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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

心の探求 -正しき心とは- 4  

心の探求128-184


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神の第一の定義-第一原因者としての神

神ということに関しては、昔からさまざまな研究がされ、探究がされました。
しかし、だれも神とはこうしたものだということを、定義することはできませんでした。

その定義はできないけれども、たとえば、神というものを第一原因というように論ずる人もおりました。 

つまり、物事には原因というものがある。
たとえば、自分が今生きているということは、自分に両親があったということ。
そういう原因があって自分がある。その両親も元を探れば、その両親がいた。
その両親にも両親がいた。こうして探っていくと必ず前者というのがいる。

結果に対しては原因というものがある。そうであるならば、
どんどん、どんどんと探っていくならば、どこかに第一原因というのかあるはずである。
この第一原因こそ神である、ということを証明した哲学者、あるいは神学者もおりました。

神の第ニの定義-奇跡を起こすカとしての神

あるいは、神というものは、とにかく人知を超えたるものであるとして、
さまざまなる奇蹟、霊現象をもって、神の御業とみた人もいました。

神が何であるかということはどうでもよい、
ただ、医者に見離されたこの病人が、一瞬のうちに治ってしまった。
この結果を見れば、この結果を生ぜしめた力があることがわかるであろう。
それが神なのである。
というふうな説明をした方もいらっしやるはずです。
つまり、人智を超えた力をもって神とする説明であります。

神の第三の定義-気高い人格を持った人格神としての神

あるいは第三の定義としては、神をそうした漠然としたものでなくて、
人格あるものとして見てきた歴史もあります。

たとえば、イエス・キリストを神といったり、ゼウスを神といったり、
ブッダを神といったり、こういう定義もあるわけです。

しかし、これらは、まだ彼らにも人間的属性があることを認めざるをえない以上、
定義としては不十分といわざるをえません。

神というものが、この大宇宙を創ったものであるならば、
その神であるイエス・キリストは、何故一メートル七十センチぐらいの肉体に宿って、
三十三年の生涯を送って、十字架にかかったのか。

この地球を創り、大宇宙を創った神が、何故、そういう一人の人間のなかに宿って生きていくのか。
この説明は、ひじょうに困難であろうと思います。

少なくとも、神というのが地球を創り、宇宙を創ったものであるならば、
せめてガリバー旅行記のなかにある小人と巨入の関係のように、
外見上も巨大な人間であってもおかしくはないはずです。
奈良の大仏のように、何十メートルもある入間として出てきてもおかしくはないはずです。

あるいは、地球を手玉に取るような、大きな巨人の神があってもいいはずです。

それが両親を侍った一人の人間の赤ん坊として生まれるという事実をともなったために、
ひじょうに複雑な考え方となるわけであります。

ただ結論をいうならば、この三つの定義、
第一原因としての神、
あるいは奇跡を起こす力としての神、
通常の人間とは思えないような、気高い人格を持った、人格神としての神、

こうしたいろんな定義があるけれども、共通していることは何かというと、
「崇高な」という形容詞がつくということです。

「崇」という字は「崇めたてまつる」ということです。
つまり、技きん出たもの、上にある者として認めるという意味が、「崇」という字になります。

「高」という字も同じです。
「高し」と書いてあります。
「高し」ということも、結局比ぺてみて、「極だっている」ということです。
したがって、崇高な、という形容詞がつく神というものは、やはり人間ならざるものであって、
人間の想像を超え、想像を絶したような、偉大な力を持っている存在、ということになりましょう。



-正しき心とは- 3

-正しき心とは- 5

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心の探求 -正しき心とは- 5  

心の探求128-184


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神の存在証明①
  この世の中のすべてのものは創られたるものとしての痕跡がある


こうした方、第一原因者としての神がいられるか、いられないか、
これを人間はしっかりと掴むことができないけれども、
先ほど言った定義も、またこの神の存在を補強するための、証拠づけるための、材料であることは事実です。

