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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

出口王仁三郎霊示集 -天女の舞い- 1  

出口王仁三郎霊示集128-184


今回は出口王仁三郎霊示集を紹介させて頂きたいと思います。

出口王仁三郎とは大正から昭和初期にかけて、大本教の教主として活躍した人です。
そして、巨大な霊能力を持っていたことでも有名です。

その霊能力で、広島への原爆投下を予言したことでも知られており、
そして、戦争反対を唱えて、時の政府に弾圧を受けた大本事件は歴史の知るところです。

また本書には、霊界の裏側とよばれる世界についても語られております。

裏側とは、肉体行や霊能力を中心に悟りを求めた人たちのうち、
心の方向性が間違っていなかった人たちがおもむく世界です。

この書を読むことにより、神の造られた世界の多種多様さ、
広大無辺さを垣間見ることができるのではないかと思います。

では、以下に本文を紹介させていただきます。


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天人の羽衣

今日は、第3章ということで、「天女の舞い」ということについて話をしていこう。

昨日は昨日で、仙女だとか、そういう話もしておいたけれども、今日は、仙女とは言わず、天女ときたから、
皆さん、よーく耳の穴をかっぼじって、聞いてほしいもんじゃ。

仙女と天女は違うか、違わんかと、まあ、言うことでね。
昔からよくあるじゃろ、三保の松原か何かに。

漁師が魚をとりにか何か行っとったら、ふっと見ると、天女が天から降りて来て、
何んじゃあれは、羽衣(はごろも)かい、あの羽衣を松の木に打ち掛けて、水浴びをしておったのかのう。

行水をしておったのか、洗濯をしておったのか、わしもよくわからんけれども、何かをしとったわけじゃ。

まあ、今流に言うと、言葉は悪いが、女性がいい恰好しておったわけじゃろ。

それで漁師の男は、もう目玉が飛び出すほど驚いて、まあ、目飛び出して見とったわけじゃ、松の木の陰からのう。

そしたら、天女が、おもしろそうに歌っとったんだか、泳いどったんだか、体洗っとったんだか、
わしは忘れたけれども、しとったんで、その羽衣を取ってみせたら、

「どうかその羽衣を返して下さいな」ということになったわけじゃ。

その後どうなったか、わしはよう覚えておらん。
こんな羽衣伝説というのが、いろんなところにある。

東北のほうのあるところの浜辺にもあるし、山陰海岸の浜辺でもあるし、
あるいは、琵琶湖のようなところにもあるらしいのー。湖にも、羽衣伝説があるらしい。

こういうことで、ほんとうにそんな天女というのがおるんかのーと。

そして、ときどきは降りて来て、羽衣かけておるかどうかじゃのう。
こういう問題があろう。

それから、昔から仏教のなかでも、まあ、何億年とか何兆年とかいうのじゃなくて、
仏教の時間の単位のなかで、「劫」という時間があるのう。

劫と言うか、劫と言うか、これは天女が、要するに、何年間に一回、一年に一回じゃったか、
忘れたけれど、まあ、一年に一回降りて来て、大きな岩、山ほどある岩の上に降りて来て、
そして、その上をちょっと歩く、そのときに、羽衣が擦れて岩がちょっとだけ削れる。

