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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

親鸞聖人霊示集 -悪人正機説- 1  

親鸞聖人霊示集128-184


親鸞聖人の教えの中に悪人正機説という教えがあります。
善人が救われるのなら、悪人が救われて当然である。
むしろ悪人こそが救われるのである。

この教えについて、疑問に思っておられた方も多いでしょう。
それは逆ではないか、善人こそ救われて悪人が救われないのが当然なのではないか。

今回は、親鸞聖人霊示集の中から、その悪人正機説の本当の意味を紹介させていただこうと思います。


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まず、言っておかなければいけないことがあります。

それはすなわち、あなた方生きている人間には、何が善であり、何が悪であるかは、
わからないということなのです。

もし親鸞が、何が善であり、何が悪であるかということを言い切れる人間であったなら、
親鸞は、一人ひとりの人をつかまえて、「お前はここが悪いから、ここを正せよ」と言ったでありましょう。

しかし、何が善で何が悪かは、人間ではわからないのでござる。
これは、神仏のみが知っておられることなのです。

ですから、この世には、悪を犯したと言われて命を奪われる者、悪を犯したといって死刑を宣告される者がいる。
そのような者は、悪を犯す前において、決して幸せであったはずがありません。

人を殺そうと思うような心になるということは、その者が幸せではあり得ないのです。

そこで、その者は、その事実そのものにおいて、すでに罰せられているのです。

人を殺そうという気持ちを起こすということ自体が、すでに罪なのです。

そういう気持ちが起きたということは、その者はどれだけ不幸で、どれだけ苦しんでいるかを証するものであります。

あなた方は、幸いにして、人を殺したいとまでは、思ったことがないでしょう。
人を憎んだことはあるでしょう。怒ったことはあるでしょう。
ただし、人を殺したいとまでは思わなかったはずです。

すなわち、あなた方は、それだけ幸福な、幸せな存在なのです。

しかし、人を殺そうと思って殺してしまった人は、その事実、もう消しがたい事実によって、
すでに罰せられているのです。

その人がそこに至るまでにおいて、どれだけ多くの人が、その人に対して悪をなしたでありましょう。
その人がそこまで至るまでに、一体どれだけの心の遍歴がありましたでしょうか。

その人のご両親、その人の兄妹、その人の親類、その人の先生、その人の友だち、あるいは、道行く人びと、
そうした人びとは、その者に対し、慈悲深い行為をしてきたでありましょうか。

情深く接したでありましょうか。そうではなかったはずであります。

その者は、すでに罰せられておるのです。死刑にされる前に、すでにもう罰せられているのです。

ですから、その者を、さらに刑務所に入れ、なお生きている命を奪う。
これは悪を重ねているようなものであります。




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親鸞聖人霊示集 -悪人正機説- 2  

親鸞聖人霊示集128-184


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すでに結果です。人を殺すということは、これはもう、死刑と同じです。

生きている人間としては、仏性の最悪のところまできているのです。
仏性が最悪のところまできているのです。

仏性が最悪に曇っておるのです。これだけでも罪です。

殺したいとまでは思わない人は、恵まれた人たちであります。
そう思うということだけでも、もう罰せられています。

その人は、人を殺す前において、その罪は、もう贖われるているのです。それだけ苦しんだ魂です。

よくぞそこまで、苦しんだ。

それを赦さないで、責め続けるのは間違っています。

魂が苦しんでいるのです。

あなた方は、同じ時代に生きていて、人を殺したいとまでは思わないでしょう。
人を殺したいとまで思わないのは、あなた方が優れているからですか、そうではないはずです。

つまり、あなた方が、それだけ不幸ではないからです。
人を殺したいと思うところまで、不幸ではないのです。

実際、人を殺してしまった者は、不幸な方なのです。

むしろあなた方は、同情すべきであって、責めたてるのは間違っています。

また、人を裁く人がおります。善人だと思っておるのでしょうか。

私は、職業が悪いとは言いません。
ただ、警察官であるとか、検事であるとか、裁判官であるとか、その職業柄、人を裁かねばならぬ人がおります。
この人たちのなかに、悪はないのでしょうか。彼らのなかに、悪はないのでしょうか。