結果に対しては原因があるということを考えれば、やはり、
この世界を創ったものがあると考えることは、常識的に考えても筋が通っております。

この世界を偶然にできたと考えるのは、最近の流行ではあるけれども、
これはある意味で、長い目、あるいは広い目で見るならば、異常な思考といわざるをえません。

偶然に人間ができるでしょうか。
人間がアメーバーから偶然に進化してくるでしょうか。

人間というものは、いってみれば、超高層建築のようなものです。
四十階建て、五十階建ての高層建築のような、目的性を持ったしくみを持っているのです。

ところが、現在の進化論の主流というのは、
偶然の連鎖によって人間ができていると、
現時点の肉体と精神を持った人間ができていると主張しております。

これはいってみれば、コンクリートのかたまりや砂や砂利や、あるいはプロックとか、
鉄筋とか、こういうものが転がっていて、偶然に風が吹き、偶然に雨が降って、
コンクリートがこねあげられて、そして、いつの間にか鉄筋が積み上がって、
つまり、偶然に地震か何かで鉄筋が積み上がって、そして超高層ビルができた、というのと同じなのです。

人間のしくみの複雑さを知れば知るほど、
それが偶然に、そういう材料の寄せ集めでできたものでないことは、明らかであります。

それは、目的性を持っているのです。

人間の肉体だけを見ても、DNAとかRNAとかいうような、遺伝子の情報システムによって、
人間の肉体ができているということが、生物学によって解明されているけれども、
これをもってしても説明とはなっていないのです。

なぜ両親からDNAとかRNAとかいうような遺伝子の情報が伝えられるのか。
この情報とは、そもそも何なのか。
この分析ができていないのです。
偶然にそういう情報が伝わると考えるのは異常であります。

これは、今の例でいうならば、五十階建ての超高層建築ができたなら、
その設計図を窓からひらりと落としたならば、
隣にもまた同じようなビルが建ったということと同じようなことになります。

遺伝子情報があるからといって、まったく同じものができるという、
その不思議そのものを探究しなければ、意味がないわけです。

ビルの設計図を落としたところで、もう一つのビルは建たないのです。
ビルを建てるためには、その設計図を見て、それを造る人がいなければ建たないのです。
そういうことだと思います。

したがって、第一原因論としての神というものも、合理性があるわけです。
すべてこの世のものは、創られたるものとしての痕跡がある。

それは、生きているものもそうであるし、生きていない鉱物や、あるいはいろんな建造物にしても、
原因者としての創った者がいる。
それならば、第一原因者としての神というのを考えるのは当然ではないでしょうか。



-正しき心とは- 4

-正しき心とは- 6

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心の探求 -正しき心とは- 6  

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神の存在証明②
    科学で解明できない現象の実在


また偶然で起きるといわれつつも、この世には偶然ならざる事件が数多くあります、
物質化現象として、たとえば金粉が降るというようなこともあれば、
あるいは病が瞬時にして治るようなことも、事実としてあるのです。

それを科学でもってしては、なかなか解明ができないのです。

心霊手術ということについても、百パーセントの成功例というわけにはいかないけれども、
ただメスも使わず、麻酔も使わず、薬も使わずに、人間の病気が霊的なる原因によって、作用によって、
治りえるということは、歴然とした事実であります。
これにどう説明をつけるかということです。

神の存在証明③
   人類史に残っている偉人が神の存在を認めている事実


また別の時には、イエスとか、釈迦とか、モーゼとか、こうした人たちが、
通常の人間をはるかに超えた存在であったことも事実です。
孔子という人もそうです。二千五百年間、東洋の歴史を揺り動かしてきた巨人というものは、
これは同じく、六十年、七十年の人生を生きた人間としては、
あまりにもけたはずれに大きすぎるのです。

