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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

心の探求 -心の段階- 1  

心の探求128-184


私たちの心には段階があり、それによって死後どの世界に還るかが決まります。
この地上での私たちの目的は、心の段階を高めることかもしれません。

今回は、その心の段階について紹介させていただきたいと思います。


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心の諸段階

第8章は、心の段階ということで説明を続けて行きたいと思います。

古来、仏教では、人間の心に段階があるということを、ひじょうに詳しく説いています。

仏の教えを聴くものにも、如来あり、菩薩あり、阿羅漢あり、あるいは、縁覚、声聞
こういう数限りない段階があるということが明らかにされています。

実際、この地上界を去ったあの世の世界、
すなわち、四次元以降の世界においては、さまざまな段階があります。

いま私たちはこれを大きく四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元、
そして十次元以降の世界というふうに分けておりますけれども、
それぞれの世界のなかでもまた微妙な段階というのがあります。

地上に住んでいる人間、三次元に住んでいる人間ですけれども、
この三次元のなかにも段階があるということは、なかなか理解しがたい。

上を見上げれば空があり、空から地面までの間に幾層にも高級アパートがあるわけではないから、
つまり、高層アパートがあって住み分けをしているわけでないから、
この世にも段階があるということはわからないのであるけれども、
四次元以降の世界というのは、こういう物質の世界ではない。

物質の世界ではなくて波動の世界であり、波長の世界であり、エネルギーの世界であるから、
そのエネルギーを区分する段階というのは、いくらでも作れるのです。

地上の人間が住んでいるように、床があったりするわけではないのです。

一階、二階、三階という床があって、区分されているのではなくて、
エネルギーの波長によって段階が分かれているということです。

そういうふうになっているわけです。

ただそれを、人間的に翻訳していくならば、四次元でも何層にも分かれているし、
五次元でも、何層にも分かれている。

こういうふうになるわけで、上段階、中段階、下段階、というようなことを私たちはよくいっておりますけれども、
これは決してそういうふうに仕切られたものがあるのではなくて、

心の波長に差があるというふうに考えていいわけです。

こうした境涯に区別があるということを、なかなか人間は理解できないけれども、
これをもう少しわかりやすく説明していきたいと思います。





category: 心の段階

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心の探求 -心の段階- 2  

心の探求128-184



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固体-液体-気体という水の三態

たとえば、「水」の一生というものを考えてみたいと思います。
水というのは、零度以下の時には氷になっています。硬い固体です。

この固体である氷に熟を加えてゆくと、だんだん融けてくるわけです。
それでちょうど摂氏零度の時を融点といいます。融点というのは、融ける時点という意味です。
融点といって、零度になると氷は融け始めます。

そして、たとえばビーカーの中に氷を入れて熱していれば、
氷が融け終わるまで温度計は零度から上がりません。しばらく上がりません。

そして、氷が融け終わって液体の水になると、今度は一度から、二度、三度、十度、
二十度というふうに、液体の温度が上がってきます。

そしてこの温度は、百度まで上がってきます。

百度になるとどうなるかというと、これを沸点といいますが、沸騰する点ですね。
沸点といいますけれども、ここから後は、この液体であった水が気体に変わって行きます。
水蒸気になっていくわけです。

こういうふうに、固体-液体-気体と形状が変わって行くことを「水の三態」というふうにいっております。

態というのは有様、態度の態です。水の三態といいます。
これは「水」というものを見て考えているのだけれども、「水」以外でも、同じような現象はおきます。

鉄というような固まったものがありますが、これはひじょうに硬い。

だから鉄は常に固体だというふうに、みなさまは思っておられるかもしれませんが、
鉄も結局は氷といっしょなのです。

鉄という、そういう鉱物が、冷えて固まっているのが、型になったり、スチールになったり、
車体になったり、いろいろしているわけです。

ですから、鉄もどんどん熱していけば、摂氏千五百三十度になった時に融け始めます。

まっ赤になって融けてゆきます。そして液体になります。

これは、鋳物とか、あるいは刀をつくる過程において、
みなさまはよくテレビとか、写真とかで見たことがあるはずです。

まっ赤になって鉄が融け出してゆきます。
液体になるのです。

そして、この鉄の液体も、さらに熱してゆくと、今度は、やはり気体となります。鉄でも気体となるのです。
こういうふうに、固体・液体・気体という三態は、水以外のものでもすべて同じです。

