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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

心の探求 -心の構造- 1  

心の探求128-184



今回は、心の構造について紹介させていただこうと思います。

私たちの本来の姿である心というものが、いったいどのようなものであるのか。
それを感じ取っていただければ幸いです。

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心と脳の関係

心の構造ということに関して、さらに話を進めていきたいと思います。

現代日本では、心理学者、あるいは精神医学者とよばれる人たちがいろいろいます。

彼らは彼らなりに、心というものを探究したり、あるいは、心というものが何かということを、
勉強はしているわけですけれども、実際問題として、心とは何かを、十分解明できているとはいえません。

たとえば、心を大脳皮質のしわのなかにあると思っているような人がいっぱいいるのです。
しわの数が多いほど心が豊かであるとか、そういうことをいっている人もいますね。

それも本能の領域が、たとえば大脳皮質のなかの古い皮質、つまり、子供の時に作られた部分の処にあって、
新しい皮質、新皮質のなかに、いろいろな創造的な領域があるという人もいます。

あるいは、創造的な心の部分は、大脳の前頭葉にあって、後頭部の処は、スポーツの領域などを司っているとか。
側頭葉といって頭の横の部分ですね、側面の部分の側頭葉が、これが敏捷性とか、反射神経とか、
こういう運動神経とか、反射的な作用を司っているとか。こういうふうにいろいろいっている人がいます。

そこで、心の構造を述べていく前に、心と脳の関係について、しばらく話を進めたいと思います。
まず心が脳か、脳が心か、という問題になると思います。

結論から先にいえば、これは違うということになります。

脳というのは結局、心との連絡作用の場所であり、連絡回路だからです。

いわば、これはコンピューターでいう回路なんです。
コンピューターのような機械なんです。これが脳の部分なわけです。

ですから、コンピューターにインプットしている人間自身が正常であったとしても、
コンピューターのほうが故障すれば、ちゃんとした仕事ができないでしょう。

これと同じように、人間の心が正常であっても、脳みその一部が損傷を受ければ、
その結果、正確にその人間の感情をコントロールすることができません。

大脳の前頭葉が創造的領域つまり、考えたり、創り出したりする領域を押さえているというのは、
つぎのようにいえます。

つまり、コンピューターでいえば、そうした創造領域を人間の心が司っているということなわけです。
こういうふうに考えていただきたいのです。

その証拠に、たとえば、焼き場で肉体を焼かれて、脳を焼かれて、死んであの世に還っても、
人間は、魂として思考することができるということがあげられると思います。

あの世の霊たちの存在、そしてそれは、霊界通信という形で現にあるということは、
すでに数多く実証されてきているはずです。

つまり、脳みそがなくとも考えることができるし、考え方には個性があるということです。
換言すれば、霊人特有の個性というのがちゃんとあるわけです。

そうである以上、脳みそのなかとか、脳のしわで考えているわけではないということが、はっきりといえると思います。




category: 心の構造

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心の探求 -心の構造- 2  

心の探求128-184



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睡眠中の心と大脳の機能

しかし、このことに関しては、死後の世界がわからないという人がたくさんいるので、
それだけを話していても不十分でしょう。

そこで、これをもっと現実的に話をするならば、大脳が物事を考えているというなら、
では睡眠中はどうなのか、というようなことになると思います。

昼間は、いろんなことを思ったり、考えたり、人と話したり、
人の言葉を受け取ったり、いろんなことをしております。

しかし、眠っているときはどうでしょうか。人間が寝ている間に、人から悪口をいわれても、
まったく腹も立ちませんし、眠っている間に、人に褒められても、まったく気がつきません。

なかには、眠っている間に地震が起きても知らない人もいます。

夢遊病者のように眠っている間にべランダから出ていって、外で寝ていても気がつかない人もおります。
鼻を摘まれても気がつかない人もおります。

こういう事実は、神経の作用によって、大脳に刺激が伝わって、大脳が反応していると考えるならナンセンスです。

神経経路によって、大脳と連絡があって、そして大脳がすべてを考えているとするならばナンセンスで、
そうであるならば、寝ている時に鼻を摘まれても全部わかるはずですし、寝ている時に悪口をいわれたら、
それに対して、怒りがこみ上げてくるはずです。

