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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

スウェーデンボルグ霊示集 -私の見た地獄界- 7  

スウェーデンボルグ霊示集128-184


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ですから彼らがいちばん嫌がるものはまさしくそこにある。

宗教家が過去何度も地上に出ては、心むなしくすること、欲を捨てること、
反省をすることなどを教えてまいりましたが、
これはまさしくサタンたちのやっていることを防ぐ意味でも大きな意義があったわけなのです。

およそ思想のまちがいというのはこういうもので、ほんの紙一重といいますか、
ほんの少しのところでちがいが出てきます。

しかし、それでも弁舌さわやかで人をだますのがじょうずな人であれば、
やがてその方向に人びとをまきこんでゆくことができます。

また、軍人出身、日本であれば武将といってもいいでしょう、そうしたサタンもおりますが、
こうした者たちは、いつも兵士や、あるいは武士たちを集めて戦争をやっております。

そして、それなりのひとつの理想を持っているらしくて、その実現のために戦を起こしているのです。

私たちが人殺しをするのは、決して自分たちのためではない、世の中を変革してゆくためだ、
あるいは世をたてなおすためだ、天下統一のためだ、
こういう言い分で、兵をおこして、いつも戦をやったりしております。

これもまた地上で戦乱のにおいがし始めると、集団でそうした世界に取り憑いてゆきます。
そして、狂わせてゆきます。

ですから、いろんな戦争がありましたが、最近でもありましたでしょうが、
そうしたときに、軍人や軍部の首脳のなかに、かつて戦国時代などに戦った武将たちの悪霊が、
次第しだいに入り込んでゆきます。

そして、闘争心・征服欲をかりたてて、自分たちの昔の恨みや怨念をはらそうという傾向が強いのです。

このように地獄の世界といわれても、ほんとうに悪いことをしていると思っている者は少なく、
じっさいは自分たちはほんとうにすばらしく生きている、と思っている人たちが多いのです。

そうした人たちの思想を変えるということは、きわめてむずかしいです。

そして彼らは、つねになんらかの意味での自己合理化といいましょうか、意味づけをやっております。

愛というものを自分なりに解釈してやってみたり、
あるいは天下統一というような美名のもとに戦争をやってみたりするのです。




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スウェーデンボルグ霊示集 -私の見た地獄界- 8  

スウェーデンボルグ霊示集128-184


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色情地獄の様相

また色情系統の地獄というものもあります。
これもよく知られております。ここに来ている人たちも自由の賛美者であることがひじょうに多いのです。

そこで指導しているといいましょうか、中心人物をやっている人なども自由の賛美者です。

そして、色情地獄などで、みな裸で生きているわけですが、
「私たちはルネッサンスの時代に生きているのだ」といってみたり、
「古代ギリシャの時代、ギリシャの美を今復活させるのだ」、こういうことを懸命にいっている者もおります。

「肉体の美を発見せよ。肉体の官能のなかに芸術のすばらしさがある」、こういうことを吹聴しております。

この世界のなかにも一部の文学者や、芸術家たちもかなり来ておりますので、彼らが理論的に指導しているのです。

文学者のなかでも、こうした欲望もの、セックスものを中心とした文学を書き続けていた者もいるでしょうが、
ほとんどまちがいなくこの色情地獄というところに来ております。
そして、そのなかでのリーダーとなって扇動しています。

どのように男女の愛を実践するのがもっとも芸術的なのか、美しいか、こんなことをやっておりますし、
最近私が見てきたもののなかには、映画監督のような者もかなりおりました。

地上でポルノ・ビデオであるとか、ポルノ映画であるとか、こういうものを一生懸命撮ってきた写真家、
あるいは映画監督、こういう者もみごとに色情地獄に堕ちているわけですが、おかしなことに、
そこでもまだビデオを撮っているのです。