今の日本には、一億二千万人の人口がいます。
このなかで、二千五百年の後に名前を残す人がいったいどれだけいるでしょうか。

同じく数十年の人生を生き、同じく一日は二十四時間であり、
同じく一日で活動できる量は限られております。
けれども、その限られた有限の世界のなかで、何千年も残るような業績をあげる人もでてくるのです。

その違いは、まさしく先はどの「崇高な」という例であげた、その言葉どおり、そそり立っているのです。
そそりたつような巨入というのが、現にあるのです。
 
その巨人を見て、巨人自体が、また自分を上まわる神というものの存在を認めていることを知った時に、
人間は、やはり奥なる存在を推測せざるをえないのです。

人類史にそそり立った巨人というものを、偉人というものを通して、
神なる存在というものを推測していかねばならぬのです。

こうしてみると、その神というものがあるということを、認めていかざるをえないと思うのです。



-正しき心とは- 5

-正しき心とは- 7

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心の探求 -正しき心とは- 7  

心の探求128-184


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正しい法規とは、神から流れ出てきた教えである

では、先ほど言った交通ルールは何だろうか。
その正しい法規とは何かというと、その神から流れ出てきた教えということになりましょう。
では、どのようにして、神から流れ出た教えというものを判断するのか。

地上にはさまざまな思想家あり、哲学者あり、文学者あり、芸術家あり、
そしてまた宗教家ありである。

この百花繚乱の姿を見た時には、どれが真実であり、どれが真実でないかと、
どうやって見分ければよいのか。
これが問題であろうと思う。

どれが正しい法規かがわからなければ、そのルールを守ることもできないはずです。

そこで私は、正しいルールであること、
神からの教えであるということを見分ける基準というものを、明らかにしたいのです。

これはすなわち、真実なる神の教えでありますから、
いわゆる神理であり、また正法ということになります。

したがって、正法の定義とは何かということが問題になるわけです。

何をもって正法とするか、
正しい教えとするか、ということを定義すれば、このルールが明らかになります。


正法の定義①
   過去の人類の知的遺産に照らして合致すること


私は、正法の定義として三点を挙げていきたいと思います。
それが正法かどうか、正しい教えかどうかを見極める第一点目の、第一番目の物差し、
これは、その教えというものが、過去の人類の知的遺産に照らして合致するような、
納得を得るような内容を含んでいるかどうかです。

最近のものは、正しいと思われるものでも評価が定まっておりません。
しかしながら、古きものは、ある程度評価が定まっているのです。
これは動かないのです。

釈迦の業績というものは、誰が何を言おうとも動かないのです。
これはエシプトのピラミッドのように固まっているのです。

またイエスの業績も動かないのです。
無神論者であっても、神を信じない人であっても、
イエスを気狂いだという人は、今いないはずです。

クリスチャンでなくとも、霊を信じなくとも、
イエス・キリストをおかしいという人はいないのです。

現在ある、キリスト教徒たちやキリスト教系の新興宗教はおかしい、という人はいくらでもおります。
しかしイエス・キリストそのものを狂人だと考える人はいません。

けれども、イエスの時代の当時の人たちはそう考えて、彼を十字架にかけたということですね。
そういうように、時代が新しいとわからないけれども、
古い時代になると明らかにわかるということです。

そうすると、正法の基準としては、釈迦なり、イエスなり、ソクラテスなり、
モーゼなり、孔子なり、こうした過去の評価が定まっている偉人の、人類に対する知的遺産、
これと照らし合わせて、大きな矛盾がないかどうか、納得がいくような真理が、
合致するような真理がそこにあるかどうか。
説き方の違いはあるにしても、本質において同じかどうか。