ところが、実際、寝ているときに、何にもそういう反応がないわけです。
とくに、深い睡眠のときには反応がありません。

これはいったい何であるかということを考えると、結局、心がそこにないということです。

睡眠中に、心がそこにないということ。
こういうことがいえると思います。

脳は正常に機能しているし、心臓は動いているし、神経だって眠っているわけではありません。
それでも、そういうふうに刺激に対して、反応がなくなるということは、これは心がそこにないということです。

つまり、コンピューターには電源が入っているんだけれども、
コンピューターにインプットしているキーパンチャーが不在であるということです。

だからわからない。こういうことになるわけです。




category: 心の構造

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心の探求 -心の構造- 3  

心の探求128-184



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夢と霊界での活動

では睡眠中に、心は実際どうなっているのでしょうか。

よくある例としては、人間は、みんな夢を見ます。

夢を見て、夢のなかで、かつて大昔に行ったことがあるような世界に行ってみたり、
あるいは夢のなかで、空を飛んだり、あるいは海の底に潜ったり、地中深く落ちていったり、
いろんなことがあります。

特徴的なことは、思った処へすぐ行ける。あるいは、場面がクルッと変わったりする。
そういう経験をみなさんはされているはずです。

これは、夢のなかでは、人間は本当は単に思考しているのではないのです。

人間の脳波をとってみると、何回かに一回、一時間か二時間に一回、
逆説睡眠といいますけれども、脳波が変わる部分があるのですね。

この間に、人間は普通、夢を見ているといわれています。
一般に一晩のうちに、だいたい三回、ないし四回、この夢を見る期間があるといわれています。

脳波を調べていると、一定期間のうちに、脳波が変わるときがあるのですね。

この間に人を起こすと、必ず夢を見ていたといいます。

ところが、こういう特別な脳波を出している時以外の時に起こしても、何の夢も見ていないのです。
その期間は、単に肉体が休んでいるだけです。

しかし脳波を調べてみると、逆説睡眠といわれる時期があって、
これがだいたい、二時間周期ぐらいで起きるのです。

だから、だいたい三回から四回あります。この間に夢を見ているのです。
そして、一晩のうちに同じ夢を二回も三回も見ていることがあります。

睡眠中の人を起こしてみると、いつも同じ夢を見ています。

一回目、起こして二時間ぐらいたってまた起こしてみると、同じ夢を見ているのです。
三回目に起こすと、その夢の続きを見ているのです。

そのあと、また起こすと、その続きを見ている。こういうことがあると思います。

こうした時に、実際は夢というのを創造して、つまり、自分で映画を創って、その映画を見ているのではなくて、
じつは睡眠中に自分の心の部分は、霊界に遊んでいるということなんです。

肉体を抜け出して魂の中核でもあるといえる心は、霊界に遊んでいるのです。

その場合に、肉体が空っぽになってしまうのではないかと懸念する人がいますが、

じつは、この肉体を抜け出した魂、あるいは心というのは、玉の緒と昔からいいますが、
霊子線という銀色の糸によって結ばれているのです。

ですから実際上、霊眼で霊界の住人を見ると、本当にあの世の住人がいっぱいいるのが見えますが、
この世の住人も時々、睡眠中に肉体を抜け出して行っているのです。

そしてその人がこの世の住人かどうかは、たいてい霊子線というのがついていて、
つまり後頭部から、銀色のコード線というのがついているから、
これは地上に生きている人間だということが必ずわかります。

だから、あの世の人間でも、時々生きている人間と話ができる場合があるわけです。

それで生きている人間は夢のなかでいろんな霊人と会って話をしているのだけれども、
意識が戻ってきて目が覚めると、そうした霊人と話したということが常識では納得がいかないから、

