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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

太陽の法 -一念三千-  

太陽の法


心の中の思いの針は、その内容によって即座にあの世の天国・地獄に通じてしまう。
その一念三千について、天台大師が守護・指導霊から受けた通信の内容を紹介させていただきます。

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「人の心には、念いの針というものがある。この念いの針は、一日のうちで、さまざまな方向を指し示し、
揺れ動いて、とまるところを知らない。

仏門に入り、修行にあけくれている者であっても、若い美しい女性を見ては、心の針が揺れ動く。

おいしそうな食べものを見ては、心の針が動く。

念いの針、あるいは、心の針は、他人が自分より早く悟るのを見ても、揺れ動く。

師に叱られては、また針が動く。

こうして、修行者の心はやすらぐときを知らない。

しかし、人間のほんとうの悟りは、おおいなる調和とやすらぎのなかにあり、
せわしく揺れ動く心のなかにはありはしない。

天台智顕よ、汝、よく悟りて、人びとに念いの針、心の針の指し示すべき方向を明示せよ。

念いの針が、四六時中揺れ動いては、人間には、ほんとうの心のやすらぎというものはないのだ。

磁石がつねに北を指し示すように、心の針もつねに神仏の方向を指し示すべきである。

北極星がつねに北の方向を人びとに明示するように、天台大師よ、人びとをよく教導して、
神仏の念いを念いとして生きるように導きなさい。

これが真の不動心であり、真の信仰なのだ。

心とは、まさしく不思議なものだ。その念いが修羅のごとくなれば、
心は阿修羅界という地獄に通じて、いつのまにか、闘争と破壊の人生を送ってしまう。

心の針が色情の方向に固定化されると、その念いは、地獄の色情地獄に通じ、
その針を伝って、地獄の亡者どもが、生きている人間の心に土足で入り込んでくる。

その結果、生きている者は、あるいは女性に狂い、あるいは男性に狂って、
亡者どもの情欲をはらす道具となりはてる。

神仏を求めていた者の念いの針が、どこかでねじまがり、増長慢となり、天狗となると、
異説、邪説を説きはじめ、地獄の悪魔の声を如来、菩薩の声と聞きちがえ、
人びとを迷わせては、自らも無間地獄に堕ちてゆく、あわれな求道者もいる。

あるいは、念うことつねに善で、天国の善人界(五次元霊界)に心の針が通じ、
天国の先祖や友人がつねに微笑みかけている者もいる。

またある者は、人助けにつねに心を砕き、おごらず、高ぶらず、神仏の道を求めている。
その者の心は、すでに天国の菩薩界に通じ、生きながらにして菩薩の境地にある。

またある人は、神仏の正法神理を世の人びとに伝えることのみに心の針が定まり、
その教え正しく、その人となりや清く、万人が手本とするに恥じない生き方をしている。

その人の心は、すでに生きながらにして、如来界に通じ、天上界の諸如来が、つねにその人を指導している。

このように、心の針は、不思議な働きをするのだ。
天台智顔よ、汝、この神理をよく理解し、生きてゆく人びとの修行を助けよ。

天国地獄は、死んでからあの世にあるのではない。天国地獄はこの世にあり。
この心にあり。人の念いの針は、すなわち、これ一念三千、あの世の天国地獄に、即座に通じてしまうのだ。

この真実を知ったならば、人びとは日々止観し、心を静め、自らの人生をふりかえり、
自らの一日をふりかえり、その心と行ないを正してゆくにちがいない。

天台大師よ、八正道は、まさしくこの一念三千論を基礎として生まれたのである。

天国地獄があの世に還ってからではなく、この世に生きている人間の心のなかにあるからこそ、
この世で生きたときの心が、そのまま、あの世での生き方を決めるからこそ、

人間は、八正道を人生の基本として生きねばならないのである。

八正道とは、すなわち、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく仕事をなし、
正しく生活をし、正しく道に精進し、正しく念じ、正しく定に入るべし。