あの、木のようなものでも一緒なんです。
試験管に木を入れて、下からガスバーナーで熱していると、木がだんだん黒くなっていきます。

黒くなって今度は融けてゆきます。液体になるのです。黒い液体になってゆきます。

そして、やがて気体になってきます。

どんな物でも、そういうふうになるのです。





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心の探求 -心の段階- 3  

心の探求128-184



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氷の融点と死後の世界

そこで、その代表的な例としての水をもう少し考えていきますが、
固体であったものが熱を加えていくと、ある段階で融け始める。

これを融点といって、氷が融け終わるまではこの温度は上がらない。
ところが完全にとけ終わるとあとは液体になって、急速に水の温度は上がってくる。

つまり、温度計が零度から上がらない時間というのが暫くあるわけです。

暫く零度でズッーと続くわけです。融けきると温度が上がっていく。こういうふうになっています。

これをみると、肉体人間がちょうどあの世へ還る時と同じであります。
肉体という物質にあたるものが氷という固体です。これにあたっているわけです。

ところが、肉体というのは、寿命が来て滅んでゆきます。死んで焼き場で焼かれます。
焼かれるという時が、結局、融点にあたるわけで、肉体ではなくなって灰になっていきます。

そこで、灰になって命というものがそれで終わるか、終わらないか、ですね。

この物質的な肉体という実感があったものが、焼かれて、灰になって、空中に消えてしまうけれども、
その肉体を支配していた活動エネルギーそのものは、これは無くならないわけです。

これが魂といわれる境涯です。

あるいは、四次元という世界の、幽体というものになっているわけです。

よく地上で幽霊が出るといわれますけれど、この幽霊というのは、肉体から出たばかりのそうした生命体、
まだ肉体としての形状をそのままとっているような魂、これが幽霊になっているわけです。幽体ですね。

これはちょうど水でいえば、氷が溶けて液体になった部分、この段階です。

それがだんだん熱して温度が上がっていくと、先ほど、霊的な階層があることをいいましたけれども、
たとえば、零度-五度、五度-十度、十度-十五度、十五度-二十度、と目盛りがあるのと同じです。

そしてたとえば、人間の体温というのが、三十六度-三十七度ですけれども、
試験管の、あるいはビーカーの水が,熱せられていても、二十度くらいまではひんやりとして冷たく感じます。

人間の手を入れてひんやりと冷たく感じるあたりまでを幽界と考えればいいわけです。

四次元幽界世界が、この手を入れるとひんやり感じる程度の世界と考えればいいわけです。

ところが、二十度を過ぎて、三十度くらいになってくると、体温と似てきたような暖かさになって来ます。
ちょうど二十五度くらいから、三十五度くらいまでの問、これは人肌に近い生暖かい感じになってきますね。

これは大部分の人間が親近感を感じる世界、
つまり、あの世の世界でいうと、五次元の霊界世界というのと似ているわけです。

ところが、水の温度がもう少し上がってきて、三十七度-三十八度から四十度-五十度くらいになってくると、
お湯という感じになりますね。

ちょうど、お風呂に入ると気持ちがいい、シャワーを浴びると気持ちがいい。
こういう温度というのは、四十度すぎたあたりの温度ですね。温かいという感じがします。

この、シャワーを浴びたり、お揚に入ったりして、
ちょうど体が温まって気持ちが良いというくらいの温度というのは、
たとえば、六次元神界の段階なんです。





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心の探求 -心の段階- 4  

心の探求128-184



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結局、水というのも、熱エネルギーを加えられてだんだん温度が上昇していくように、

