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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

黄金の法 -あの世とこの世の関わり(釈迦の教え)-  

黄金の法120-175


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一番目の柱とは、実相世界と地上世界、すなわち、三次元の現象世界との関わりです。

釈迦が、常々説いていたのは、こういうことです。

人間には、生まれて来る前にそこにおり、死して、またそこに還る永遠の実相、実在世界があり、
この世は仮の世にすぎないのだ。

実在の世界が、根元の神仏の創造意思によって現出したように、
この三次元世界も、実在の世界の投影にすぎず、我々人間は、影絵の世界に住んでいるようなものである。

この影絵の世界、仮の世界こそ唯一の世界だと錯覚して、人びとは、地上に執着を持ち、
さまざまの苦しみをつくってゆくのである。

この苦しみから逃れるためには、自分が本来いた実在の世界を想い起こすことだ。

そして、物質人間の執着を断って、本来の実相人間になることだ。

さすれば、そこに生の苦しみなく、老いる苦しみなく、病の苦しみもない。

そこにあるのは、ただ歓喜の世界であり、光きらめく光明の化身としての人間なのである。

人びとよ、このことを、まず、悟りなさい、と。

これが教えの最初の柱でした。


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category: あの世とこの世の関わり(釈迦の教え)

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黄金の法 -原因あれば結果あり(釈迦の教え)-  

黄金の法120-175


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教えの二番目の柱とは、時間論です。

第一番目の柱を空間論とするならば、二番目の柱は、時系列的なものの考え方にあります。

そのひとつが縁起の法です。

この現象世界、実在世界を貫く法則は、原因と結果の法則であり、
あるできごとと次なるできごとを結びつけるもの、あるいは、ある人と次なる人とを結びつけるものを縁と言います。

そして、すベてのものごとは、この緑によって生ずるのです。

しかも人間は、永遠の時間の流れのなかで生まれ変わり続けていくという
転生輪廻の法則から逃れられない存在なのです。

この転生輪廻も、原因あって、結果ありの因果の法則に支配されております。

来世がどのような世界で、どのように生きるかは、今世をどう生きるかにかかっており、
今世の自分の魂の傾向とか、自分がおかれた環境などは、前世に起因しているのです。

しかし、逆に言うならば、今世を素晴らしく生きることによって、輝ける未来世が約束されているのだと言えます。

ですから、悪しき因縁の循環を断つためには、今世において努力精進し、
運命に翻弄されている自分の生活を立て直す以外にないのです。

これを解脱と言います。

そして、運命に支配されない金剛不壊の自分を発見することを悟りと言うのです。

しかも、悟りによって如来の境地に達すれば、人間は、因果の法則で転生輪廻することから解放され、
自分の自由意思によって、転生をすることが可能となります。

こういう教えが、二番目の時間論なのです。


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category: 原因あれば結果あり(釈迦の教え)

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黄金の法 -反省の基準(釈迦の教え)-  

黄金の法120-175



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三番目の柱は、八正道。これは、人間完成の道であり、修行者の努力精進の目安となるものです。

人間は、赤ん坊としてこの世に生まれると、実在界のことをすっかり忘れてしまいます。

すなわち、わずか一〇パーセントの表面意識だけを頼りに生きてゆくのであり、
残りの九〇パーセントは、潜在意識となって隠れてしまうのです。

しかし、インスピレーショソという形でのみ、実在界に残してきた自分の本来の意識を、
わずかに感じ取ることが可能だと言えます。

この潜在意識と、表面意識を分離しているものが、想念帯のなかの曇りです。

ですから、この曇りを取り除かない限り、本来の自己、すなわち、
一〇〇パーセントの自己を取り戻すことはできません。

心のなかの想念帯の曇りとは、生まれてからこのかたに至るまでのゆがんだ環境、教育、思想、信条、習慣、
あるいは不調和な想い、良心に照らして恥ずべき行為などによって、形づくられます。

ということは、自分が生まれてから今までに生きてきた歩みを振り返り、不調和を心のなかにつくった原因を追究し、
そうしたものをひとつひとつ反省することが大切だと言えます。

