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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

永遠の法 -五次元の世界- 6  

永遠の法120-171


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6悲しみと苦しみ

さて、ここで問題となるのは、いわゆる天国と言われる四次元、
それからこの五次元世界に還って来ると、悲しみとか苦しみとかいうものは、
もう事実上消え去ってしまって存在しないのかどうかということです。

昔から、天国というのは永遠の楽園であって、悲しみや苦しみがないというふうに言われております。

そこで、この点について、さらに話をしていきたいと思います。
普通は、悲しみとか苦しみとかいうものは地獄特有のものであって、天国にはないとよく言われています。

それでは、人間が涙する、つまり、泣くということについては、
神様はもともと予定されていらっしゃらなかったのでしょうか。

あるいは、天国にいる人は笑うことしかできないのでしょうか。
こういうことについて、少し考えてみたいと思うわけです。

そうすると、喜怒哀楽というのはやはり人間の基本的な感情である、このことは否めないと思うのです。

喜怒哀楽、すなわち、喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、こういう感情ですね。
こうしたものは、やはり基本的にあると言わざるを得ないと思うのです。

たとえば、喜びの反対にあるのが悲しみでありましょうけれども、悲しみというのは、
喜びの不在かと言うと、それだけでは説明のつかないものがあります。

昔から一元論、二元論の争いがあって、
たとえば、悪というのは善の不在であるというような言い方をしますね。

また、寒さというのはなくて、それは熱の不在、暖かさの不在だというような言い方をします。
アメリカの光明思想家、つまり、ニューソートの草分けのひとりであるエマソンという人も、
そのように考えていたようです。

碓かに、これは一面としてはあたっているわけで、寒さというのは熱の不在であり、
また、悪というのは善の不在でもありましょう。

しかしながら、それだけでは説明ができない何かがあるわけです。悲しみというのは涙をともなうものです。

では、涙が出るという現象、これは喜びの不在かというと、必ずしもそうとは言えません。
喜びがないというだけでは、涙が流れることはない。

そこで、やはり悲しみというものもあるということを、私たちは知らねばならないのです。

苦しみ、楽しみの反対の苦しみという感情、これがあるかないかですね。苦しみは実在しないのか。
楽しみのみが実在で、苦しみは実在しないのか。楽しみがないところに苦しみがあるのか。

こうした一元、二元の問題について、もう少し考えてみたいと思います。

そうしてみると、苦しみというものも、やはりないわけではないということですね。

すなわち、スポーツならスポーツをして、テニスならテニスをして、一時間、二時間苦しい表情をして、汗を流す。
その後でのさわやかさ、そのそう快感の前には、汗を流すという現象があったことは事実です。
そういう肉体的な疲労や苦痛感が、後のそう快感につながっています。

このように、やはりこの世とそれからあの世の大部分のなかにも、二元的なるものがあると言わざるを得ないのです。

究極の神が光一元であり、善一元であり、愛一元であり、善きものでしかないとしても、
神がこの三次元の地上界や、あるいは、下位霊界、すなわち、四次元、五次元などを創られた理由は、
魂の進歩向上というところにその主眼があったと思われるのです。魂の進歩、向上というのは、
やはり、相対の世界のなかにおける向上ということなのです。

切磋琢磨し、互いに磨き上げるものがなければ、なかなか向上というものはむずかしいものです。

一元論、つまり、喜びしかないという世界は、素晴らしいように見えても、
ある意味では、ぬるま湯的存在であることも事実なのです。

そういう意味において、悲しみや苦しみと思えるものを、神が方便として、地上界や、あるいは、
下位霊界においては与えられているものであるというように感じられるわけです。

五次元霊界人であっても、自分の自己実現が困難と感じられるようなことというのは、やはりあるわけです。

五次元にあっても、やはり地上の人と同じように、祈りということをやっているのですが、
その祈りが十分にかなう場合と、それほどかなわない場合とが、やはりあるのです。

それは、彼らにとっては自分の祈りは正しい祈りかどうか、これがなかなかわからないけれども、
上位にある神霊から見れば、まだそれがかなうべきときでないというような場合もあるわけです。

しかしながら、彼らの祈り、すなわち、念いが実現しないとき、やはりある程度の悲しみや苦しみをともなうのは事実です。
ですから、彼らは魂であるけれども、魂としての足腰を鍛えていると言うことができるわけです。