自分に都合のいいように、意識の世界で翻訳がされるのです。

したがって、自分が実在界で全然面識のない人と会っていたとしても、地上に生きている友だちとか、
先生とかと会って話をしていたと、こういう場面設定に変わってしまうのです。

ところが、実際はそうじやないことがいっぱいあるのです。顔は友人だと思うけれど、
よく考えてみたら、友人の職業が全然違ったり、考えていること、
やっていることがその人のものとは違うんですね。

ただ友人と話していたような気持ちになる、こういうことなのです。
これは、じつは翻訳されているのですね。

憶い出した時に、それがそのままの形としては再現することが難しいから、
地上世界のことだと勘違いしてしまうわけです。

あるいは、場合によっては寝ている問に、つまり睡眠中に、生きている人どうしが、向こうも抜け出し、
こっちも抜け出して、あの世で会っていることもあるのです。

こうして夢のなかで、きれいな野原に出たり、お花畑に出たり、近代的な建物の中に出たり、
こういうことを経験された方もいるでしょうが、こういう場合は、天国の景色を見ているわけです。

ところが逆に、真暗な処に行って、いつも追いかけられている人もいます。
鬼に首を狙われているとか、地獄で釜の中でゆでられそうになって、
もうちょっとでゆで上がるところで目が覚めたとか。

こういう経験をされた方もいらっしやるでしょう。そういう人は本当は、みんな心が地獄に行っているわけです。





category: 心の構造

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心の探求 -心の構造- 4  

心の探求128-184



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睡眠中夢を見ること自体が、この世が仮の世であることの実証

こういうふうに天国、地獄が現にあって、生きているうちに、その経験を積んでいるのです。

人間というのは、過去世の記憶というのが消し去られているけれども、
これを補う手段として、神様が睡眠というのを与えられた。

そして睡眠中に、夢の時間に、あの世の霊界でさまざまな経験を積んでいて、
死んでから後で困らないようにしているわけなのです。

本来、人間が八時間は睡眠をとらなければならないように創る必要はないのです。
そんなことはおかしいし、ナンセンスです。

この三次元が完結した世界で、すべての世界であるならば、この世界のなかに生きていて、夢を見なければいけない、
睡眠をとらなければいけない、というのはじつに不自由です。