人間の霊的階層というのも、その本人の光のエネルギー、
光子体エネルギーが増えれば増えるほど、階層が上がっていくわけです。

つまり、熱せられたら、四次元から五次元、五次元から六次元へと上がってゆくわけです。
それだけ光エネルギーの熱量が多いわけです。

こういうふうに、お風呂に入ったり、シャワーを浴びたりする温度が、ちょうど神界。

温かく感じるぐらい。地上の人間と比較すれば、優れている、立派である、輝いている
ように感じる段階というのは、六次元の段階です。

さらにこの上に、七次元菩薩界という世界があります。
これが昔からいう愛の世界であるし、人助けの世界でもあるわけです。

西洋的には、光の天使、天使たちの世界です。

こういう世界があるけれども、こうなってくると、通常の人間からいくと、
ちょっとその限界を越えてきた形になるわけですね。

そうすると、これはどうかというと、お風呂に入るには少し熱すぎる温度です。
五十度を越えて、六十度-七十度くらいになります。

この段階というのは、ちょっとまあ、湯のみにお湯を入れて飲む、
お茶を入れて飲む、六十度-七十度ですね。六十度くらいが飲みごろでしょうか。
ちょうどこういうものですね。

体全身をその中にどっぷりつけるには熱すぎるけれども、湯飲みに入れて、
お湯として飲む分には、ひじょうに幸福感がある。ありがたいという感じがします。

感謝の気持ちがわいてきます。

ありがたさというのが出てくるのが、五十度-七十度くらいの間です。





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心の探求 -心の段階- 5  

心の探求128-184



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水の沸点と如来界のエネルギー

ところが、八次元の如来界という世界に入って来ると、これはさらに温度が上がってきます。

これは七十度-九十度くらいの世界です。かなりこれは沸騰してくるわけです。
お湯の中でもぶつぶつと泡が出て、一部分気体となってきているのですね。

気体が出始めている。七十度-九十度の間には沸騰の現象の一部が出てきて、
フラスコの、あるいはビーカーの底から泡がぶつぶつ出てきています。

明らかにこれは熱湯だということを感じます。
通常の人だと、手を入れると火傷をします。

これはちょうど魂の境涯と同じで、通常の人が間違って八次元如来界などに連れて行かれると、
目がつぶれてしまうぐらいの強い光、あるいはエネルギーに圧倒されてしまうのです。

ひじょうに眩しくて眩しくて、真昼の太陽を見上げるような感じです。火傷をしてしまいます。
けれども、火傷をするような熱湯であっても、それなりの使い道はあるわけです。

消毒をしてみたり、熱湯で消毒することもできるし、
飲む前も、先ほどいったように湯のみに入れるお湯の前段階として、お茶の葉にそそいだり、
紅茶やコーヒーにも使えますね。

そのくらいの温度になってきます。いいものを、そういうふうに出して行くための温度ですね。

あるいは、緑茶の色を出していくためのいい温度になっていきます。
こういう、まあいわば、さらに高度なもののためにあるわけです。

ところが、さらにガスバーナーで温度を加えていくと、九十度を越えてきます。

九十度を越えて、百度近くになると、もうボン、ボンと泡がわき立つと同時に、
水の表面から盛んに気体になっていきます。

ですから、九十度、九十八度-九十九度、百度くらいになってきますと、
もう液体ではなく、全部、気体になってきます。

この、液体ではなく、気体になる瞬間は、何であるか。
もう、人間ではなくなる瞬間、人格を持った霊ではなくなる瞬間ですね。

ですから、九次元世界の住人というのは、人格を持った霊であるところの、最後の姿なんです。
水でいえば九十度-百度の姿なんです。

百度を越えて気体になってしまうと、もう水でなくなる。
目にも見えない。掴むこともできない。ただ気体として、蒸気としてあることはわかる。

ただ蒸気となってしまうと、これはまた大きな力を持っている。
蒸気はタービンを回すこともできる。蒸気機関車を動かすこともできる。

このように、さまざまな力を持っています。大きな力です。

また水がそういう水蒸気になると、その体積というのは、何百倍、何千倍にふくらんで行きます。
それだけ偉大なものなんですね。

通常の人間は、魂というものも肉体の中ヘスッポリ入っている、肉体と同じ大きさだと思っているけれども、
高度に過熱し、熱エネルギーを吸収した魂というのは、水が気体になるように、数百倍、数千倍の体積となってきます。

それだけ大きなエネルギーになっていくわけです。

したがって、地球を司るエネルギーになったり、宇宙に遍満するエネルギーとなっていくわけです。
こういうことがいえます。

このように、あの世の世界というのをそのまま認めることはできないとしても、
ちょうど私たちの近くにある、手頃な水というものの三態、三つの態様というものを見てみると、その変化がある。