-五次元の世界- 5

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永遠の法 -五次元の世界- 7  

永遠の法120-171


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7魂の糧

すなわち、この悲しみや苦しみというものは、迷いであって、
本来ないんだと言いきっていいかどうかという問題があるわけです。

本来悲しみなし。本来苦しみなし。それらは迷いの姿であって、実在ではないのだという考え方もあります。
ただ私は、これに対しては、やはりひとつの異議を唱えるものであります。

神は神である以上、何らの進歩、発展がないのです。

神が神である以上は、それは完全であり、無欠であり、そして、
自然であり、至愛であり、至福である。すなわち、究極の善であり、究極の真理であり、究極の美である。

こうした存在であるならば、神は神として何らの進歩、発展、また、喜びをともなわないものであると思うのです。

神は、ちょうど庭仕事のようなもの、たとえば、庭園をつくるような気持ちでもって、
この大宇宙を創られたと思われるのです。

そして、あそこに岩をすえ、ここに池を堀り、ここに魚を放ち、また、
小さな木を植えたり、大きな木を植えたり、果物を実らせたり、
あるいはまた、ときには、雑草を植えてみたり、さまざまなことをして、
ひとつの庭という景観を創るために努力をされたのではないかと思われるのです。

そうしてみると、人間の目には、不完全に見えるさまざまなものごとも、
実は、神がひとつの庭園を創るために醸し出された情緒、これにしかすぎないのではないか、と。

だから、雑草というのも少しはあってよい。背の高い木もあり、低い木もあって、あるいは、
うず高い小山だけではなくて、池のようにえぐれた部分もある。

こうしたさまざまなものがあって、神の庭園ができているのではないか。
神はその庭づくりを楽しんでおられるのではないか、と。
こうした感じもあるわけです。

ですから、悲しみや苦しみは、実在とまでは言いきることはできないけれども、
ある一定の制約のなかで、そうしたものの存在を許されていることが事実なわけです。

先ほども言ったように、喜びというのは、これが不在となったときに悲しみとなるのかと言うと
必ずしもそうではなくて、喜びがなくなっただけでは、涙は出ないのです。

涙が出るというのは、やはり悲しみという積極的作用もそこにはあるということですね。

楽しみというのがなくなったときに、すぐ苦しみになるかと言うと、そうではなくて、
苦しみにも積極的な原因というものがある場合もやはりあるのです。

まあ、こういうように、悲しみ、苦しみというのもあるわけですけれども、それは、
悲しみ、苦しみが現にあって、それで良きものと思われているからあるのではないということです。

この地上の悲しみや苦しみ、また、四次元界、五次元界の魂の苦しみ、悲しみ、これは、
大きな飛躍のための悲しみや苦しみであるということも事実なのです。

ですから、このように、自分はこういうようにしたいと思うことがなかなか実現しないという場合、
それに悲しみや苦しみがつきまといます。

また、自分の意図に反した結果が現われたときに、それが苦しみとなったり、
またその結果次第によっては、悲しみとなって涙がほとばしる。
こういうようになるわけです。

けれども、この涙は、この汗は、決して涙のための涙ではなく、汗のための汗ではなく、
より高次元なものを招くための、清涼感の前の汗であるのだということ、これを知らねばならぬということです。

したがって、この世の世界を苦の世界、苦しみの世界とか、悲しみの世界とか見てしまわないで、
苦や悲しみもあることはあるけれども、それはより良きもののための砥石の役割をしているのだということを
知らなければならないということです。

玉石混淆ということばがありますけれども、石のなかで王が光ってくるのです。

また、揉まれて揉まれて、生長してくるものがあるわけです。芋の皮を剥くように、
ゴシゴシとお互いに擦り合って、そして良くなっていくのです。

このように、魂の糧として、悲しみや苦しみというものが用意されているわけです。

しかしこれは、それが続くことが予定されていることではなくて、魂の糧としてのみ、
こうしたものを経過することが許されているのです。

そして、究極的には、喜びや楽しみの世界、あるいは、常楽の世界、常夏の世界、
こうした世界へと向かうようにとなっているわけです。

ですから、こうした苦悩というものは、魂の糧としてのみ存在が許されている、と。
このように考えるのが一番よいであろうと思います。




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