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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

永遠の法 -四次元の世界- 1  

永遠の法120-171


私がここにて、みなさまにお伝えしていること、それは、
私たち人間の本来のすがたは、肉体ではなく、そこに宿っている魂、心こそが本来のすがたであり、
死して肉体はなくなっても、魂はなくなることはない、実在界、つまりあの世の世界にて、
永遠の生命をもって生きつづけているのだ、ということです。

今回お伝えしたいのは、そのことからもう少し踏み込んで、
では、あの世の世界とは、いったい、いかなる世界なのか、

いったい、どのような人が住んでおり、どのような生活をしているのか、
この世にて、どのような生き方をすれば、どのような人生を送ったならば、そうした世界に還っていけるのか。
そうしたことを、お伝えしようと思います。

もちろん、肉体を持ってこの世の世界に生きていれば、目に見えないあの世のあり方そのものを、
あたかも、映像に写し出したように説明をすることはできません。

しかし、あの世の世界の神秘を、出来るだけ理論的に、かつ現実感を踏まえて説明できる
そのような書が、もし存在していれば、その書を紹介することにより、
みなさまに、あの世の世界のいかなるかを、理解していただけるのではないかと思います。

今回紹介させていただく書は、永遠の法、という書でありますが、
この書によりますれば、あの世の世界というものは、大きく分けて、六つの階層に分かれているようです。

それは、四次元幽界、五次元霊界、六次元神界、七次元菩薩界、八次元如来界、九次元宇宙界、
というふうに命名されています。

一番人口の多い世界は、四次元幽界というところであり、上段階に進むにつれて人口は少なくなっていき、
九次元宇宙界にいたっては、十人しかいないということです。

それでは、まず、私たちがこの世を去って、まず最初に足を踏み入れるであろう世界、
「四次元の世界」について、ご紹介していこうと思います。

本日より数日をかけての説明となると思いますが、どうかすべて読んでいただき、
あの世の世界についての理解を深めていただきたいと思います。

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あの世とこの世

人間にとっては、自分が何処から未て、何処へ去って行くのか、これは重大問題であり、
常に心の底から、このことが離れることはないでしょう。

しかし、人間が何処から来て、何処へ去って行くのかということに、
未だかつて明快に答えきったことがある人は、数少ないであろうと思われます。

すなわち、この問題は、あの世とこの世の関係というものを解明せずしては、答えが出ないものだからです。

しかも、残念ながら、現在、地上にある学問のレベルにおいては、あの世とこの世について
明快に説明をするだけの学問的蓄積も、方法論の確立もありません。

しかし、微かながらもあの世とこの世を解明する手立てとして、
時代時代に現われる霊能者の活躍というものがあります。

といっても、霊能者のなかにもさまざまな方がおり、もちろん、そのなかには、
ほんとうに信頼できるような方もいらっしやいますが、
たいていの場合においては、人格的に未熟な方、人格的におかしい方であり、こういう方が数多くおられるため、
世の人びとは、そのことばを一様に信ずることができないのです。

ですから、霊能者と言われる方が、何とかの霊が見えたとか、あるいは、
あなたは一年後にこういうことになるとか言ったとしても、それを実証するものが何もない。

そのため、不安感が残り、それを信じることができないのです。そういうことだと思います。

すなわち、あの世とこの世を解明するにあたって、その不確かさというのは、実を言えば、
そのことを追体験ができないというところにその原因があるわけです。

もし誰もが同じような体験を重ねることができるならば、すべての人が、
あの世とこの世があることを認めるでしょうけれども、実際には、
特殊な人にしか追体験を許さないことになっています。

それゆえ、普通の人にはそれがわからない。そこで、世の常識ある人びとは、あの世の存在、そして、
あの世との関わりにおける、この世というものを認めたがらないわけです。

人間は、自分の人生観、人生の目的というものを、常々考える存在ではありますけれども、
自分が大宇宙のなかにおいて、どのような存在であるのかということを明確につかむまでは、
確固とした人生観、確固とした人生の目的というのは、真に確立し得ないのです。つまり、一大問題であるからです。