この世だけがすべての世界であるならば、二十四時間のうち八時間も体を休めねばならないというのは、
これは大変なマイナスですし、時間の浪費です。

むしろ二十四時間みっちり起きて仕事をすれば、人生はひじょうに密度が濃いです。

ところが、実際はそうではありません。

毎日八時間遊んでいるわけです。一日の三分の一です。ひじょうに能率が悪い。
これをなぜあえてやっているかです。

それをあえてやっている意味は、じつは、その間、あの世の世界に還ってきているということなのです。

そうしておかないと、本当に意識が消える時、つまり、死んだときに困ってしまうのです。

生きているときに、意識、つまり表面意識が働いているときに、霊なんかあるものか、
神なんかあるものかといっている人も、夢のなかでみんな経験しているのです。

だから死んでからのち、あの世に還ったときに、最初は肉体がないはずなのに、
それでも自分があるということにひじょうなショックを受けるのだけれども、

よくよく考えてみると、これはどこかで経験したことがある。
つまり、夢の世界でじつは経験しているわけです。みんなこういうふうに、憶い出すわけです。

最初、天国のような精霊界にきて、お花畑とか妖精たちとかを見て、
まあこれは凄い世界に来たなと思うけれども、どこか懐かしい。

よくよく見てみると、夢のなかで見たような景色だな。
ここは昔来たことがあるという感じで、思い出す。

あるいは地獄に堕ちても、何か不思議な感覚にうたれる。

自分は死んだと思ったのに、何か地獄みたいな処にいる。

よく見たら夢のなかで見たな。もうすぐ地獄に堕ちるから、地獄に堕ちる前に、
練習として夢のなかで何回も地獄に行っていたんだな。

こういうことに気がつくわけですね。そしてあの世の生活への準備ができるようにしています。

ですから、睡眠があって夢を見るということ自体が、この世がやはり仮の世界であるということの実証なわけです。





category: 心の構造

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心の探求 -心の構造- 5  

心の探求128-184



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逆にこの世の生活は、あの世から見れば冬眠と同じ

逆に、あの世の世界から見るならば、この地上に、六十年、七十年の人生を持っているということは、
向こうから見れば、魂が寝ているのと同じなのですね。

あるいは、冬眠中と一緒なのです。

本来の世界のほうでは、仕事が停止してしまって、いわば、冬眠中なわけです。

ちょうど、熊が冬の期間、三カ月、四カ月、洞窟の中に寝ているのと同じなのです。

本来の熊というのは、春から秋にかけて、餌を食べて、子つくをつくって、
そして育てて、生活していくんだけれども、冬眠期間中はじっと寝ています。

つまり、秋の間に食物を食べて寝込んでます。
まさしく、大きな目で見るとすれば、この熊の冬眠のようなことが人間にも与えられているわけです。

冬眠の周期は人によって違います。十年ぐらいで生まれ変わってくる人もいるし、
あるいは、五十年、あるいは三百年、千年や二千年単位でこの世に生まれ変わってくる人もいますけれども、

平均的にいえば、だいたい三百年ぐらいです。

つまり、実在界から見れば三百年に一回ぐらい、六十年間ぐらいの冬眠期間があるっていうことですね。

こういうふうに、三百年に一回ぐらいは、六十年ぐらい眠ってしまうのです。
その眠っている問に、何をしているかといえば、じつはその間、地上で活動しているということになります。

ですから、あの世の霊の立場から見れば、この地上の六十年の生活が終わって還ってくるというのは、
ちょうど冬眠から覚めて戻ってくるということと一緒であり、夢からやっと覚めたな、ということなのです。

つまり、あちらから見れば、この世が夢であり、あの世が実際です。そういう世界なんです。

ですから、夢のなかで、時々目が覚める、目を覚ますということがありますね。

いろんな楽しいことをやっていたかと思うと、パッと日が覚めると、真暗のなかで、
布団の中で寝ていたというのを気がつかれた方はいっぱいいると思います。

「逆もまた真なり」で、地上で生活をしていても、夢を見ている瞬間というのは、結局、
あの世からいえば、目が覚めた瞬間なんですね。

一部分だけ目が覚めてまた寝てしまった。また目が覚めた。また寝た。こういうのを繰り返しているわけなのです。

そこで夢の時間に、あの世の霊界へと魂が抜けてくると、あの世の友人たちや先生たちが

「お前しっかりやっているか。忘れていないだろうな。
本来の世界で計画して行ったことをしっかりやるんだぞ。修行するんだぞ」、
ということを睡眠中に教えているわけです。

ところが、また肉体に戻って目が覚めると、その事実を忘れてしまう。

朝の目玉焼の数が多かったとか、少なかったとか、ハムの焦げ方がすごかったとか、
味噌汁がまずかったとか、こういうことで、また妻と喧嘩をしたりするようなことを始めます。
こういうふうになっているわけなのです。

こういうふうに、この世とあの世、夢と現実というのが、実際は逆になっているわけですね。

同じような話として「老荘思想」の荘子という人が、“胡蝶の夢”という話をしております。

あるいは、“一炊の夢”というようなこともよくいいますけれども、ほんの御飯を炊いている間に、
うとうととして見た夢が、現実なのか、現実が夢なのか、わからないという話があります。

これは、唐の盧生という青年が趙州の都の邯鄲で、道士の枕をかりて、栄華の夢をみていたけれども、
目が覚めてみれば、まだ炊きかけの粟が煮えきらないくらいの短い時間であったという故事です。