水にさえエネルギーの量によってその形とあり方に変化がある。

冷たい氷から溶けて普通の冷たい水となり、冷水から温水となり、温水から熱湯となっていき、
熱湯からさらに水蒸気となってゆく、こういう循環があるのに気がつきます。

これは、氷というものだけを実験上の形としてみたわけですけれども、大自然のなかに流れる水というのも同じです。

河となり、海となって、水というのは地球を潤していますが、
これは太陽の熱エネルギー、光のエネルギーが加わると、蒸発していって水蒸気となる。

水蒸気が、また空中で固まって雲となってきます。雲が、今度、また雨を降らします。
あるいは雪を降らします。こうしてまた川となっていきます。こういうふうに循環しています。

同じように、人間の生命エネルギーというのも、先ほどいった氷と冷水、温水、熱湯、水蒸気、
このどの段階になるかはいろいろありますけれども、何回も循環しているわけです。

熱せられては、また冷やされて水となり、また溶かされては液体となり、また氷となる。
こういうふうに永遠の循環をしているわけですね。

この例でもわかるように、熱エネルギーの量によって、結局、魂のあり方、
それが変わってくるということですね。

これがあの世の世界がエネルギーの区分の世界であり、
上層界に行くほど、強度なエネルギーを持っている点です。

正しくこの理由のためなのです。





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心の探求 -心の段階- 6  

心の探求128-184



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人間の悩みと心の管理

さて、いま、科学的な鋭明として心の段階について話をしましたけれども、
これをもうちょっと思想的段階として、追究していきたいと思います。

まず、生きている人間は、一日のうちでさまざまな想いというのを持っています。

これはどのような人であっても、肉体を持っている以上、
一日のうち立派なことばかりを考えているわけでもなく、悪いことばかりを考えているわけでもありません。

朝起きてから夜寝るまで、夜眠っても、夢のなかでさまざまなことを思っておりますけれども、
善いことも思うし、悪いことも思っています。

完全に天国で草を食んでいる羊のような姿ではいられないのです。

いろいろなことがある。いろいろな人との出会いがあり、いろいろな仕事があり、いろいろな雑用がある。

こうしているうちに、人間は心の針が動きます。

女性であれば、せっかく瞑想していたと思っても、
素敵な男性から電話の一本も入れば、もうそれで心の針が揺れ動く。

男性にしてもそうです。今日は会社へ行って真面目に一生懸命自分の将来をかけた仕事、
その結論を出そうと思って、電車に乗り込んでも、電車の座席の前に美しい女性が座っていると、
それでもう心が宙に飛んで行くわけですね。こういう事があります。

仕事をしていても、これが世の中の役に立つと思いつつも、しかし、
それにしても空しさというものがつきまとってくる。

どうしても空しさがつきまとつてくる。これが自分の本来の仕事だと思えない。

こういうことで、心のなかが悶々としてきます。

人間の心のなかには、常に悩みというものがあるのです。地上に四十億、五十億の人間がおりますが、
このなかで悩みのない人間がいるかどうか。これを個別に聞いたら、おそらく、ほとんどいないはずです。

悩みのない人間がいるとすれば、考えることのできない人間でしょう。
そういう人間もなかにはいるでしょう。

何も考えない人間というのはいるから、その人には悩みがないといえるかもしれませんが、
考えるということができる人間にとっては、悩みがない世界というのは、ありえないということになってしまいます。

人間というものは、気がついてみれば、何かを思っている。その思っていることが、
たいていは悩みになっているはずです。

その悩みというのは、自分の過去に対する思いであったり、あんな事をしてしまった、
こんな事をしてしまった、という思いであったり、あるいは、

現在どうすべきか、こうすべきかという現在の選択の悩みであったり、
あるいは将来に起きることが善いことだろうか、悪いことだろうか、悪いことが来るのではないかと思ったり、

善いことが来そうだけれども、その善いことというのが、本当に実現するかどうか、これも悩みになります。
そして、未来の事を悩んでいるけれども、それが現実になったら現実になったで、それもまた悩みになります。