そして、その反省の基準が、この八正道、正しい八つの道なのです。

まず、自分はものごとや縁あって出会った人びとを正しく見てきただろうか。

次に、正しい言葉を話しただろうか。人の苦しみの原因のほとんどは、
無造作に他人から投げかけられた言葉や自分の発した悪しき言葉にあるのです。

しかし、正しく言葉を使うということを、自分はしてきただろうか。

さらには、正しく思うということ、これが大切です。思いは、悍馬のごとく荒々しく乱れ、
いっときとして、清浄であったことはなかったのではないか。

自分の心を透明なガラス箱だとすると、人に見られたら恥ずかしいような思いでいっぱいではなかったか。

また、正しい生活ということに関して言えば、どうでしょう。
自分は、この世を人生修行の場だと考えて、一日一生のつもりで正しく生きているだろうか。

神理を心の糧として、調和された生活をしているだろうか。

あるいは、自分は正しく仕事に励んでいるか。職業は、神から与えられた感謝行であり、使命なのです。
しかし、その使命をまっとうしているでしょうか。

あるいはまた、自分は、正しく道に精進しているか。神仏の子として迷っていないか。
常に神理の勉強を怠らず、自分を磨いてきたでしょうか。

そして、正念だ。正しい人生計画を描いてきたか。正しく神仏に祈ったか。
神仏の前で恥じないような正しい自己実現を考えているでしょうか。

最後は、正定です。
自分は、精神統一の機会を持っているか。

精神統一のはんとうの意味は、無念無想になることではなく、実在界から神の光の供給を受けることであり、
自分の守護・指導霊から導きを受けることなのです。

そして、これは、修行者として、欠くことのできない勉強の方法なのです。

こうした八正道を規準に、人間は、過去を反省し、未来を築いてゆくべきだというのが、三番目の柱です。


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category: 反省の基準(釈迦の教え)

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黄金の法 -色即是空の意味(釈迦の教え)-  

黄金の法120-175


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釈迦の思想の第五番目の柱は、空の思想です。

仏教の空の教えについてはここ二千年以上にわたって、議論が続けられてきました。

「色即是空、空即是色」の空とは、一体何なのかということです。この空とは、
本書第1章第3節で、神光物理学の第二のテーゼに述べたことなのです。

すなわち、神の光は、その凝集・拡散というプロセスによって、創造と破壊を行なうということです。

四次元以上の実在界では、神の光が目的性を持って凝集することによって、霊的実体が現われます。

その霊的実体は、一定の波動を持っており、
この波動をさらに緊密なものにしてゆくと、三次元空間に物質が現われる。

すなわち、この世の物質は、神の光の粒子の凝集によってできており、
それに一定の形を与えるものは、念という、目的性を持った精神エネルギーなのです。

したがって、その念が消滅すると、この地上の物質は、またもとの光の粒子にと還元されます。

では、光の粒子というものは、そもそも、実体として存在するのでしょうか。

本来は、その光の粒子、すなわち、光子さえも実在ではありません。

光子は、「光あれ」という神の念いが一点に集中して、
エネルギー磁場をつくって存在しているかに見えるだけであって、

神の念いが消滅すれば、光子さえなくなってしまうのです。

そして、三次元現象界は、光子が目的性を持って集合して原子をつくり、
さらに原子が集まって分子ができ、分子が集まって粒子ができ、物質ができているのです。

ですから、神の「光あれ」という念いがなくなれば、
三次元の現象界も、四次元以上の実在界もなくなってしまうのです。

これが、「色即是空、空即是色」のほんとうの意味だと言えます。

現象界で実体ありと思われているものも、分解していけば、ついには光子となり、
光子は神の念によってできているのですから、結局、実在するものではありません。

しかし、その実在するものではない光子が凝集して、
「霊子」→「陽子」→「原子」→「分子」→「粒子」となって、物質ができるのです。

これが、釈迦の 「空」 の思想のほんとうの意味だったと言えます。


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category: 色即是空とは(釈迦の教え)

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永遠の法 -あの世の世界は念いの世界- 1  

永遠の法120-171


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さて、霊的な世界のなかにおいて、地獄があるという話を今いたしました。