そういうことをやっとって、その岩がなくなる期間、これが一劫じゃ。

一劫と言ってもいいけど、こういう期間じゃと言うとった。
そして、弥勒菩薩というのが、その何劫も先、何十劫か、何百劫か忘れたけれども、

まあ、はるかなる無限の先に、生まれ変わると言われておったはずじゃ。

つまり、そういうふうに、天女の羽衣で擦れて、岩がなくなるというんだから、
これはだいぶ気の長い話じゃのう。

とっても気の長い話で、とてもついていけんぐらいの長さで、
そんなに長いことやっとったら、大宇宙がもうひとつぐらいできそうじゃとわしは思うけれども、

まあ、実際問題、羽衣でどれだけ岩が削れるか、疑問じゃけれども、
まあ、頑張っとれば、それはだんだんに削れんことはなかろう。

点滴石を穿つというから、まあ、削れるじゃろう、羽衣でものう、少しずつ。

そういう話が仏教のほうにもあろう。

まあ、そういうことで、天女というのが、昔からあるとされておる。

じゃ天女とは何かということを、もうちょっと話をしていこうと思う。

もちろん天女というのは、天に住んどるから天女であって、わしらの世界におるわけじゃ。

それでまあ、そういう美しい女性が、集団となっておるかおらんかということだけど、
やはり、ここにはおるんじゃ。

天女の世界というのは、いろいろ分かれておるんだけども、まあ、大きく分けると、三種類ぐらいになろうかのう。




category: 天女の舞い

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出口王仁三郎霊示集 -天女の舞い- 2  

出口王仁三郎霊示集128-184


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天女の第一番目は観音様

一種類目の天女というのは、いわゆる先生格の天女で、これはちょっと偉いわけじゃ。

いわゆる観音様という天女がおるな。

今、観音様と言うても、皆んな男だか女だかわからんように思うとるけれども、
観音様というのは、実は女じゃ。

昔からある観音様ちゅうのは、女でね。
仏像を見ても、そういえばやさしそうな、女性的な微笑みを浮かべておるじゃろ。

また、手を美しく組むなりして、非常に悩ましげな眼差しで人を眺めておろう。

まあ、こういうふうに、ほんとうは観音様というのは、女性なんじゃ。

そして、女性で、どういう女性が観音様かって言うと、観音様の条件というのがあってのう。

観音様の条件というのは、まあ、ひとつは、人助けに奔走した方ちゅうことじゃのう。
これが観音さんじゃ。

やはり観音様の条件は、どれだけ多くの人を救ったかということでのう。

やはり十人、二十人の人を救ったぐらいでは、観音様にはなれんのじゃ。

観音様になるためには、少なくとも、やはり何百人かの人を救わにゃいかんのじゃ。

そのぐらいの影響力がなければ、観音様とは言えん。

まあ、こういうふうに、観音様ちゅうのは、人を救うという使命を持ってきた方じゃ。

したがって、まあ、慈悲の塊であってのう。
自分のことを考えずに、とにかく人を一生懸命救って巡っとるのが観音様じゃ。

西洋では観音様とは言わんけども、まあ、観音様にあたる人を言ってみればのう、

たとえば、あれじゃ、「ナイチンゲール」というのがおったのう。

クリミヤ戦争のときに、敵味方へだてなく、負傷者を救っておった女性じゃ。
そして、看護学校をつくって、ずいぶん多くの人を救った。

こういうナイチンゲールというのがおったけれども、まあ、これなんかも、西洋に出た観音さんじゃのう。

あるいは、観音様と言えば、今、インドかなんかで一生懸命人を救っておる観音様がおるのう。

「マザー・テレサ」というキリスト教の修道女だけれど、
貧民窟に住んで、一生懸命貧民の人たちを救おうとしておるのう。

まあ、あれもキリスト教だから、キリスト教では観音と言わんけれど、やはり観音様じゃ。

ああいうふうに、慈悲の塊がだいたい観音様じゃ。

あるいは、日本の歴史のなかでは、大昔に、「光明皇后」と言われる方がおられた。

まあ、皇后様という偉い身分の方じゃけれども、当時、ライ病じゃったかのう、ライ病が非常にはやって、
これではいかんというので、ライ病院だな、ライの収容の病院をつくった。