現実がすぎ去って過去のものになったとしても、ああすればよかったと思う。
いつまでたっても悩みというのが心を去らないわけです。

これは、心の管理のしかたというのを教わっていないからです。

そういうことをあなたは悩んでいますねと、他の人からいわれないと、それがわからないからです。

常に悩んでいるけど、それが、いわれないとわからない。

主婦であっても、自分の子どもが病気であれば、買いものをしても、食事をつくつても、
編物をしていても、洗濯をしていても、一日中、子どもの事ばかりを考えている。

これは、他人から指摘されないとわからないのです。

人間の心は、何を描くかということが自由であるにもかかわらず、
いつも心のなかを占領しているものがある。

それが丸一日、心を占領していますよ、ということを他人様からいわれないかぎりわからない。

こういう事実があります。





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心の探求 -心の段階- 7  

心の探求128-184



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心の段階はその人の心を一日中占領しているもので決まる

結局、心の段階というものは、一日中その人の心のなかを占領しているものが何かによって決まるのです。

たとえば、上段階の光の指導霊の世界、愛や慈悲にあふれた、如来や菩薩の世界に住む人たちというのは
結局一日中どうしたら世の人びとを幸福にできるかということを中心に考えているわけです。

こういう人と、たとえば一日中あの人が憎い、うらやましい、くやしい、
こういう怒りの波動ばかりで心をいっぱいにしている人と、その段階が違うことは明らかです。

ただ心というのは、肉体を持っている人間では見透かすということができないから、
互いにわからないでいるだけです。

自由にまかされているのです。自由であるから、また恐いわけです。

同じように、肉体に入っている心は、万人が持っているけれども、お互いにわからないで生活している。
朝起きて朝ごはんを食べて、そして晩ごはんを食べて、夜眠ると、こういう循環はみな同じです。
だから同じ人間だとみな思っているけれど、心の段階には差がある。

また、地獄という世界があるといわれるけれども、地獄に行くか、行かないかということは、
死んでみなくても、もうわかっているのです。

自分の一日の間、心を占めている問題が何かを考えればよい。

その問題というのが、自分だけが都合よくて、他人が悪くなるような事ばかりを考えている人は、
もう生きながらにして心は地獄に行っているということです。

魂は地獄の住人になっているということなのです。

くやしい想いばかりで一日を生きている人。妬みの想いだけで一日を生きている人。
あるいは、怒りの炎で焼かれながら生きている人。これは生きながら地獄です。

生きている間にこれを解決し、清算しないかぎり、死んで赴くところも同じところです。

妬んでいる人は妬んでばかりいる人のいるところへ行くのです。
怒っている人は、怒りばかり持っている人のところへ行ってお互いが怒るわけです。
愚痴る人は愚痴ばかりの人のところへ行って愚痴ります。