これが点検されねばなりません。時代が変わる分だけ、教えが変わるだろうけれど、
その本質が変わるようであっては、神からの教えとはいえません。これが第一点です。


-正しき心とは- 6

-正しき心とは- 8

category: 心の探求

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心の探求 -正しき心とは- 8  

心の探求128-184


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正法の定義②
  何らかの人智を超えた現象を伴うこと


第二点は、何らかの人智を超えた現象というものを伴うということです。

キリストにしても、釈迦にしても、モーゼにしても、マホメットにしても、
それぞれ時代を傑出した巨人となった理由は、
やはり通常の人間ならざるものを示したということになっている。

何らかの現代的知識や科学をもってしては証明ができないような、
そうした現象を伴うということ。
奇跡を伴うということ。これもまた正法の認定の材料です。

神が、そうした偉大な人を送り込んできて教えを説かすとするならば、
その人の教えを支援するために、さまざまな援助をするはずです。援助をしないわけはないのです。

神がする援助は何であろうかというと、
その人が真実の教えを説いていることを証明するための材料を与えるはずです。
その人にとっての武器を与えるはずです。

これがある時には霊言となったり、霊視となったり、霊聴となったり、
あるいは三世を見通すカとなったり、いろんな超能力としてあらわれる場合となるわけです。

結局、神が自分の教えを広めようとして選んだ人を出した場合には、
何らかの援助が伴うということです。


正法の定義③
  現代人の知性と理性に訴えかけて矛盾しない理論の存在


三番目の基準は、理論としても筋が通っているということです。

単なる鰯の頭も信心ではないけれども、
とにかく理由もなくありがたいというものであってはおかしい。

神が宇宙を統べる方であり、宇宙の理法の体現者であるならば、
そこから流れ出した教えもまた、宇宙の理法を体現しておらねばならない。
宇宙の理法を体現しているということは、そこに理路整然とした筋があるはずです。

つまり、一番目で、私は人類の知的遺産との共通性があることを言いましたけれども、
同じように、現代人にとっても、納得のいくような理論があるということです。
その現代人の、知性と理性に訴えかけて、納得を得られるような理論があるということです。

とにかく、そのペンダントに手を合わせれば自分が救われるというようなことは、理論の筋が通っていないのです。
とにかく戒名をつければ幸福になるというのは、理論の筋が通っていないのです。

なぜ戒名をつければ救われるのか、幸福になるのかの理論がない。
なぜペンダントを首に下げれば幸福になるのか、その理論がない。
そうした理論を、人類の幸福というならば、なぜ幸福になるのかということの、
つじつまの合った理論が必要です。

理論的にその説明ができないものは、やはり正法としての定義から外れるということです。

以上で、三つの基準を私はあげました。
第一番目に、人類の知的遺産と共通する教えがあるか。
第二番目に、なんらかの神の援助と思われる現象を伴っているか。
第三番目に、生きている人間が見ても、納得がいくような理論があるかどうか。

単に「信じなさい」というような飛躍のある教えになっていないかどうか。
換言すれば、その教えのなかに合理性があるかどうかです。

人類の知的遺産との共通性、何らかの現象、そして理論としての整合性、合理性、
この三本の柱を立てたいと思います。

この基準でもって判断して、正しい教え、神から出た正法だと思われるものであるならば、
あとはこの交通法規にのっとって、人間は運転をしていくということになります。



-正しき心とは- 7

-正しき心とは- 9

category: 心の探求

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心の探求 -正しき心とは- 9  

心の探求128-184


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正しき心の探究①
    正しさの基準を知って、そのルールに添った自分をだんだんに創っていく


したがって、正しき心の探究というのは、この正しさの基準というものをまず知って、
このルールに添った自分というものを、だんだんに創っていくということになります。

人間の心というものは自由自在でありますけれども、これを唯物的なものと考えて、
脳みそのなかにあるしわだけが心だと思っているような人にとっては、
死んであの世にも心があるということの納得がいかないはずです。
それは一つの迷いであります。