そして、自らも出向いて、そのライ病患者の体の膿をふいてやっとったようじゃ。
口づけまでしとったというぐらいじゃ。

そういう光明皇后じゃった。

ある大変酷いライ病患者がおって、膿がすごいので、一生懸命拭って、あまりの可哀相さに、
光明皇后が抱き寄せて、今流に言えば、キスをしたそうじゃ。

そうすると、そのライ患者から、あっという間に、今度は光が出てきて、
あれはどうしたことかと思えば、まあ、すごいのう、〝尽十方無碍光如来″と言うかのう。

光輝く如来となって、出てきた。

実は、如来様が、光明皇后の徳を讃えるために、ライ患者に化けておったと。

そういう話があるけれども、まあこれは、ライ病患者に化けておったという話になっとるけれども、
実際は、そのことを言うておるのじゃないんじゃ。





category: 天女の舞い

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出口王仁三郎霊示集 -天女の舞い- 3  

出口王仁三郎霊示集128-184


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わしの弟子で谷口雅春というのがおったけれども、あれは生命の実相とか言うて、
まあ、ずいぶん景気のいいことを言うておったじゃろう。

まあ、今流に言えば、生命の実相を言うておるのじゃ。

こういう病人だとか、悪人だとかいう、そういうどうしようもない、この世の何と言うか、見捨てられた人たち、
こういう見捨てられた人たちの心のなかにも、やはり神様としての本質があるということを教えとるわけじゃ。

つまり、地上の人を見るとね。悪人じゃとか、善人じゃとか、健康な人じゃとか、
病人じゃとか言うけれども、ほんとうは人間ちゅうのは、皆んな、神様の子であって、
一緒なんじゃということを言うとるわけじゃのう。

じゃが、通常の人間というのは、やはり自分が可愛い。自分が可愛いがために、
自分の生命を賭してまで、人を救おうとは思わぬ。

ところが、光明皇后という人は、ライ患者の膿なんか拭いとったら、自分が死んでしまうかもわからんのに、
それでも平気でやっておった。

やっていたところが、そこが光輝く、大如来と変わっていった。
ライ患者が。まあ、こういう話である。

こういう話は、西洋にもあろうのう。
ある何じゃったかのう、神父さんだったか、修道女だったか、わしは忘れたけれども、

まあ、神父としておこうか。重病患者が来てのう、
そしてどうしても助かりようのない重病患者を一生懸命介抱して、
まあ、抱きしめようとしたら、そのやせおとろえた、重病患者というのは、
実は、イエス様の姿に変わって出て来た。

主の姿であったということを、わしも何かで読んだことがある。

これなども、重病患者がイエス様に変わるというのは、まあ、おかしいわけじゃけれども、
実相においては、そうじゃということじゃのう。

まあ、病人であっても、つい昨日まで、痛い痛いと言うとった病人であって、
「死にとうない、死にとうない」と言うとった病人が、それを介抱する人の愛を受けて、
優しさを受けて、感謝の日々を送る。

昨日まで喚いておった病人、わがままを言うておった病人が、急に、その人びとの愛を受けて、
やはり考え方を変える。

ああ、私は自分の生命ばかりを言うておったけれども、ああ、人びとの、これだけの
お世話を受けて、現在があった。

一日生きのびただけでも、私はありがたいことであった。
皆さんありがとうございました。

という感謝の気持ちになって、わがままを言うておった病人が、手を合わしたとき、
その病人の姿っちゅうのは、もう観音様に変わっていくわけじゃ。

こういうのを、霊的な目がある人が見ればのう、人間というのは、そういうふうに、
悔悟したときに、光り輝く存在のように見えるわけじゃ。

つまり、弟子の谷口雅春が言うように、人間のなかには、生命の実相というのがあって、
これが万人のなかに宿っておるんじゃ、と。

生命の実相というのは、ほんとうに素晴らしい無限の光なんじゃ。
病人じゃから、健康人じゃからといって、分けへだてはない。

悩んでおる人じゃから、悩んでおらん人じゃからといって、分けへだてはない。
偉い人も、偉くない人も、何の関係もない。金持ちも、貧乏人も、分けへだでない。

生命の実相は、ただこれ光であって、その実相というものは、
自らの心を光に向けたときに、顕れるんじゃ、と。

まあ、谷口は言うとる。
弟子ながら、よう頑張っておる。ようわかっておる。よう悟っておる。
そのとおりじゃ。

そういうことであってのう、まあ、観音様の話をしとるわけじゃけれども、
そういうふうに、多くの人を救うのが、観音の役割であって、また、救われる側の人であっても、
心を改めたときに、観音のように見えることもあるということじゃ。