このように、みなさんが今、三次元で、実際の生活をやっていると思うのが、じつは夢なのです。

大会社の社長をやっていた。大宗教家をやっていた。政治に反対してデモをやっていた。
こういうことは本当は全部夢なのです。そして現実は違うのですね。

こういうことになるわけです。

ですから、立場を変えて考えてみるということが、ひじょうにだいじです。

以上のように話をしてきましたけれども、心というのは、本当は頭脳じゃなくて、別のものなんだ。

そして心というのは、本当は魂の部分のなかの中心部分のことを心というのだということを、
私はいいたかったわけです。





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心の探求 -心の構造- 6  

心の探求128-184



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「魂」という言葉に対する先入観

さて、心とはそういうものだということを話してきましたが、次に、
その心の構造について、さらに詳しい話をしたいと思います。

昔から、魂とか、心とか、精神とかいっていますが、本当は同じことをいっているのです。

現代の日本人は、精神といったら信じます。人間は精神があるといったら、みんなそうだといいます。
百人が百人、精神があるといいます。

人間に心があるかと問えば、みんな、ありますと答えます。

ですから、街頭でアンケートをやって、「あなたは人間には心があると思いますか」と聞いたら、
百人が百人、たぶん「あります」といいます。

あるいは、「人間には精神というものがあると思いますか」、と質問したら、
たぶん百人中百人が「あると思います」というでしょう。

けれども「人間には魂がありますか」といったら、
「あります」という人は二十パーセントから三十パーセントです。

あるいは、「霊っていうのがありますか」というと、またこれも否定する人が大半になってきます。

こういうふうに、言葉に一定のイメージがついてしまって、もう本来のあり方がわからないのですね。
精神といっても、心といっても、魂といっても、本当は同じことをいっているのです。

あえて違いを述べるとすれば、魂というのは、どちらかというと、外面というのを重視した考え方です。
心というのは、その作用、機能というのを中心にみた場合のことをいっています。

そして霊というのは、どちらかというと、あの世の存在のことをいっていることが多いようです。
すなわち、多少人間的感覚が薄れて、ばんやりとした意識体となったことを、霊ということが多いようです。

これに対し、魂という場合は、人間のなかにすっぽり入っている霊的エネルギーのことをいっているようです。

まあこのように、表現に違いがあるわけです。





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心の探求 -心の構造- 7  

心の探求128-184



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魂は幽体、霊体、光子体という順で多重構造になっている

しかし、いろいろな書物、宗教的な書物を読んで勉強された方なら、おわかりのはずですが、
人間の魂あるいは霊というのも、じつは、何層もの構造でできているのです。

たとえば、肉体の内側に幽体というものがある。幽体の内側には霊体というものがある。

霊体の内側にはまた光子体というものがある。まあこういうふうな表現もあるし、

神智学系統でいえば、いろいろなブッディ層であるとか、メンタル層であるとか、
そういうふうにいろいろな言い方があります。

こういうふうに表現のしかたは異なりますが
実際に人間の魂の構造自体は、そういうふうに何重体にもなっているわけです。

ですから、いちばん外側にある肉体の次にある幽体といわれるものが、じつは四次元の乗り物なのです。

従来は肉体だけが三次元の乗り物で、肉体以外の魂というのがあるというふうに、
物質と心の世界、肉体とあの世の世界、という二分法で分けられたけれども、実際はそうではない。

肉体が三次元の乗り物であるならば、幽体というのはじつは四次元の乗り物なのです。
地上の人間が肉体をまとっているように、四次元の幽界の人間は、幽体というのをまとって生活しているのです。