地獄というのは、昔話には聞いていたにせよ、現実にそうしたものに直面したとき、
人間の衝撃というものは大きいものだと思います。

そして、まさしく話に聞いていたとおり、さまざまな地獄があるわけです。

鬼のような存在もあれば、また、悪魔のような存在もある。そういうことを実際に目のあたりにして、驚くはずです。

なかには、身長が三メートル、四メートルと大きいような、そういう鬼のような霊人もいれば、
また、刃物をもって追いかけて来るような者もいる。

あるところでは、たとえば、色情地獄というところにおいては、その血の池のなかで、
ほんとうに人間がのたうち廻っている姿がある。

また、餓鬼地獄というところにおいては、昔の飢饉のときに農民たちがそうなって死んでいったというような姿で、
つまり、肋骨とあばら骨と皮ばかりになって、「食物が食べたい食べたい」と言って、
苦しんでいる人たちがたくさんいます。

また、これ以外にも、畜生道というところが現実にあります。

そこでは、人間は、もはや人間の姿をしてはいないのです。

芥川龍之介という作家が、そういう畜生道に堕ちた人の話を小説のなかにも書いておりましたけれども、
まさしくその小説と同じように、体が馬であって顔が人間、体が牛であって顔が人間、
体が豚であって顔が人間、こういう者が現実に存在するのです。

また、ヘビのようになって、大蛇となって、地獄の地面を這っている者もおります。
こうした者たちは、なぜ自分がこういう姿になったのかということがわからず、そうしているのです。

すなわち、それは、彼らが霊の本質ということを知らないからです。

霊の世界は、思ったことが実現する世界なのです。

しかし、彼らは、生前、生きていたときに思ったことは、
心の世界においてすでに実現したことだということを知らないでいたのです。

心のなかでどのような思いをもっていても、外面から見えないからかまわないと思って生きてきた人たちなのです。

肉体をもっていたときに、その心が透き通しで、何もかも見通されてしまえば、
恥ずかしくてとても人前に出られなかったような人たちなのです。

そうした人たちが、あの世の世界に還って、つまり、霊の世界に還って初めて、
自分の心のなかをすべて見られてしまって、そして、思ったとおりの姿になるということを知って、愕然とするのです。

地上に生きていたときに、人に対する妬みや怨み、そうしたものをもって生きていると、
体がヘビのように変わったのだとするならば、人間は、その間違いに気がつくでしょう。

ところが、生前はそうしたことがなく、三次元の法則のなかで生きているがために、それを知らないでいるのです。

しかし、あの世では、思ったことは、すぐ実現するのです。

たとえば、女性のことばかり、異性のことばかりに心を悩ましている人は、異性ばかりを追い求める色情地獄に堕ち、

また、たとえば、キツネのように人をだますことばかりに汲汲としていた人間は、キツネのような姿となる。

あるいは、ヘビのようにしつこくしつこく人を妬み、怨んでいた人間は、やはりヘビのような姿になる。
ここにあげた以外にも、さまざまな動物になっていきます。

そして、こうした動物霊のようになった人間霊が、その地獄の苦しさから逃れるために、
一時期地獄から這い出そうとして、地上の人間に憑依するのです。

しかし、憑依と言っても、まったく何の関係もない人に憑依できるわけではないのです。

自分の心のなかに、地獄をつくっている人にだけ憑依できるのです。

生きている人間は、心のなかにさまざまな想念の世界をつくっておりますが、
心のなかに地獄をつくっているような人だと、こうした地獄霊が入って来れるのです。

つまり、心のなかに色情地獄をつくっている人のところへは、色情地獄霊が来るし、
心のなかに動物地獄、畜生道をつくっている人のところには、動物のような霊がかかってくる。

また、心のなかに無間地獄、つまり、思想的に、宗数的に、心の面が病んでおり、
人びとを間違って指導しているような人びとのところには、そういう地獄に堕ちた宗数家たち、
思想家たち、こうした人たちが取り憑いていきます。
 
結局、地獄というのは、心の世界のなかにあり、想念のなかにあるわけであって、
地獄霊が憑依する原因は、生きている人間の心のなかにそういう地獄界があるから、
そのなかに入り込んで来るというわけなのです。