もうはっきりしているわけです。

ところが、心のなかで美なら美、美しいものを求めている人がいます。
芸術家なら芸術家です。

美ばかりを求めて心のなかで美しいものは何だろうかといつも考えている人というのは、
また死んであの世へ行っても、そうした人たちのいる世界へ行くことになります。

また心美しい音楽家もいます。道を歩き、仕事をしながらも、あるいは本を読みながらも、
心のなかはいつもメロディーを想い浮かべている。新しいメロディーを探している。

こうした人たちは、死んであの世に行っても、そうしたメロディーのある、美しい音楽家の世界に行くでしょう。

また、生きている時にどうやって人を救えるかばかりを考えている人たちは、
死んであの世に行っても、そういう人だけの世界、如来や菩薩の世界へとやがて行くでしょう。

私はそう思います。

ですから、結局は、その人の心のなかなのです。





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心の探求 -心の段階- 8  

心の探求128-184



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人類を救っていると勘違いしている宗教家の場合

ただ、その心のなかをどうみるか、ということがわからないときには、
正確に判断できないことがあります。

世の宗教家をみていてもそうです。みな自分を、如来だ、菩薩だ、と思って世を救い、
人を救っていると思うけれど、実際問題、死んで地獄へ行っていることがよくあります。

これは、本人自身の客観的な評価ができないわけです。

主観的にはいいことをやっているつもりでいるけれども、
第三者から見れば、大変なことをやっているわけです。

たとえば、そのお札を身につければあなたは救われる、というようなことをやっております。

そうして多くの人たちが来て、寮銭を置いて、ありがとうございました、
たすかりました、といってよろこんで帰る。

自分は人間を歓ばしているものだから、
これはよいことをしているんだと思うけれども、死んであの世へ還ってみれば、地獄に堕ちてしまう。

そして、なぜ堕ちたかわからない。多くの人を歓ばしているのに、なぜ堕ちたかはわからない。
こういう事がいえます。

たとえば、ある人は祈りさえすればよいという事を教えます。

○○が○○でありますように、と祈りさえすれば、人類は救われる。
こんなよい祈りをしているのだから間違いはないと思って、生前指導してきました。

ところが、祈りをしている人たちの心はどうかというと、結局、救われたい、という一念で、
自分の悪いところはいっぱいあるけれども、そういうことは隠して、臭いものフタをしてでも救われたい。

○○の○○さえ祈っていればお前たちは救われるんだ、
というならば、先ほどいったお札の類と少しも変わらないわけです。

その本質は少しも変わりません。

単にナムアミダブツと一回唱えたら救われる。
というのと同じです。そうなってしまいます。

人間が救われるためには、心の浄化をしなければなりません。

心を浄化するためには、反省というものが必要なのです。

それをしないで、天照大神の御札を胸にいだいたところで、お守りを常につけて歩いたところで、
それで天国へ行けるわけではないのです。

美辞麗句だけでは、人間というのは救われないのです。





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心の探求 -心の段階- 9  

心の探求128-184



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心の波長と行動との関係

やはり、心の波長というものをよくしてゆかなければならないのです。

その心の波長をよくしてゆくためには、毎日毎日の思うこと、行なうことを、
清く正しくしてゆく以外にないわけです。

思いが浄化され、清くなってゆくその確認のためには、
それが行ないとして現われてこなければいけないわけです。

人間がゼンマイ仕掛けの自動人形でない以上、かってに動くようなことはないのです。
かってに手が動き、足が動くようなことはありません。

行動というものの背景には、心があります。想いがあります。

したがって、想いというものを確認できないならば、
その行動というのをみつめてみれば、想いのありようがわかります。

行動というものには、客観性があります。

たとえ、自分が如来や菩薩だと思っていても、自分のやっていること自体を見れば、
口を開けば人の悪口をいう、手を動かせば、ペンでは人の批判ばかりを文章に書いて発表しているというならば、
これが如来や菩薩の心であるかどうかは、その行ないを見れば、すぐわかってしまうわけです。