心の操縦、運転、作用というものを考えた時に、
今いった基準によって判断した正しい教えというものを、
実践していくということがだいじなわけです。

これは、知り、かつ行なうこと、陽明学でいう知行合一といいます。
知るということと、行なうということが合して一つとなる、これがだいじなことです。

この陽明学の教え、中国の王陽明という人が説いた教えがありますけれども、
その知行合一の教えというものは、じつは中国的に現われたる仏教の教えそのものであったということです。

正しい教えというものを知って、それに則った生活を実践していくということが、
陽明学の本質でありますから、これはまさしく、仏教の根本と同じであり、
それが違った形で出たということになります。

このように、「正しき心とは」という問いに対して答えていくとするならば、
まず神理を知るということ。これが第一で、次に、
知った神理に則った行動をしていくということです。

正しき心の探究②
   神の創られた世界を発展させながら調和させていく方法


神理の中味は多様です。それを一概にいうのは難しいけれども、
ただいえることは、神が神である理由は、自分の創ったものを愛しておられるということです。
自分が創った宇宙、地球、人間、生物、そしてさまざまな風景、
こうしたものを必ず愛しておられるはずです。

そうであるならば、神が愛したもうものを、人間もまた愛するであろう、
愛してほしいというのが、その願いのはずです。

したがって、正しき心の探究は、結局のところ、
神の創られた世界を、大きく発展させながら、調和させていく方法だということになります。

すべての入間が、仲睦まじく生きていくことができて、そして社会全体が発展していく。
こういう生き方が本当です。

これを私は、「私的幸福」と、「公的幸福」ということで話をしています。

人間は、自分自身の幸福という、「私的幸福」を探究することが、これが一つの義務であります。

けれども、この「私的幸福」は、他人の幸福を妨げてはならないのみならず、
他人の幸福をも増進するものでなくてはならないという「公的幸福」という使命を持っております。

「私的幸福」と「公的幸福」という二つの幸福の探究、
これこそ、神が願っておられることにほかならないのです。

正しき心の探究は、結果として「私的幸福」と「公的幸福」の実現、
調和発展につながっていく


したがって、人間が正しい知識を持って、それを生活に実践していく方法は、
私的な幸福と、公的な幸福というものを、共に追究していきながら、
それを大調和していく方法、ということになります。

人間として生まれた以上、最大限の自分を発揮する、自分を最高に生かしていく、
というのが、これが「私的幸福」の探究の原理です。

また、自分を最高に生かし、最高に発揮し、最大限の仕事をしながら、
他の人びとを幸せにしていくというのが、「公的幸福」です。

結局、正しき心の探究は、結果として、「私的幸福」と「公的幸福」の実現、
その調和、発展、そうしたものにつながっていくはずです。

その目的性というものを、一つの絞りとして、逆思考をして、
正しき心の探究とは何なのか、これを考えていく必要があるわけです。

そうした目的さえ誤らなければ、
心のなかに去来する思い、そしてその実践たる行ない、
これを調整していくことができるのです。

これが人間に課せられた一つの大きな使命でもあるといえると思います。
これが本章で私が語りたかった「正しき心の探求とは何か」ということになります。

それは、神の心を心として生きるということであり、
神の心とは何かというと、それが「正法」判断の基準にのっとった教えの発見であり、
その発見を元にした行動基準であり、

その行動の結果として創られる「私的幸福」と「公的幸福」の世界、
すなわち、これ、地上ユートピアの建設ということです。

正しき心の探究とは、結局、自分の幸福と他人の幸福とを合わせた、
地上ユートピアの建設という結果となって現われてくるのです。

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「正しき心とは」何なのか、ということについて数回にわけて紹介させていただきました。
いかがでしたでしょうか。

人間本来の姿とは、心そのものであり、その心を正してゆく事こそが本来の幸福につながるのである。
それが、本章の内容であると思います。

この事をかてとして、みなさまが真実の幸福を手に入れていただくことを祈ります。



-正しき心とは- 8

category: 心の探求

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