ですから、四次元から五次元に上がっていくということは、この幽体というのを脱ぎ捨てます。

というと結局、地上において、肉体が死んで葬式に出会ったのと同じになるわけです。
幽体というのが死んでしまうわけです。それを脱ぎ捨てて、五次元に上がっていきます。

そして五次元では霊体という乗り物で生活します。五次元には五次元の乗り物があるのです。

それで、五次元から六次元に上がっていくときには、その霊体を脱ぎ捨てます。
そして、ある意味での光子体という姿になっていきます。

では、六次元から七次元菩薩界に上がっていくときにはどうなるのか。これに関していうと、
じつはその光子体の部分のなかにある、もっと本質的な部分がでてくるのです。

やはり一枚脱ぎ捨てます。そうして何が出るかというと、光神体とでもいうものです。

光の神の体といいますか、七次元になると光神体というような体で活躍しているわけです。

では、七次元から八次元の如来界に入ったら、どういう乗り舟に乗っているか。

如来界へいくと魂の乗り舟の名は神体です。神の体みたいになってくるわけです。

こういう乗り物を使っているわけです。

じゃ、八次元から九次元にいくとどうなるかというと、そういう体がないわけですね。
エネルギーだけになってしまうのです。

八次元ぐらいではまだそういう霊的な体があるわけです。
手が二本、足が二本あるんです。そういう体で生活している人がいる。

これを脱ぎ捨ててしまうと、結局、ガス体になってしまうのです。

そしで九次元になると、もやもやしたガス体のような、エネルギー体のような、
電磁波の魂のような存在となってきます。

もう体がなくなってくるのです。

こういうふうに、本来は色即是空とか空即是色とかいうけれども、肉体と霊体だけがあるわけではなくて、
三次元には肉体があり、四次元には幽体があり、五次元に霊体あり、

六次元に光子体あり、七次元に光神体あり、八次元に神体あり、
九次元にはもうエネルギーしかない。

光明のエネルギー、光のエネルギーしかない。と、こういうふうになるのです。




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心の探求 -心の構造- 8  

心の探求128-184



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竹の子の皮のたとえ

したがって、これを考えると、人間の心の構造というのが、逆によくわかるわけですね。

心というのはこういうふうに、竹の子のように何重にもでき上がっているということなのです。

ですから、竹の子のいちばん外の皮、荒々しい皮があるでしょう。

雨露から竹の子の中身を守って、そして土からも守っている、ごわごわした竹の子の皮があります。
昔風にいえば、日の丸弁当を包んだりする皮ですけれども、この皮が肉体です。

三次元の人間は、これにくるまって生活しているわけです。

ところが、四次元にいくと、この皮が一枚クルツと剥けます。
すなわちこれが、肉体の死です。そうすると、その内側の皮が出てきますね。
この姿で四次元では生括しているのです。

五次元へ上がっていくと、もう一回クルツと剥けます。
六次元へ行ったらさらに皮が剥けていきますね。そして段々芯が出てくるわけです。

結局、人間の心の構造というのを見ると、竹の子のようになっているのです。

したがって、すべての人間が、心の構造として、何重かの構造になっているわけです。
竹の子の構造のように。

同心円の話というのがありますけれども、同じ定点を定めて、同心円を何重にも描いていく。
こういうふうに心はできているのです。

いちばん外側の層が肉体であって、その内側が幽体。そして霊体。
こういうふうになっているわけですね。

ですから、すべての人間が神の子であり、本来神の子であり、平等であるというのは、
実は心のなかにおいて、こうした構造を持っているというわけです。

そういうふうに心の構造は、三次元の肉体の内側に四次元層、五次元層、六次元層、
七次元層、八次元層、九次元層、こう持っていて、その中核の部分、つまり、芯の部分が十次元、
ここにつながっているのです。こういうふうな何層もの構造になっているのです。

したがって、地上に降りている光の指導霊というのは、どういう方かというと、
光の指導霊で悟った方というのは、たとえば竹の子でいうと、皮が三枚剥けた部分が出ている人。

あるいは竹の子のいちばんいい芯の部分が出ている人。こういうふうになっている人のことですね。

このように、食べごろの竹の子が出ていれば、山の中を歩いていても、人間はひじょうに便利なわけです。
そこに食べごろの竹の子があるから、それをポキッと折って竹の子の刺身を作って食べることもできるわけです。