彼らは、少なくとも人を殺す、殺してしまうほど不幸な人ではないはずです。

しかし、情心をもって接したでありましょうか
人を裁き、人を追いつめる立場にある人は、自分自身の心、自分自身の行ないを振り返ってみるべきです。

それを問いつめるだけの優れた自分であるかどうかを、よくよくお考えになればいい。
人間、人を裁くことはできないのです。

すなわち、本当の世界とは、心の世界なのです。

外見を善人ぶることは、だれでもできます。
いや、だれでもではないでしょう。

しかし、できる人もいます。外見を、偉い人であるかのごとく、罪一つ犯さない、
虫一匹殺さない人のように、とり繕うことは可能です。

しかし、心の世界は、誤魔化すことはできません。
神仏の眼から見た人間の心は、一目瞭然です。

「汝らのうちで罪なき者のみ、悪を犯したことがない者のみ、この女に石もて罰せよ」
とキリスト、イエス・キリストは言いました。

キリストは、罪を犯したことのない者と言いましたが、
では、もう一歩進めて、「汝らのうちで、悪を思ったことがない者だけ、この悪人を罰しなさい、裁きなさい」と言ったとしたら、
裁ける人は一人でもおりますか。

あなたでも、裁けないはずです。あなたも身に覚えがある。心に覚えがあるはずです。




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親鸞聖人霊示集 -悪人正機説- 3  

親鸞聖人霊示集128-184


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この世で失敗を反省できる者は神の愛を受ける
 
私の悪人正機説は、一見奇異に聞こえるでしょう。
悪人こそが救われるなどと言うのは、邪宗そのものに聞こえるでしょう。

善人が救われるのに、悪人が救われないわけはない。
悪人こそ救われるのだ。それが弥陀の本願だ。

しかし、このようなことを言って、普通の頭の人が理解できるとは、私は思いません。

それは逆ではないか。善人こそ救われて、悪人は救われない。
それが公平な裁きではないか、そう思うでしょう。

しかし悪人は、よいですか、悪人というのは、悪人であるということ自体で、
すでにもう罰せられているのです。

すでに魂は苦しんでいるのです。

あなた方は、人を殺そうと思うところまで苦しんだことはないのです。ないはずです。

いくらあなたがつらい人生を送ったとしても、刃物で人を突き殺そうとまでは思わなかったはずです。

すなわちあなたの魂は、そこまで苦しんだことはないということです。
彼らの魂は、そこまで苦しんだ、これが悪人です。

ところが、世の善人たちはどうでしょうか。
自分たちは、法衣を被って、勉強して、その知識でもって淡々と事務処理を進めていきます。

裁判官がそうです。彼らは法律をよく勉強して、刑法とかさまぎまなものを知って、
こういうことをしたらこの罰に相当することがわかっている。
ですから、無期懲役であるとか、死刑であるとかを、いとも簡単に、決断を下しているのです。

ところが、悪を犯す人は、そうした法律を学んでさえいません。勉強したこともないのです。

自分の行為が、一体どのような罰に当たるのかも知りません。
そうしたことすら知らない人を、それを知っている人が裁いておるのです。

それを知っている人は、自らの心のなかに悪がなかったかどうか、反省していただきたい。

悪は、きっとあるはずです。

心のなかに悪がある者が、他人の悪を責めるということは、私たちの世界、
心の世界においては、一体どれだけつらいことであるかを知っていましょうか。

わからないからこそ、責めるのです、人を。

よいですか、もし人の心と心が開けっぴろげにわかるならば、罪にうちふるえて
いる人でさえ、それを裁かんとする人びとの心の曇り、誤り、悪を知っているはずです。

そこで、「あんたの心のなかにも、悪はあるじゃないか」 と言えるはずです。

そのときに、裁きができるでしょうか。

善悪は、人間では決められないのです。決められないのにもかかわらず、
現代の人間において、やむを得ず裁きをする人もいましょう。

しかし、これからの人もまた、救うべき立場ではなくて、救われる人です。

これは、何も、法の裁きをする人だけではありません。
あなた方の大部分が勤めている会社というところにもあります。

人間は、会社という組織のなかで偉くなっていきます。
しかし、出世をしていく途次において、そのなかには、それだけの悪を含んでいるはずであります。
栄達した人のかげには数多くの泣いてきた人がいるのです。

たとえば、重役となり、社長となれば、彼らは、すなわち偉い人だとみなされます。

本人も偉い人だと思っています。

しかし、世に偉い人と思っている人は、その奥にどれだけ悪を含んでいるでしょうか。
一体何人の人を苦しめてきたか、一体何人の人を人事で左遷してきたことでしょうか。

平社員で一生終わる人がいます。そういう人は不幸かもしれません。
金銭的にも不自由かもしれません。

しかし、そういう人は、人の悪口は言えても、人の首を切りたり、人を左遷したりしたことはないはずです。
つまり、そういうことは、立場上しなくてもすんだからであります。

ところが、社長と仰がれるような人は、幾度人の首を切り、幾度人を左遷し、
幾度いろいろな家庭に不幸を起こしたことか。

しかも、それを本人は善人であり、成功者であると思っておるのです。
そして、世の人びとは、社長のようになりたいとうらやましがっているのです。



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