もし唯物論者の言うがごとく、母親のお腹のなかからいきなり生命が発生して、そして、六十年、七十年生き、
やがて焼き場で焼かれてしまったら、それで終リになってしまう人生であるならば、もしこうしたものであるならば、
それなりの考えをもって生きていかねばならないでしょう。

けれども、宗教家たちが言うように、実在界という世界があって、あの世からこの世に生まれ変って来て、
赤ん坊に生まれて何十年かの人生を生き、その後、この地上を卒業して、あの世の実在界において、
さらなる魂の向上を目指しているのならば、また、考え方が違うということです。

これは大きな目で見れば、人生というものを、たとえば、小学校だけと見るか、小学校、中学校の義務教育と見るか、
あるいは、大学まで卒業して一人前と見るか、こういういくつかの見方があると思うのです。

唯物論の考え方というのは、人生というものをいわば小学校のなかに閉じ込めているわけですね。
小学校の六年生が終れば、もう義務教育は終ったというような考え方でもありましょう。

しかし、霊界という世界があり、人間が永遠の生命として転生輪廻しているという考えは、
小学校を出ても中学校があり、高校があり、大学があり、大学院があり、そして、
社会に出てもさまざまな学びがあるという、連綿と続く学習の場としての人生というものを考えるということになります。

こうした二つの定点を置いてものを見た場合、どちらが人間の進化、あるいは、向上に役立つかと言えば、
その結論はあきらかであろうと思います。

すなわち、永遠の進化を目指すという観点に立ったとき、人間というものははるかに向上していくものだということです。
一回かぎりで、わずかな期間だけしか生きていないものだとするならば、
そうした線香花火のような存在だとするならば、人生には、やはり重大な意義も、目的も、見い出せないのではないでしょうか。

そして、もしそうであるならば、その短い期間の間を線香花火のように燃えつきるため、さまざまな快楽に耽り、
物質欲に耽り、放恣な生活をしてしまうのではないでしょうか。また、人間は、
誰もが個人主義に陥っていくのではないでしょうか、

わずか数十年の人生であるならば、
自分が楽しまなければ損だという考えになってしまっても、おかしくはないかもしれません。

しかし、永遠の人生であればこそ、人のために奉仕したことが、やがては、自分自身の魂の糧となって
必ず戻ってくると考えられるのではないでしょうか。

ですから、人生観、あるいは、人生の目的と使命というのを考える際に、
あの世とこの世という視点を理解しておくことは、非常に大切なことです。
これを外しては、ほんとうの意昧での人生というものを、また、人間というものを知ることはできないと思います。




-四次元の世界- 2

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永遠の法 -四次元の世界- 2  

永遠の法120-171


前回の続きを紹介いたします。

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死後の世界

では、この世を去った私たちが赴くところ、肉体を去って行くべきところをあの世とするならば、
あの世とは、一体いかなる世界なのでしょうか。地上を去る私たちに、
一体どのような世界が待ちかまえているのでしょうか。

それがわからないがために、地上の人びとは不安を抱き、怖れを抱き、「死にたくない」ということばに
その執着を表わしているのです。

百人の人に聞けば、実際、九十九人までが死にたくないと言うはずです。
その死にたくないということばは、決してこの地上が往みやすいから死にたくないというだけではないのです。

つまり、あの世の世界、死後の世界というものに対する不安感、恐怖感というのが大きいからこそ、
こうしたことばが発せられるのではないでしょうか。

恐怖感があるからこそ、死にたくないという気持ちがあるのです。

しかし、まれには、その不安感、恐怖感を通り越して、この世があまりにも往みにくいがために、
あまりにも苦しい世界であるがために、自らの生命を絶って、あの世へと旅立とうとする人もいます。

人間の考えはさまざまでありますが、いずれの考えをとるにしても、あの世の世界、死後の世界に対する無知、
こうしたものがその基礎にあると私は考えます。

ところが、これが学問としてまだ確立していないがために、人びとは困ることになるわけです。
そこで、私は、これをすべての人にわかる範囲で、できるだけ明確に、できるだけの知識を総動員して、
水先案内人としての自分の使命をはたす必要があると考えるのです。

海図なき航海は、不安なものです。しかし、もし、明確な海図というものがあれば、
その航海は、それほど不安なものとはなりません。

そして、自らが何処から来て、何処へ行くのか、どの大陸を目指して進んで行く船なのか、ということを知れば、
つまり、その海図を理解していれば、確かな旅ができるはずだと、私は思います。