ところが、皮を被っているから、普通は食べられない。

こういうふうな違いがあるわけで、本来同じ竹の子なんだけれども、
もうすでに皮が剥けている人がいるということですね。

これがこの世的な垢や塵を落として悟った人ということです。一皮剥けているわけです。

肉体という包みを取り去って、霊的に目覚めた人ですね。

本来、土のなかで竹の子が芽を作っている時には、本当は軟らかい竹の子なんだけれども、
地上に出てくる時には、ああいうふうな皮を巻いて出てくるわけです。

自分を守るために、同じように地上に人間が生まれてくる時に、本来の心の構造だけでは柔だから、
それを守るための外壁として、肉体というのをつけて出てくるわけです。





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心の探求 -心の構造- 9  

心の探求128-184



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悟りについての平等観と差別観

ですからこの意味で、人間は平等観と差別観、両方持たねばいかんのです。

平等観としては、すべての人間が同じような竹の子であるということです。

何枚もの皮に包まれた存在であり、その中心部には、真我なる自分、
嘘、偽りのない自分、自分自身に嘘をつけない心。

こういう神の子としての自分が、その中心にあります。

けれども、差別観の面においては、それぞれの人間がやはり何枚目の皮を着ているかということは、
公平の観点からは違いがあるのです。

食べ頃の竹の子になっている人もいれば、ごわごわの皮を被っている人もいる。

こういうふうに、何層もの皮をまとっているということですね。
こういう違いがある。

ですから、悟りが進んでいる、あるいは修行が進んでいるという人は、
こういう皮が剥けた人であり、進んでいない人というのは、皮を被っている人なのですね。

こういうふうに考えればいいわけです。

このように、悟ってないとか、あるいは悪人でないとかいっても、その本当の意味は、
悪人という名の竹の子があったり、善人という名の竹の子があったりするわけではないのです。

悪人というのは結局、外に皮を被って、泥がいっぱいついている竹の子のようになっているのを悪人というのです。

いわば顔に泥がついていても、それで中身が汚れているかというと、そんなことは一切ないのです。
中身は中身できれいな竹の子があるのです。

ただ外に出ている部分は、破れたり、汚れたり、いろんなことをしているわけです。
ですから「本来悪人なし」というのはこのことをいいます。

また、「本来肉体なし」ということも、このことをいいます。

「本来病なし」というのも同じです。

肉体という名のゴワゴワした皮が外側に一枚あるだけだということです。
肉体人間が病気になるということは、つまり竹の子でいうと、皮の部分に傷がついたということです。

あるいはこれが一部破れたということです。これが病気ですね。

悪人というのもそうです。皮の部分に泥を被ったということです。
だから、この世に善人があるか、悪人があるかというけれども、善悪本来なしです。

本来は、そうした皮があるかないかの違いだけであり、これは、別な誓えでいえば、
目に鱗が入っている人と入っていない人との違いと同じです。

目の鱗が取れれば、みんな神の子。

しかし、目に鱗が入っていて、自分が悪をなしていることがわからない人が、この世の中にはいるということです。

したがって、これが本来悪なし、病気なし、ということの説明でもあるし、
人間が平等であって、また人間の心の世界に階層がある、あの世に次元の差があるという説明でもあるわけです。

結局人間は、竹の子のように何重にも重なった層として、心ができ上がっている。
そういう心の構造を持っているということです。

こういう認識から始めていった時に、初めて人間の本来の姿、これがわかるわけです。

ですから、医学者や心理学者たちは、この竹の子の皮ばかりを一生懸命勉強しているわけです。

皮のこの部分の繊維の筋のこの部分に神経があって、思考の中枢があるのではないかといっているのが、
医学者や心理学者です。本当のことを知らないわけです。

そういう誤解をとくためにも、こうした心の構造、心の仕組みが今後とも明らかにされていかねばならないのです。

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