これはいろんな男女を集めてさまざまな絡み合いをさせ、それをビデオに撮っているのです。

本人はビデオで撮ったり、あるいはカメラで撮っているつもりでいるのですが、
私たちの目で見れば、手に握っているものはまったくちがったものを持っているのです。

石ころをかかえたり、あるいは木の根っこを持って、それで自分たちはカメラで撮っているつもりでいるのです。

ただ、それが本人にはカメラに見えたり、ビデオに見えたりしているのです。
そういうことをやって喜んでいます。




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スウェーデンボルグ霊示集 -私の見た地獄界- 9  

スウェーデンボルグ霊示集128-184


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そして、美しい官能の世界を描いた気持ちでいます。

あるいはある者は自分は芸術家だと称し、画家だと称し、
そして裸婦の姿こそ世界でいちばん美しいのだといっております。

そして、通りすがりの女性をつかまえては暴行し、そして裸にしては絵を描く、
こういうことをくり返している者もいます。

芸術という美名のもとに、すべては許される、このように考えているようであります。

およそこういうものであって、地獄の世界というものもまったくの狂気というよりは、
この世のなかにもそれなりに、なんらかの理由によって存在を許されている者が、
そのなんらかの理由というものを自分に都合よく強調しすぎて、あの世に持って来るということがいえましょう。

この世においては、その意志の部分、意図の部分がまだ小さかったとしても、
あの世の世界、霊の世界に行くと、それが拡大されてくるのです。

拡大されて、もっと大きなもの、もっとはっきりしたものにすべてなってくるのです。

こうした色情地獄も、有名な血の池地獄というようなところもありますが、
それ以外、もっと近代的なところがいくらでもあるのです。

劇場であったり、あるいはホテルのようであったり、あるいは温泉宿のようであったり、
こういういろんな場面のなかで色情地獄が展開されているわけですが、
それは本人たちにとってはひじょうに憩っているような、
そして自由であるような、喜びであるような気持ちでいるのです。

ただ、惜しむらくは、そうした性的行為に夢中になっているときに、本来の人間性を忘れ、
人間の魂の尊厳をどこかに置き去りにしているということなのです。

そして、本人たちは、ひじょうに美しい肉体というものを追いかけているつもりでいるわけですが、
これは私たちの目から見れば、男女共にたいへん醜悪な姿に見えるのです。

男性は身の毛もよだつような、いわゆる、なんといいましょうか、
色情漢といえるようなものになっておりますし、女性もそのようになっております。

この色情地獄の近くに動物地獄、畜生道というものもありますが、
そこなどへ行くと、姿がもうほかの動物に変わってしまっている者もいます。

もとは人間であったにもかかわらず、ほかの動物に変わってしまっているのです。

たとえば蛇、大蛇というものもあります。
雄の大蛇、雌の大蛇、これらの絡み合いというものを、みなさん想像したことがあるでしょうか。

彼らは意識においては人間ですから、男と女が、絡み合っているつもりでいるのですが、
はた目に見れば、それは雄と雌の大蛇が絡み合っているとしか見えないのです。

そのような鬼気せまる姿が展開されています。




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スウェーデンボルグ霊示集 -私の見た地獄界- 10  

スウェーデンボルグ霊示集128-184


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動物界の様相

あるいは色情地獄に浮かんでいる者たちも、その姿が今度は畜生道のほうに近づいてくれば、
豚のようになっている者もいます。

雄の豚と雌の豚が、たがいに相手を求めて追いかけあっている、こんな姿が見られます。
あるいは、雄の犬、雌の犬、こういう姿になったりしています。

まことにあわれですが、その心の傾向性にいちばん近い獣に変わってくるのです。そういう姿があります。

この畜生道は、もうひとつ別なところからも影響があります。
それは先ほどいったサタンとも関係がありますが、宗教界でのまちがいともかかわっています。

たとえば日本というところでは、稲荷信仰というのがひじょうに強いようですが、
日本の僧侶で、そして多くの人をだましてきたような方、こういう者はあの世でも、
本人は僧侶を続けているつもりでいるわけですが、いつのまにか姿は狐の姿に変わっている。