この八つの道をきわめてこそ、人間ははじめて、己れの心を正しくたもち、
人間としての完成を見るのである。

天台大師よ、この八つの道を基本として、自らの心と行ないを正し、
真実の一念三千論を世にひろめなさい。

それが汝にとっての悟りであり、
世の人びとにとっての悟りでもあるのだ。


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category: 一念三千

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太陽の法 -与える愛- 1  

太陽の法



今回は愛の本質について紹介させていただきます。

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愛は最大の力であり、愛には敵なしなのです。

そこで、私は、愛が無敵であることについて、お話したいと思います。

人間は、生きてゆく過程において、さまざまな困難にぶつかります。
つまり、そうしたなかで、魂の修行をしていくわけです。

これは、あらかじめ計画されていることです。

困難とは、どういうものでしょうか。すなわち、病気があり、貧困があり、挫折がある。
失恋があり、事業の失敗があり、友人との離反があり、愛する者との離れがある。

きらいな人の出会いもあります。さらには、年を取り、醜くなり、体が不自由となり、
やがては死んでゆくのです。

こうした現象を現象とだけ見れば、人生とは、苦悩と悲しみに満ち満ちているものかもしれません。

しかし、苦悩には苦悩の意味があり、悲しみには悲しみの意味があるのです。

つまり、苦悩や苦しみがあるということは、私たち人間に、選択をせまっているのです。

選択とは、なにか。つまり、私たちのひとりひとりが、与える側の人生を選ぶか、与えられる側の人生を選ぶか。
その選択です。

愛の本質とは、やはり与えることなのです。

愛とは、神が人間に与えてくださったものを、自分ひとりのものとだけしておかずに、
人にわけ与えるということなのです。

神の愛は無限です。ですから、私たち人間が、その愛をいくら与えても与えても、
つきることはありません。

神は、私たちに、愛を供給してくださっているのです。

愛の本質とは、まず、与えることなのです。

この点を、よく理解していただきたいと思います。

愛に苦しむ人びとよ、よく聞きなさい。なぜあなた方は、苦しむのですか。

なぜ愛において苦しむのですか。愛を与えることによって苦しむのですか。

みかえりを求めてはいけません。

みかえりを求めることは、ほんとうの愛ではありません。

ほんとうの愛とは、与える愛です。

与える愛とは、すなわち、無償の愛です。

あなたが与える愛は、本来、あなたのものではないのです。

あなたの愛は、神から与えられた愛なのです。

その愛を神にかえしてゆくために、私たちは、ほかの人びとを愛すべきなのです。




category: 与える愛

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太陽の法 -与える愛- 2  

太陽の法




苦しみの原因は、自分はほかの人を愛しているのに、
ほかの人は自分を愛してくれないと思っているところにあるのです。

いえ、ほかの人が自分を愛してくれないのではありません。

自分が期待しているほどには、ほかの人が自分を愛してくれないと思うからこそ、
愛ということを機縁として、人間はひとつの苦悩におちいってゆくのです。

愛のみかえりは、ほかの人間からではなく、神からくるのです。

神からくるみかえりとは、なんでしょう。

それは、すなわち、愛を与えれば与えるほどに、あなた自身が神近き人間となってゆくということです。

それが、神のみかえりなのです。

神の本質を見てごらんなさい。神は、燦々とふりそそぐ太陽の光のごとく、
無所得のままに、無限の愛と慈悲を万物に与えているのではありませんか。

あなたたち、ひとりひとりの生命でさえも、
神に対して、一文の支払いをすることなく与えられたエネルギーではありませんか。

さすればまず、与えることからはじめてごらんなさい。

与えるとは、どうすればひとりでも多くの人びとがしあわせに生きられるかを考えながら、
日々生きるということです。

与えるとは、ひとりでも多くの迷える人びとの心に、愛の光を投げかけてゆくということです。

また、ひとりでも多くの人びとを、困難と挫折の人生から立ち直らせ、
知恵と勇気の日々を送らせるかということです。

知恵をもって、与えなさい。物質を与えることだけが、与えることではありません。

慈悲魔になることだけが、与えることではないのです。

真に与えるとは、真に人を生かす道であり、真に人を生かすためには、知恵がなければならないのです。

だからこそ、私たちは、知恵をもって、勇気をもって、与える人生、
すなわち、無償の愛を人びとに与える人生を歩んでゆこうではありませんか。

愛に敵はありません。

愛は無敵です。

なぜならば、ほんとうの愛とは、与える愛であり、無償の愛であり、
あらがうことを許さない無限の力だからです。

愛は大河です。無限の上流より、無限の下流へと流れゆく大河です。

そして、いかなる者も、この大河にさからうことはできないのです。

すべてを与え、すべてを押し流してゆく力だからこそ、永遠に愛にあらがいつづける悪など、
この世には存在しないのです。


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category: 与える愛

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太陽の法 -悟りの功徳-  

太陽の法


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私たち人間は、一体なんのために悟ろうとしているのでしょうか。

