イエス・キリスト霊示集 -愛の原理- 1 
2016/07/03 Sun. 10:46

今日は、許しということに関して、話をしてみたいと思います。
みなさま方の中で、一体何人の方が、他人を許し得たことがあったでしょうか。
あなた方は心静かに目をつむって、思い出してみてください。
一体あなたは人生の途上で何人の人を許したでしょうか。
許した数が、十人以上にのぼるひとがあれば、それは珍しい方であろうと思います。
なかなか、十人もの人を許した覚えはないというのが、通常の人間ではないでしょうか。
しかるに、自分の一生というものを振り返ったときに、あなた方が害したことのある人は、
一体何人あったとお思いでしょうか。
あなた方が人生の途上で害した人は、おそらく十人という数では済まなかったのではないでしょうか。
もっともっと多くの人たちを害したのではないでしょうか。
彼らを心理的に害したり、経済的に害したり、そうしたことをしたのではないでしょうか。
さすれば、自分は自分が害した人と、自分が許した人とのこの違いを比べてみたときに、
善人であるか、悪人であるかということを自らの心に問うてみてほしい。
十人以上の人を害したことがない人であるならば、十人以上の人を許さなくてもよいかもしれない。
しかし、現実は一人の人も許したことがないにもかかわらず、数名にとどまらず、数十名の人びとを
害していったのが人生の道筋ではなかったでしょうか。
そして、その害しているということすら気づかずに、生きているのが大多数の人間の姿ではないでしょうか。
害している、自らが他人を害しているということさえ、気づかぬ人間。
そうしたことは数多くあるのです。
みなさま方も、自分は他人に害されたと思っているけれども、その当人は、そうしていない、そう思っていない、
こういうことに数多くめぐり合ったと思います。
あの人はこういうことにも気がついていない、そう思ったかもしれません。
ただ、あなた方にも同じことはあるということを知らねばならないのです。
知らないで、害したことはあるということです。
さすれば、心の中に静かに思いをいたして、自分が人生の数十年の間で、
一体何人の人を害したであろうかということに思いをめぐらしてみてほしいのです。
父に対して、母に対して、兄に対して、弟に対して、姉に対して、妹に対して、友人に対して、先生に対して、
また職場の同僚に対して、自分をひいきにしてくれた人に対して、
あなた方はその友情を裏切るようなことはなかったでしょうか。
彼らの信頼を裏切るようなことはなかったでしょうか。
そうすれば、罪深い自分という姿が、ふつふつと思い出されるはずであります。
あなた方がいくら思い出しても、思い出しても、それですべてが十分というわけではありません。
けれども、その思い出しても十分でない数以上に、人を許そうということ考えてみてください。
具体的に会うことができる人であるなれば、会って許しを請うことも大事です。
会うことが出来ない人であるならば、心の中で許しを請うてほしい。
そして、自分が許されたという気持ちがないならば、神に対して、許しを請うてほしいと思います。
神はきっと、あなた方の罪を許してくださるでしょう。
結局のところ、こういうことです。
罪なく人生を生きている人はいないんです。
また、他人を一度も害することなく、人生を生きている人もいないということです。
「汝らのうち、罪なき者のみ、この女を石にて打て」と、聖書の中に記されています。同じであります。
あなた方のうち、人を害したことがない人だけ、他人を悪人呼ばわりすればよい。
あなた方のうちで、心に悪を思ったことがない人だけ、他人を悪人扱いすればよろしいでしょう。
あなた方の中で、心に恥ずべきことをしたことがない人だけが、他人の恥を責めればよい。
こうしてみると、なかなか、人のことを悪く言うことは難しい、ということが言えると思います。
さすれば、許しの根源にあるものは、しっかりとした自己鑑照、自分を振り返るということにあると言えましょう。
自分を深く、深く振り返ったときに、他人に対して厳しくはなれないのです。
他人を許さんがために、許すのではないのです。
その許しは、同時に自分を許すための許しともなっているのです。
自分を許すがための許しとも、なっているということです。
自分が自分を許す、自分が神に許していただく、そのためにも他人を許しているのです。
一生において、百人以上の人を許したことがある人は、どれだけいるでしょうか。
数少ないことであろうと思います。
しかるに、神は一体どれだけの人を許しているとお考えでしょうか。
それは、地上に五十億の人間ありとすれば、神は五十億の人間を許し給うているのです。
さすれば、神の境地とあなた方の境地はいかに違うことでしょうか。
この地上でいくら優れた人であっても五十億の人を許しているような人がいるでしょうか。
「汝の敵を愛し、汝を迫害する者のために祈れ」という言葉は、今もまた、金言であるのです。