では、実際に肉体を去ったときに、私たちは、一体どのようになるのでしょうか。
このことについて、私は話をしてみたいと思います。

すでにさまざまな書物のなかにおいて、私は、人生というのはわずか数十年の肉体人生ではなく、
この世とあの世を貫くものだということを、語ってまいりました。

しかし、実際に死ぬ段になると、人間はそのことをそう簡単には信じられなくて、
死ぬということに対する抵抗をするものです。

病人は病人で、死にたくないと言う。医者は医者で、何とかして生命を延ばそうと努力をします。
けれども、あの世の世界から見ると、数多くの死に近き人の側には、本人の守護霊や指導霊たち、
あるいは、光の天使たちが、もう来ているのです。

つまり、指導霊たちは、死に近き人たちを導くための準備を始めているのです。

実際、生命が息絶えたときには、人間の霊体というのが肉体から抜け出して来るわけですけれども、
最初は自分自身、その自覚がわからなくて、自分が二人いるというように感じてしまいます。

横たわっている自分と、自由自在に動いている自分がいる。やがては、その自由自在の自分が、人に話しかけても、
語りかけても、返事は戻ってこなくなる。
そして、壁でも物体でも通り抜けてしまうわけですが、そのことに、人間は非常な驚愕を覚えるでしょう。

また、肉体が自分だと思って、肉体にずーっと寄りそっていた魂は、焼き場に連れて行かれて、
そこで肉体が焼かれることによって、非常な衝撃を受けることになります。

そして、焼き場の周りで浮遊しながらも、どうしていいのかが分からなくなります。これから後、
どういう生活が待っているのか。まだ誰からも聞いていない生活。こういうことに対して、非常に不安を感じます。

こうしたときに、本人の守護霊が、まず、現われて、説得を始めます。

とはいえ、いかんせんこの地上に数十年生きていて、なかなか死後の世界に納得がいかなかった人が、
説得されたからといって、そう簡単には納得はしないわけです。

そのため、この地上でも、数十日の間、説得が行なわれるということになります。

初七日とか、四十九日とかいうことばがありますけれども、まあ、通常、二十日、三十日間は、
この地上に留まっていることが許されております。

その間に、普通の人たちは、守護霊や指導霊の説得を受けて、やがては、天上界へと還って行くことになっています。

ただ、あまりにも執着の強い人、執着というのは、何かに対する思いですね、地上的な何かに対する思い、
たとえば、残された子供、母、妻、主人、あるいはまた、土地、建物、財産、会社、事業、
こうしたものに非常に強い執着をもっている人というのは、なかなか地上を去りがたい。

ですから、こういう人は、いわゆる自縛霊と言って、地上に留まって徘徊することになります。
これが世に言う「幽霊」というものですけれども、これはほんとうの霊の性質ではなくて、
まだ霊に目覚めていない存在だと言うことができましょう。




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永遠の法 -四次元の世界- 3  

永遠の法120-171


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肉体の記憶

まあ、こういうふうに、ほとんどの人は、一様に、あの世の世界に来てショックを受け、
また、たいてい狼狽をするのですけれども、そうこうしているうちに、だんだん、
自分のあの世での生活というものに慣れてきます。

そして、いわゆる幽霊のように足がないわけではないのですが、
もう肉体がなくても自分が生きていけるということに気がついてきます。

不思議なことに、二十日、三十日と何も食べなくても死なないということ、
何も飲まなくても生きていられるということ。こうしたことに、最初の驚きを感じます。

そしてやがては、地上の人びとに話をしても、もはや何も聞こえないのだということにも気がついてきます。
そこで、いつまでもこうしたことをしていたのではいけないということも分かってくるわけです。

こうして、霊となった人間は、新しい感覚というものを身につけていくようになります。
その新しい感覚とは何か。

すなわち、霊的な感覚です。空中にも彷徨うことができるし、
物体を通り抜けることもできる。動こうと思えば、すぐに距離を移動できる。そういうことを感ずるわけです。

まだ地上に思いが残っていて、あの親戚の人に挨拶をしたい、あの友人に合いたいと思うと、そう思った瞬間に、
体が何百キロでも移動してしまう。こういうことに、最初は新鮮な感激を覚えるのですけれども、
やがては、このことが普通になっていきます。

