると思うけれど、実際問題、死んで地獄へ行っていることがよくあります。
これは、本人自身の客観的な評価ができないわけです。
主観的にはいいことをやっているつもりでいるけれども、
第三者から見れば、大変なことをやっているわけです。
たとえば、そのお札を身につければあなたは救われる、というようなことをやっております。
そうして多くの人たちが来て、寮銭を置いて、ありがとうございました、
たすかりました、といってよろこんで帰る。
自分は人間を歓ばしているものだから、
これはよいことをしているんだと思うけれども、死んであの世へ還ってみれば、地獄に堕ちてしまう。
そして、なぜ堕ちたかわからない。多くの人を歓ばしているのに、なぜ堕ちたかはわからない。
こういう事がいえます。
たとえば、ある人は祈りさえすればよいという事を教えます。
○○が○○でありますように、と祈りさえすれば、人類は救われる。
こんなよい祈りをしているのだから間違いはないと思って、生前指導してきました。
ところが、祈りをしている人たちの心はどうかというと、結局、救われたい、という一念で、
自分の悪いところはいっぱいあるけれども、そういうことは隠して、臭いものフタをしてでも救われたい。
○○の○○さえ祈っていればお前たちは救われるんだ、
というならば、先ほどいったお札の類と少しも変わらないわけです。
その本質は少しも変わりません。
単にナムアミダブツと一回唱えたら救われる。
というのと同じです。そうなってしまいます。
人間が救われるためには、心の浄化をしなければなりません。
心を浄化するためには、反省というものが必要なのです。
それをしないで、天照大神の御札を胸にいだいたところで、お守りを常につけて歩いたところで、
それで天国へ行けるわけではないのです。
美辞麗句だけでは、人間というのは救われないのです。
category: 心の段階
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