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出口王仁三郎霊示集 -天女の舞い- 4  

出口王仁三郎霊示集128-184


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女性というものは、とくにそうじゃのう。ずいぶん千変万化する化けものみたいなものじゃ。

ああ、夜叉の顔というのも、あれは女性だぞ、あれは怖い。
男で、ああいう男はおらん。

口は耳まで裂け、耳はとんがり、角がはえ、目は三角でらんらんと輝いておる。
こんな恐ろしい夜叉の顔というのは、女じゃのう。

男であるなら、一生に一度や、二度は、これを経験しておるのじゃ。

ある晩、酔って帰って来ると、自分の女房が夜叉に変わっておったというのは、
これはよくあることでのう。これは怖いぞおー。

酔って夜中の二時に千鳥足で帰って来て、
「オーイ、玄関開けろ、オーイ、何で開けんのじゃ」ちゅうて、叩いてガラス割って、
なかに入って来て、また一升瓶を出して飲んだくれておると、光がパッとつく。

後ろをふっと振り向き、酔った目で見ると、そこに立っておるのは、夜叉じゃ。

口は耳まで裂け、目はらんらん、角がはえ、髪は振り乱し、そして、口を開ければ、
なかから真赤な燃えるような舌が、のぞいている。これは怖いぞ。

男はこれを経験したら、一生そのゾーッとした雰囲気を忘れることはない。

こんな夜叉というのがある。まあ、こういう夜叉は、なるべく嫁にもらわんほうがいいわ。
運悪くして、もらった人は、可哀相じゃのう。

夜叉も、まあ、観音のまた変化の姿じゃと思う以外ないのう、
そういう場合には。観音様が夜叉に化けて、お前さんを救いに来ておると思わざるを得んだろう。

まあ、そう思うことじゃ。

ああ、インドの昔話にもあるんじゃ。ある民家で、夜もう寝静まった頃に、あるいは、
皆んなで寝ようと灯を消したときに、入口をドンドンと叩く人がいる。

「何じゃ何じゃ、こんな時間に、もう夜も十二時を回っておるのに、だれじゃ」と聞くと、

「旅の者でございます」という可愛い声が聞こえる。

「うーん、女子か、うーん、若い女性のようじゃ、どうした、こんな時間に」ということで、
閂(かんぬき)をはずして開けて、女性を入れると、大層若く美しい妙齢の女性が入って来る。

「私は旅の者でございます。道に迷いました。どうか一晩泊めていただけませんでしょうか」と。
五十年輩の主人が見ると、まあ、大層美しい。

うちのかみさんに見つかったら怒られるかも知らんけど、まあ、一晩ぐらいは泊めてやりたい。

「まあ、そんなにいいところではないし、せんべい布団しかないけれども、まあ、
あなたひとりぐらい泊めてあげられんわけではないから、まあまあ、入られたり」と言ったら、

「私には、双子の妹がおります」とその美しい女性が言う。




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出口王仁三郎霊示集 -天女の舞い- 5  

出口王仁三郎霊示集128-184


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「双子の妹さんですか、そうですか、どういう妹さんですか」と、主人が見るともなく見ると、
「こちらにおりますのが、妹でございます」と、その美しい女性が手を引いて、妹を引き入れる。

すると、そこにおるのは、夜叉みたいな女じゃ。
世の中には、えてしてそういうことがあるようじゃのう。

観音様と夜叉みたいのが一緒に住んでおることがよくあってのう。
これは妹じゃと言うが、主人が見たら、夜叉みたいじゃ。

そこで、「ああ、その夜叉はいかん、牙がはえて、目がらんらん、角がはえとる女性は、これはかなわん」と。
口を見れば、耳まで裂けとるではないか。そして、赤い舌がチョロチョロ出ておる。