そして、自分が稲荷大明神をやっているような気分になる、こういう者もいるようであります。

西洋のほうでは、もっとはっきりした動物界もあります。
日本では稲荷、狐でありましょうが、西洋のほうではもっとちがった動物もよく出てきています。

たとえば狼男というものが伝説でいわれておりますが、ああいうふうになっている者もおります。

それから西洋に多いのは、吸血鬼伝説というのがありますが、あのような形で、
やはり人の心を襲っている者もおります。

ああいう吸血鬼の姿をしている者もたしかにいるようです。

もちろん霊ですから、牙をたてて血を吸うというわけにはまいりませんが、
気分としてはそういう気分で人びとの心にくいいってゆく者、これはおります。
こんな姿をとっている者もおります。

また、それ以外の世界においても、ずいぶん恐ろしい世界が展開しております。
特に多いのが暴力に訴える世界です。

叩く、殴る、蹴る、こういうやくざの世界というのは
こちらの世界にもあって、そういうところではいつもだれかが追いかけられています。
追いかけられ、追いかけています。

そして、みんなで殴る、蹴るということをくり返しています。これは地上の人たちも、
夢のなかで体験されたことがおそらく多いと思います。

これは、比較的地獄でも上層部といいますか、浅いところの地獄であるので、
生きている人でも睡眠中に肉体を抜け出して来ていることが多いのです。

この世界に来ると、よく記憶される内容としては、やたら追いかけられる、
命を狙われる、そして襲いかかられる、こういう体験をするようになります。

こういう夢、悪夢を見た方は、数多くいらっしゃることと思います。
これはこういう暴力の世界です。これを見て来たということなのです。




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スウェーデンボルグ霊示集 -私の見た地獄界- 11  

スウェーデンボルグ霊示集128-184


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地獄界の二つの法則

この地獄界というものは、いろんな世界がひろがっておりますが、
そこに共通しているものは、二つの法則であるように私には思えます。

ひとつは、それなりの論理をかならず持っているということ。
自己欺瞞をするためのなんらかの説明がかならずあるということ。

もうひとつは、その人の思ったとおりの姿、心の傾向性どおりの姿をとるようになっているということ。

この二点です。これはどこに行っても共通しているようです。

そして、まことに不思議ですが、心の傾向性が変われば、その外見、形状が変わります。
それだけではなく、住む世界もやがて変わってゆくことがあります。

地獄では比較的浅いところに住んでいても、そこで大ボスをやって、次第しだいにその悪の部分を伸ばしてゆくと、
ある日を境にもっと下の世界にストーンと落ちてゆくことになります。

そうすると、地獄の世界では一種の神隠しであって、その人がいなくなるということになるわけです。

あるいは逆もあります。比較的深いところに住んでいたけれども、だんだん嫌気がさしたり、
あるいは本人が悔いることがあったりして、そしてもうすこし別な世界を求め始めたときに、
心境が変わって、一段上のところにあがってくる、こういうことがよくあります。

たいていの地獄霊たちは、住む世界が変わると、たがいに接触ができなくなってしまいます。

ただ、サタンという連中はひじょうに地獄の地理に明るく、いろいろなところに出没しております。

あえてこの世界を視覚的に表わすとするならば、やはり洞窟のような暗いところを下って行く、
そういう石段を下って行くといろんな地獄界が次つぎと出てくる、こういうふうになりましょうか。

全体にうす暗く、そして最深部に行けば行くほど、漆黒の闇のようになっています。

さて、地獄の世界には、これ以外の変わった世界ももちろんあります。
それは、まったく孤独な世界です。こういう世界があります。

砂漠に独りでいるような、そういう孤独地獄というものもありますし、それ以外の世界においては、
たとえば同じような孤独地獄であるのですが、もう自分が身動きができないような地獄もあります。