そして、小学校一年生と同じように、新たな世界のなかで、自分がどう生きていかなければいけないのか、
その世界観の獲得と、自己認識のあり方というものを、探究し始めるようになります。

このように、肉体の記憶というものは、だんだんに薄れていくわけですが、なかには、それが薄れないで、
ますます強くなってくる霊もいます。つまり、二種類の霊が分かれてくるということになるわけですね。

地上を去って、しばらくこの現象界を徘徊していた霊たちも、やがて四次元世界にある収容所に連れて行かれます。
ほとんどの場合は、本人の友人、両親、守護霊、こうした者に導かれて連れて行かれるのですけれども、
その収容所において、自分の生きていたときのことを反省させられます。

そのときの反省の基準というのは何か。つまり、自分の人生が、いかに霊的な目から見たら変であるか。
おかしかったか、と。
こうしたことを主として教えられるのです。

すなわち、肉体中心の生き方をしてきたということについて、つくづく反省をさせられることになります。
そして、肉体中心の生活をしてきて、霊的に目覚めなかった者が、いわゆる地獄という世界に、
自らの選択と自らの判断によって赴いて行くことになります。そこで、さらに厳しい試練を受けるわけです。

しかし、自らが霊的な生き方をしなかったとしても、それを過ちであったと素直に認め、悔い改めたものは、
やがて、四次元のなかでも、精霊界という調和された霊たちがいる世界へと行くことになります。

このように、肉体をもっていたときの記憶というものを中心にして、その人の人生が分かれてくるわけです。
これは、いわゆる閻魔大王が裁くのかというと、そうではなくて、自分自身の良心、善なる心、
神の子としての本性が、これを裁くことになります。

地獄も、長年いるうちには、自分が厳しいことをさせられていると思うのですが、ほんとうは、死後しばらくして、
自分自身まだまだ修行が足りないと思って、守護霊たちと相談の上で、地獄で修行することになるのです。

ただ、狂暴な人になると、そういうことではなくて、真っ逆さまに地獄へ行くというような現象もなきにしもあらずです。
こうした者たちが、地上の人間を惑わすために暴れているということですね。

これは、地上にも暴力団とか、ヤクザとか、そういう者がおりますけれども、
まあ、これと同じ類であると思って間違いありません。




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category: 四次元幽界

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天使の活躍

現代のいわゆる常識人と言われる方がたは、天使という存在について、
なかなか信じることができないであろうと思います。

たとえ敬虔なクリスチャンと言われる人たちであっても、天使という存在に対して、
心のなかでは信じているにしても、実感としては、そう簡単には信ずることができないはずです。

キリスト教で言う「父と子と聖霊」というようなことが言われているわけですが、まあ、
父なる神というのは分かる気がしても、また、子なるキリストも分かるにしても、
聖霊たちということになると、なかなか分からない。

また、天使とか、悪魔というのは、昔のグリム童話か何か、童話集か何かに出てくる存在であって、
まさかこの二十世紀の時代に、天使や悪魔がいるとは思えない。
ですから、九割以上の人が、それを一笑に付すことになってしまいます。

しかし、これは昔話でも何でもないのです。洋の東西を問わず、古今を通じて、
天使的な存在と悪魔的存在についての話というのがあります。
それは、文明国であっても、発展途上国であっても、同じです。そういう話が、実際にあります。

それはなぜかと言うと、現にそうしたものがあるからです。

天使というものは、一言で言えば、高級霊の総称であります。
しかし、高級霊と言っても、さまざまな段階があります。

後で説明をしますけれども、六次元神界の上段階あたりから、天使と言われる存在がいるのです。

いわゆる諸天善神のクラスです。
その他、菩薩とか、如来とか言われる人たちも、天使と言われています。

こうした天使のなかで、まだ地上を去ったばかりの人たちを救う天使というのは、いわゆる第一段階の天使たちです。
この第一段階の天使たちは、法を説くというよりは、現実的な人間の魂の救済のために働いています。
こうした天使たちの数は、非常にたくさんおります。何億人もいるわけです。