もし悟れたとして、そこから、一体なにが得られるのでしょうか。

このことについて考えるためには、まず人間本来の目的と使命という点から考えていくことが必要です。

その出発点は、なぜ人間はこの世に生まれてきたのかということにあります。
なぜ肉体をもって生まれてきたのかということにあります。

私たちは、人間として生まれてくる以前、天上界において、霊として自由自在な生活をしていたのです。

天上界では、食物をとらなくても、死ぬことはありません。

お金もうけをしなくても、路頭に迷うことはありません。

母の胎内にて、十月十日苦しむこともなく、幼くして、
ものごとの判断がつかずに泣いてばかりいる必要もない。

青春期の性の苦しみもなければ、親子の葛藤もない。

経済的な苦しみはなく、職場で人に使われる苦しみもないし、
いやな人と会う苦しみも、好きな人とわかれるかなしみもありません。

老いるかなしみ、病気の苦しみもない。
さらには、醜くなってゆく苦しみ、子や孫にすてられる苦しみ、配偶者と死にわかれる苦しみ、

やがては、自分自身も死んでゆかねばならないという恐怖に対する苦しみ。

天上界とは、こうした苦しみがなにひとつない世界なのです。

天上界では、お互いの心がガラス張りで、だれからでもわかるため、
不調和な心をもっていたのでは、とても同じ世界にはいられなくなります。

したがって、毎日会う人びとは、みんな、自分と気心がしれたすばらしい人びとです。

そこでは、お互いが愛しあい、生かしあう世界です。

また、霊人たちは、自分の年齢は自由自在であり、ほしいものがあれば、
念えばすぐ目の前にあらわれてきます。

そして、すべての人が、少しでも神理に目覚めようと、それぞれの段階において、修行にはげんでおります。

地獄界にいる不調和な霊たちは、決して地上界に人間として生まれ出ることはできません。

彼らの心は、闘争と破壊の心であり、そのような心でもって、人体に宿ることは決して許されてはいないからです。

では、この地上に生まれかわるためにはどうするか。

まず、少なくとも、四次元幽界(精霊界)の住人であることが必要とされます。

そして、天上界の人間として、自らが霊的なる存在であり、神仏の子であるということを多少なりとも悟らなくては、
この地上に生まれかわることはできません。

したがって、最低限、なすべき反省がおわっていない場合には、そういう人は、転生できないのです。

このように、地上に生まれかわるということは、天上界にいる者にとっては、当初からひとつの試練だといえます。

また、長年地獄界にいて、やっと反省をおえた霊にとっては、
人間として再出発し、もう一度やりなおせるチャンスでもあるのです。

ですから、地上界というのは、ひとつの修行の場なのです。

天上界で自由自在に生きていた霊にとっては、肉体に宿るということは、
すなわちこれ、自らの霊性、神性が試されるときなのです。

自分の霊的なる覚醒が、はたしてほんものかどうかが、徹底的に試される場なのです。

霊的に自由自在のときに、神仏を信ずることは容易です。

しかし、この三次元の物質世界のルールの中で生活して、一体どれだけ四次元以降のルールを悟れるか。
神仏の力を悟れるか。神仏の力が働いている世界であることを悟れるか。

それが徹底的に試されるのであり、この試験にパスしてはじめて、人間は、
もといた世界以上の高次元世界へと還ってゆけるのです。

長年、地獄界で苦しんでいて、やっと反省の境地に到達し、
神仏の子である人間としての最低限の悟りを得た人びとは、
「今度こそ立派な人間になってみせる」と意気込んで、この地上界に生まれてきます。

しかし、三次元の物質世界の荒い波動に強い影響を受けて、
神仏の子としての自覚を得ることのないまま、深く欲望の世界に耽溺し、

再び天上界に還って来ることなく、さらに暗黒の地獄へとくだってゆく人もおります。

この三次元の物質世界、現象世界というものは、それだけきびしい修行の場だといえます。

しかし一方では、救いもあります。実在界においては、決して会うことのできない人びとが、
この三次元世界においては、一堂に会する。そういうチャンスがあるのです。

肉をもった光の大指導霊に会うこともできるし、地獄のサタンに心が通じている人びとに会うこともできる。

こうした人びとが、同じスタートラインに立って、オギャアと赤ん坊として生まれて、
平等に人生をやりなおす機会が与えられているのです。

すなわち、悟りの功徳とは、人生のやりなおしがきくというところにあるのです。


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category: 悟りの功徳

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