想いという自分の心のなかに対して、どうしても人間は甘くなってしまいます。
よいほうに、よいほうに、考えてしまう傾向があるわけですね。

この人たちは、行動というものをもう一度点検してみる必要があります。
行動というのは、確かによくない行動というのがあるわけです。

これが昔からいわれている道徳律です。
これに照らしてみて、よくない行動というのがあります。

道徳律に照らしてみても、人を褒めることはよいこと、人を蔑んだり、貶めたり、
悪口をいったりすることは悪いこと、というのは全世界共通のことなのです。

あるいは人を殴ったり、蹴とばしたり、傷つけたりすることは悪いこと。
人を殺すことは悪いこと。困っている人を助けることはよいこと。

こういうことははっきりと決まっていて、異論の余地はないのです。
こうした道徳律にまず照らしてみて、自分の行動というものをよく考えてみる必要があります。

行動が悪ければ心に問題があるのではないかと、次に辿っていくわけです。

行ないをみて、人の悪口ばかりをいっている自分であるならば、なぜ悪口が出るのであろうか。

この原因を追求して行けば、心のなかに、たとえば、人に対する嫉妬心がある。
自分自身に対する劣等感がある。

また人より優れたいという自惚れがあるこういう原因に突きあたるはずです。
この時に、はじめてそれを反省してゆかねばならないのです。

あるいは、耳でもそうですね。聞くということ、自分の悪口ばかりが聴こえてくるという人がいるわけです。

人が褒めてくれても、褒めてくれた事は小さく、悪口をいわれると大きく聞いてしまう人がいます。
こういう人も、やはり心に問題があるといえましょう。

褒めてくれた事はすぐ「いや、そんな事はないだろう」と。
あるいは、「あれはお世辞を言っているかもしれない。おべっかかもしれない」と信じない。

悪口をいわれると本気で信じる。悪くいわれると本気になって怒る。
こういう人もいますけれども、バランス感覚が悪い。

やはり、心のなかに問題があるわけです。

こういうふうに、外的に現われたる行動というものをひとつの基準にして、
心というものをもう一度浄化し、また探究して行く必要があるわけです。

さて、そういうふうに、心の段階というのは、その日一日、その人の心を占領しているその人の想い、
これに影響されているといいました。

そして、その想いをよくしてゆくためには、その人の行ないから見ていきなさい。自分の行ないをまず正す。
悪いことをしたら、それを反省してゆくこと。

こういうふうにすることが、心を浄化してゆくことになるということをいいました。

またそのための基準、これが必要です。

これが、ある意味では、釈迦の八正道であるともいえるでしょう。
実在界の心の段階がどういうふうになっているのか。

これを知ることが、すなわち、思いの基準でもありましょう。





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心の探求 -心の段階- 10  

心の探求128-184



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四次元から九次元までの世界

そこで考えてみると、地上を去った四次元世界にある思いというのをみると、
四次元の下には、地獄界という黒くよどんだ想念界があります。

ここには、先ほどいったような、人を悪くいい、愚痴り、妬み、謗り、怒り、足ることを知らぬ欲望、
情欲のままに生きた人びと、本能のままに動物のように生きた人びと、
殺したり、妬んだり、怒ったり、傷つけたり、闘争と破壊の世界、これが地獄の世界です。

また、四次元のその上の段階を見てみると、心がまだ充分浄化されていないけれども、
一応、あの世に来て肉体を去った霊体になったところを自覚しはじめた世界ですね。
霊的なものにちょっと目覚めている段階があります。

五次元の霊界世界に入って行くと、ここでは善ということをみな知っています。
何がよくて、何が悪いか。善悪ということを知る。これが五次元の世界なのです。

善というものに心魅かれる人たちが五次元世界に行っています。
ですから、善悪の善を知らなければ、五次元世界に行けないということです。

六次元世界に行くと、善を知るだけでなく、もう少し神理を知った人たちが多いです。

神のつくられた世界というのは、真、善、美、こうしたものに溢れている世界であるということ。
人間が霊的な存在であること。また光の天使たちがいるということ。

こういう人たちがいるということを知っているのが、六次元の世界です。

また七次元の世界へ行くと、こうした神理の知識というのを充分ふまえた上で、
多くの人たちを愛して行こう、救って行こう、という人たちがいます。

具体的な実践活動に打ちこんでいる諸菩薩たちがいます。

八次元如来界へ行けばどうかというと、もちろん、諸菩薩たちと同じような気持ちもありますが、
それ以上に、法を説くという気持ちがひじょうに強い。

同胞を愛するというよりは、一段高い段階に立って人びとを指導する。
慈悲を垂れていく。そういう活動があります。

八次元を象徴しているものは、法と慈悲です。

七次元は愛、これが基準となっていますね。

九次元世界は、救世主の世界です。

新しい文明を創ったり、人類の道しるべを創り、全世界を光明化する人たちの世界です。

ですから、地上の人間でここまでくる人は数多くはないでしょう。

巷の宗教家たちは、救世主になりたいと思えば逆になって、地獄へ堕ちてしまうことはよくあります。

与えられた任務というのがあり、特殊な人たちの世界ですから、普通の人たちは真似することはできませんが、
少なくとも、自分のまわりにユートピアを創っていくことはできるはずです。

そういう意味で、だれもが小さな救世主のようになってゆけるはずです。

世を救うというのは、結局、自分のまわりから救ってゆくことが筋だからです。

自分の心を救って、まわりを光明化してゆく。まわりをユートピアにしてゆく。
こういう手順があるわけです。

こういう意味では、だれもが救世主であり、如来であり、菩薩であるといえます。

あの世には、このようなはっきりとした基準がありますから、
一日の自分の想いというものをよくふり返ってみて、どういう心が中心か、

できるだけ多くの人を救いたいという気持が中心なのか、
それとも、自分の給料さえ上がればいいのか。

自分が人から褒められさえすればいいのか、そういう想いでいっぱいかどうか。

こうしたことを点検していけばよいのです。

以上が、本章の主題である、心の段階ということです。


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