この世を去ってあの世に行ったばかりの人たちを導いたり、あるいは、その人たちを収容して、
さまざまな教育をしたりしている天使たち、すなわち、第一段階の天使たちというのは、数多くいます。
そして、ひとりひとりの思想、信条、宗教環境に合わせた、そうした天使たちが出て来て、指導するわけです。

キリスト教圈では、やはりキリスト教系の天使たちが指導しております。また、仏教系では、
仏教系の諸菩薩がそういう指導をしていることが非常に多いですね。
つまり、その人自身が信じられるような形で出て来るわけです。

しかし、天使たちと言っても、決してあの世だけに存在しているのではなくて、彼らの多くは、
何百年か千年ぐらいの単位の周期で、地上に生まれ変って来ております。

そこで、なぜ彼らもそういうことをするかということですけれども、
地上での自分自身の魂の修行ということもありますし、地上を浄化するという目的もあります。

しかし、そういうことだけでなく、人間としての感覚を忘れないために、ときおり地上に出て来るのです。

つまり、天使としてあの世であまり永い間存在していると、人間の考え方、心のもち方、
そうしたことが、理解できなくなってしまうからです。

天使たちが、より良き教育者となるためには、自らがそうした地上の感覚を身につける必要もあるわけですね。
ですから、そうした必要から、天使たちも地上に生まれて来るということです。

そして、地上的な感覚を身につけることによって、より多くの人たちを導き、また、
対機説法ができるようになってくるわけです。

このように、地上を去った皆さんは、まず最初に、天使の活躍というのを感じます。

光まばゆい魂たち、そういう人たちが来ます。キリスト教系の人たちにとっては、
羽根の生えた天使のような姿で現われることもあるし、仏教系の人にとっては、
お坊さんのような形で現われることもあります。

また、神道系の人たちにとっては、神主さんのような形で現われることもあります。
いずれにせよ、どういう高級霊であっても、その天使の姿を見ると、光輝いて、
まばゆく後光が射しているということに気がつくはずです。

その姿を見て、それまで、神とか、仏とかを信じなかった人間であっても、「神様」と、
あわてて手を合わすような恰好をします。
すなわち、人間は、本能的に高級霊たち、あるいは、神仏の存在というものを、信じているからです。




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category: 四次元幽界

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新しき出発

地上を去った人間は、こうした天使たちの指導を受けて、だんだんに、新しき出発への覚悟というものができてきます。
新しき出発とは何か。それは、まったくの新しい経験です。

もちろん、地上に生まれて来るときにも、新しい出発ではあったのです。

どのような高級霊であっても、未発達霊であっても、母の胎内に宿って出て来るときには、
もう一度、ゼロからスタートするといった新しき出発を皆んな経験したわけです。

ですから、この新しい経験とは、数十年という地上生活、地上の学校を卒業して、
また、新たな学校に入って来たということを意味します。

すなわち、新しい出発が始まり、新しい先生に出合い、新しい教科書に出合い、新しい授業に出合うわけです。

こうして、四次元に還って来た人たちは、まず、霊的なるものとは何かということを、徹底的に教えられるわけです。
そして、天使たち、あるいは、自分の友人、先生たち、すでにひと足早くあの世に還っている人たちから、
いろんな話を聞いて、新しい旅立ちについての自覚ができてきます。

この新しい旅立ち、新しい出発というのが、今後の霊界における自分の生活の一大指針であります。

といっても、それぞれの環境に落ち着くと、その指針を忘れてしまうことが多いのですけれども、
まず最初の段階においては、ガイダンスとして、いろんなことを教えられることになります。

このときに、新しい出発の前に、もう一度再出発をさせられる方もいます。これが、いわゆる地獄という世界です。

しかし、地上の人びとにしっかりと知っておいてもらわなければいけないことは、地獄というのは、
天国と二分されるようなものではないということです。
これだけははっきりと言っておかねばならないと思います。

地獄というのは、この世界を三次元とするならば、四次元以降、九次元、十次元、あるいは、
それ以上の高次元世界のなかのほんの一部なのです。

すなわち、四次元と言われる部分のなかに巣くった悪想念の巣窟でしかすぎないのです。
ですから、天国、地獄というような二分されるものでないということを、どうか頭に入れておいていただきたいのです。