ちょうど沼地に生えている葦か、あるいはヨシのような植物になったような気分になって、
動かずに埋もれている、こういう者たちもいます。

私の目から見ればそれは、葦やヨシのように見えるのだけれども、よくよく見てみると、
それぞれに顔がついていて、実は人間だということがわかります。

こうした者たちは、深い罪の意識にとらわれ、もう人間との接触を断ちたいという思いが強く、
そして孤独な世界のなかにひきこもっている者たちです。





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スウェーデンボルグ霊示集 -私の見た地獄界- 12  

スウェーデンボルグ霊示集128-184


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正しい信仰心の必要性

さて、では地獄という世界はもうどうしようもない世界なのかどうか、これについて考える必要があるでしょう。

たしかに、この広大無辺な世界、そしてそれぞれに独自の論理や、
思想を持っている人たちが住んでいる世界で、彼らを説得するということは、
きわめてむずかしいことであるのは事実です。

私たちがそこへ行って、光の天使だといったとしても、にせキリストが出回っているような世界ですから、
まったく逆にされてしまうことが多いのです。

私たちこそが地獄のサタンだといわれてしまう、こういうことがあります。

彼らは地獄のサタンだから気をつけなさい、口のうまいことをいって、
そして私たちをどこかに連れていって、監禁するつもりらしい、あるいは食べてしまうらしい、
こういうことが言われるのです。

なにが真であり、なにが偽であるか、これがまったくわからない世界、それが地獄界といってもよいでしょう。

こうしてみると、地獄界の迷妄をはらすためには、いちばんたいせつなものは何であるかというと、
真実を知るということだといえましょう。

しかし、こうした世界のなかにいれば、何が真実であるかさえわからなくなってくる、そういうことがあるのです。

何が真実であるかさえわからない、いったい何を信じてよいのだかわからない。

それゆえ地獄をつくっているものは、実はなんであるかというと、神理への無知、これがひとつ、
それと神への信仰の欠如です。この二つの柱が明らかにあるように私には思えます。

神理をまず知らない、ほんとうの神理とは何かを知らない。
そして、その神理の一片をかじっていても、それを自分流の勝手な解釈をして、まちがったふうに実践している。

これがひとつですし、もうひとつは根本的に神を信じていないということです。

地獄のなかにも、偽物の信仰をやっている者たちはいます。そのなかに生き神さまや教祖がいて、
その教祖の説く神を信仰している者たちも結構いることはいるのですが、
いかんせん、彼らの説く神は欲望の神であって、どうしてもほんとうの神とはちがっています。

そして、このなかに、地上に生きてきて、まちがって地獄に堕ちた人たちが数多くいるという現状を考えると、
この広大無辺な世界にただ独り投げ入れられて、ここから脱出するということはかなり困難であるといえると思います。

まわりの人たちの思念、想念の世界から逃れて自分独自の道を開き、
そして悟っていくということは、これはきわめて困難なことです。

師もおらず、また参考にするものもなく、どうするわけでもない。
このような世界でどうやって真実の光の道に入ってゆくか、きわめてむずかしいことです。

これを考えるに、やはり生前になんらかのほんとうの宗教というものにめざめて、そして、
信仰を持っているということがだいじです。

この信仰を持っていれば、その正しい信仰を続けることによって、
やがてその宗教団体における守護霊団、指導霊団たちが救いの手をさしのべてくれることがあります。

これを、そうした信仰心なく独力だけで地獄を出ようとすると、
かなりのむずかしさ、困難さがあるといえましょう。

それゆえに、生前に正しい教えが多くの人によって信じられることが、だいじであると思うのです。



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いかがでしたでしょうか。
今回、紹介させていただいたことは、私たちにとっても良き戒めとしたいと思います。

そして、本当に正しい事とは何なのか、それをよくよく理解して生きていけたらと思っております。




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