あなた方も、そうであるならば、「汝の敵を愛し、汝を迫害する者のために祈れ」という言葉を心に命じてほしいと思います。
これは正確に言えば、「汝の敵と見えしものを愛し、汝を迫害するかのごとく、振舞う者のために祈れ」ということです。
本当の意味での敵というものはない。
そこにあるのは、誤解せる人が存在するというだけです。
それなら人のために愛を与え、そして、あなた方を迫害する人のために、心から祈って上げなさい。
それが大事です。
そうした誠意は、いつか必ず相手に伝わっていくものです。
-愛の原理- 2
category: イエス・キリスト霊示集
イエス・キリスト霊示集 -愛の原理- 2 
2016/07/10 Sun. 08:54

神は、私たちをけっしてさばくことはありません。
けっして、私たちを見捨てることはありません。
それは、私たちが、たとえ、どんな悪を犯そうとも、どのような人になったとしても、
そして、たとえ世界中の人に見捨てられたとしても、神はけっして見捨てることはない。
神は、ありのままの私たちを受け入れてくださることでしょう。
そして、その罪をどこまでも、どこまでも、赦し、赦し、赦し続けてくださることでしょう。
そして、どこまでも、深く、深く、私たちを思いやってくださることでしょう。
どこまでも、どこまでも、深く、深く、心配してくださることでしょう、癒してくださることでしょう、
かわいがってくださることでしょう、どこまでも、どこまでも、愛を与え続けてくださることでしょう。
愛といういうのは分かち合いなのです。
母親の愛を見てください。自分の子どもが、頭が良かろうが悪かろうが、
姿形が美しかろうが醜かろうが、運動神経が良かろうが悪かろうが、才能があろうがなかろうが、
「かわいい」と一心に抱きしめる。それが母性でしょう。
神の愛とはそのようなものです。
だから、あなた方が優れているから、優れていないからといって、神が差別されることはないのです。
神が、私たちをいとおしみ、慈しんでくださる思いが、どれほど深いものか、どれほど慈愛に満ち満ちたものか、
それは、肉体をもって生きている私たちには、なかなかわからないことなのかもしれません。
しかし、いつの日か、永遠の生命をもち、永遠の転生輪廻を繰り返していくなかにおいて、
永遠の進化をしていく途上において、いつの日か、神の御心がわかる日がくるでありましょう。
そして、それは、人間として生まれたなかにおいて、最大の幸福の瞬間でありましょう。
そして、そこにあるものは、神に対する圧倒的な感謝以外、なにものもありえないことなのです。
そうであるならば、そうした神の愛に感謝したならば、それを分かち合ってゆきましょう。
多くの人々の、喜びも悲しみも、苦しみも、他人ではなく、自分のこととして、自らの喜びとして、悲しみとして、苦しみとして、
すべてを分かち合ってください。
そうすれば、他の人びとも、必ずや、あなたとともに喜んでくれることでしょう。
あなたとともに悲しんでくれることでしょう。
私たちはみな、神の子なのです。
別々の存在のように見えるかもしれない、しかし、すべて私たちは、心の奥底において、つながっているのです。
すべては、神の子として一つの存在なのです。
ですから、共に、すべてを受け入れ、許しあい、分かち合い、共に進歩してゆきましょう。
無限の時を、ともに幸福になってゆきましょう、喜びも悲しみも、すべてを分かち合いながら、
神に向かって、ともに進化発展してゆきましょう。
それを、神様は、大いなる期待をこめて、大いなる祈りをこめて、無限の時を与えて待って下さっています。
それが、愛であり、神の御心そのものではないでしょうか。
そして最後に、付け加えておきたいことがあります。
他の人に対して与えた愛、それは、与えられた人そのものを幸福にするものであり、すばらしい光であることに変わりありません。
しかし、それと同時に与えた愛というものは、めぐりめぐって自らに還ってくるものなのです。
与えた愛というものは、他の人を幸福にすると同時に、与えた人そのものに還ってくるようになっているのです。
では、それは、どこから来るのでしょう、どこからそれは、与えられるようになっているのでしょう。
それは、神からくるのです、神から大いなる恵みとして、すばらしい幸福として、すばらしい光として、
神様から与えられるようになっているのです。
与えた愛というものは、それすなわち、与えた人自身のものになるようになっているのです。
どうか愛を与えてください、見返りを求めることなく、愛を与え続けてください、与えきってください。
そうすれば、必ずや、幸せの原理として、あなた方に戻ってくるでありましょう。
どうか、この言葉を信じてほしい、そして勇気をもって、希望をもって生きて言ってほしい。
それが私の願いです。
-愛の原理- 1
category: イエス・キリスト霊示集
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