髪を振り乱し、これが入ってきた分には、わしは食われるかもわからん、これは困る、と。

そうすると、その美しい女性が悲しげに、「しかし、この妹と私とは、双子の姉妹でございます。
私だけが泊めていただいて、妹を外で凍えさせるわけにはまいりません」と言うてのう、悲しい涙をはらはらと流す。

「こうして、私は何軒も断わられてきたのです」と、そういうことを言って、去っていくというインドの昔話があるのじゃ。

これはのう、二人の人がおるということじゃなくて、象徴を言うておるのじゃ。

男二十七、女二十四かのう。美しい女性と思って結婚したところが、十年も経てば、フライパンじゃ。
フライパンを振り上げて、頭を殴りにかかってくる。

玉ネギは投げる、箒で足は殴る、唾はふっかける。場合によっては、馬乗りになって、つかみかかってくる。
月給袋を持って帰ると、さっとふんだくる、そして、何も言わん。

まあ、こういう女性を見ておると、だんだん、怖くなってくる。
そして、ときどき見ておると、うちのかあちゃんに角がはえているような気がする。

あれほど美しかったと思って、迷いに迷うた女性が、何と夜叉じゃ。

わしがあのとき、あんなにラブレターを出して、くどきにくどいて、断りに断られたのを、
何とか言って、両親をくどき、親戚をくどいて、何とか式をあげた。

自分の親に勘当されてまで、式をあげた。
そんなにその女性と思っとったのに、今は角がはえておる。こんなはずじゃなかった。

自分の誤解じゃったかと、まあ、思うわけじゃ。

ところが実は、そうじゃない。誤解じゃない。それは女性(にょしょう)のね、女性(じょせい)というものの本質なんじゃ。




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出口王仁三郎霊示集 -天女の舞い- 6  

出口王仁三郎霊示集128-184


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双子の姉妹なんじゃ、女性はのう、ひとりじゃと思うても、ほんとうは、二人おるんじゃ。
美しく心やさしい女性と、鬼のような女性と二人おるんじゃ。

女性の心には、いつもその二人が棲んでおる。
肉体はひとつでも、魂のなかにその二人が棲んでおるんじゃ。

したがって、嫁をもらう男というのは、二人いっペんに泊めてやらねばならんオヤジと一緒じゃ。

真夜中に、夜叉と美人とを一緒に泊めねばならんオヤジ、嬉しいような、怖いような、まあ、こういうもんじゃ。

そういうことであってのう。人間というものは、決して天女のように、
最初から創られておるもんでもないし、逆に、夜叉のように創られておるもんでもないんじゃ。

それは、長い人生経験のなかで、天女のように顕れたり、夜叉のように顕れたりするのじゃ。

口が耳まで裂け髪を振り乱して、夜叉じゃと思うて、この夜叉は早く殺さねばならぬと言って、
平手打ちなんかして、電気をつけてみると、そこに倒れておるのは、自分の可愛いねー、
かあちゃんだったということもあるわけじゃ。

髪を振り乱していたのは、当然、寝ていた姿で出て来たんじゃから、
それは、髪も振り乱しておったじゃろう。

頭を掻き掻き出て来たんじゃ。
それが夜叉に見えるかもしれない。酔った眼でのう、酔眼で見れば、そうかも知れない。

まあ、こういうもんじゃ。

そういうふうに、夜叉と天女がおるわけじゃないんじゃけれども、
人間の心には、そういう両面性があるということを、わしは話しておるんじゃ。

それでは、わしらの世界におる天女の話、もっと続けていこう。

さっき言うたような
観音様の世界じゃのう。いわゆる法のお助けをする女性たちもいる。

何百人、何千人を救う女性もおるし。



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