こうした不思議な世界のしくみというものについても、私たちは、知っておかなくてはなりません。



category: あの世の世界は念いの世界

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永遠の法 -あの世の世界は念いの世界- 2  

永遠の法120-171




地獄で苦しんでいる霊が、決まって、いつも言うセリフというのがあります。
それは何かと言うと、「こんな姿になるぐらいなら、ひと思いに殺してくれ」ということばです。

彼らは、ときに、神や仏に対して、罵詈讒謗、悪口のかぎりをつくすことがあります。

「ヘビとして生きていくぐらいなら、ひと思いに殺してくれればよかった」と言う人がおりますし、

「こんな色情地獄のなかで、血の海のなかで泳いでいるぐらいなら、
ひと思いに殺してくれたほうがまだましだった」、こういうことを言う人もいます。

また、無間地獄のなかで、真っ黒の闇のなか、砂漠のなか、あるいは、
洞窟のなかに閉じ込められてしまったような人間というのは、

「こんな人生が俺を待っているのなら、ひと思いに生命を奪ってくれればよかったのに」と、
こういうことを言っております。

生前、大宗教家と言われて、世間からさまざまな称賛を受けたような人が、無間地獄に堕ちて、
そして、深い深い闇のなかで、深い深い沼のなかで、ただひとり苦しんでいるという姿を、
私は、数多く霊視しております。

それは、今、二代目、三代目が継いでいるような宗教の初代教祖のなかにも数多くおります。

こうした教祖たちの疑問は、「なぜ何十万人、何百万人の人たちを指導した私が、
こういう世界にいるのかわからない」ということです。

また、「こうした世界にいるぐらいなら、ひと思いに生命を奪ってほしかった」と、
こういうことを彼らは口々に言います、その将来がわからないからです。

何百年、何千年、その漆黒の闇のなかで苦しまねばならぬのか、これがわからないのです。

人間の魂というのは、永遠です。永遠の生命があるのです。永遠の生命があるということは、
調和された生活をして生き、心が美しく、天国に還った人たちにとっては、この上ない福音です。

そうした素晴らしい世界のなかにおいて、永遠に生命をまっとうしていくことができるからです。

しかし、地獄に堕ちたこうした人たちにとっては、永遠の生命があるということ自体が、
ひとつの罪であり、罰であり、懲罰であるわけです。

生命がひと思いになくなってしまえば、こんなことはないのです。しかし、なくならない。
このこと自体が、彼らを罰しているのです。

こうした真実の世界の姿を知ったならば、人間は、地上に生きていたときに、
悪いことを思うことも、悪いことをすることも、ほんとうに、割が合わないということがわかってくるのです。

永遠の生命などなくて、この世かぎりで有限の人生だと思っているからこそ、やりたい放題のことをし、
また、人を傷つけ、人を蹴落としてでも偉くなろうとしているのです。

ところが、そうした結果が、地獄のなかで、永遠の苦しみ、
永遠の生命どころか永遠の苦しみのなかでのたうち廻るということを知れば、
どれだけ割が合わないかということを知るにいたるのです。

また、生きていたときに、ささやかな善意のなかに生きていたということが、
あの世での至福の生活、これ以上ない素晴らしい生活へと展開していくならば、

「なぜ地上にいたときに、もっといいことをしてこなかったか」と、誰もがそういうことを思うはずです。
この世でひとついいことをしたら、これは、あの世で十個いいことをしたぐらいの価値があるのです。

なぜなら、この世というのは、非常にむずかしい世界であり、
魂は盲目、目を隠された状態で修行しているのですから、

目隠しの、手探りの状態で、天国的なる生活を展開した人は、
あの世での修行の五倍、十倍の値打ちがあるのです。

この世でわずか数十年の間、天国的生活を送った人は、あの世ではその十倍にもなって返ってくるのです。
この世はまた、そうした価値ある世界でもあるのです。

しかし、この世で、このぐらいのことはいいと思って、わずかばかりと思って犯してきた悪の数々は、
あの世では五倍、十倍となって返ってくる。こうした厳しい人生が待っているのです。

ですから、人間は良いことをすることがほめられるべきことだから良いことをせよと言ったり、
あるいは、悪いことがいけないからするなと言うのではなく、

ほんとうの意味で自分を大切にする人間であるならば、悪いことはできなくて、
良いことしかできなくなってくるはずです。

ほんとうの人生観、ほんとうの世界観を知ったときに、そうせざるを得なくなってくるのです。
割の合わないことは、誰もしないのです。

ましてや、地獄に行くような人というのは、割の合わないことというのは、非常に嫌いなのです。
非常に嫌いであるにもかかわらず、それが割に合わないということを知らないからこそ、やっているのです。

ですから、そうした彼らを、一日も早く気づかしてやる必要が、私たちにはあるわけです。


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category: あの世の世界は念いの世界

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