地上には、いろんな人間がおりますけれども、病人という種族は、おりません。それと同じです。

一定の割合で病気している人がいて、病院にいるわけですが、ちょうどそれと同じようなもので、
あの世の霊のなかでも、心が病んだ人たちが、その地獄というところで修行をやっており、
リハビリテーションを受けているのです。

ですから、そういう見方というのをどうか大切にしていただきたいと思います。

彼らは、病人であるけれども、心が病んでいる、精神が病んでいる病人であるけれども、
彼らは彼らなりに、また、そこで何かをつかもうとしているのです。

健康な人間にとっては、自動車の運転の仕方だとか、自転車の乗り方だとか、あるいは、走り方とか、
長距離走、短距継走、ジャンプとか、さまざまな指導があるでしょうが、
病人には、そういう指導をしようとしても無理です。

病人はまず、たとえば、
松葉杖をついて歩く歩行練習をしてみたり、腕を支えられながら歩く練習をしたりします。
つまり、こうした練習もまた、彼らにとっての必要な修行であるということなのです。

また、地獄にいる人たちだけではなくて、精霊界というところに入った人たちも、
地上にいたときには見なかったさまざまな存在を見ます。たとえば、妖精であったり、
あるいは、昔から伝説のなかに言われているような生物、そうしたものとの出会いですね。

地上には、たとえば、竜だとか、河童だとか、そうした生物はおりませんが、
あの世の世界には、そうしたものもいるのです。そして、現に、そういった生物を見ることになります。

また、小さな妖精のようなものが花畑を飛び廻っている姿も見ます。
このように、不思議な霊的な存在がたくさんあるのです。そうしたものを見ながら、
新たな世界への感覚というものを強めていくわけです。




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category: 四次元幽界

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霊の本質


この本節では、霊の本質とは何か、そういうことについて、さらに話を進めていきたいと思います。

肉体を去って間もない人間というものは、なかなか霊的な性質になじまないということはすでに述べたとおりです。
その感覚というのは、なかなか自分自身の感覚としては身についてこないものなのです。

たとえば、地上にいたときには、手を出せば物体をつかめたわけですが、
三次元の地上近くを徘徊している霊にとっては、手を伸ばしてもものをつかめない。

この現実は、とても信じられないとだれしもが思うのです。
しかし、やがては彼らも、自分自身が霊になったということを自覚するしないにかかわらず、
そのことを当然のことのように考えるようになっていきます。

そして、先ほど、天国、地獄への道というのが分かれるというような話をいたしましたけれども、まさしく、
やがては、自分の進路というものを決めていくわけです。

ここで、天国、地獄が分かれるときに、一番大切なのは、自分自身が一体何者であったかということを知るということです。
つまり、自分自身の本質を知るということです。

そして、これが、その人間の死後の世界、あの世の世界の生活を決めていくのです。

霊的世界を信じている人も信じていない人も、絵本であるとか、昔話であるとか、あるいは、小説とか、
物語のなかで、あの世の世界についてはさまざまに見聞きしているはずです。
ただ、それがどれほど真実をついたものであるかどうか、そのことに思いいたらないだけなのです。

どのような生き方をすれば天国へ行き、どのような生き方をすれば地獄に行くのか。
実際、この問題に関して、現代、あるいは、現在、明確に教えてくれるところはありません。

また、あの世の存在を信じている人であっても、自分の生き方というものを霊的な目で見たときに、
それが天国にふさわしい生き方なのか、地獄にふさわしい生き方であったのか、これがわからないのです。

一番簡単なものの考え方というのは、いわゆる戒律、これに照らして罪と罪でないものとを分け、
罪多きものは地獄に堕ち、罪のないものは天国に行くのだとしています。

この考え方は、比較的昔からはやっていた考えであり、何千年の人類の歴史のなかでも、
洋の東西を問わず、民族を問わず、こうした考え方というのがありました。

その有名なものとしては、モーゼの十戒のような、そうした戒律がありますし、
あるいは、モーゼ以前の世界でも、イスラムの世界のなかにおいては、「ハムラビ法典」のような、
そうした法典もありました。

現代には、法律というのがありますけれども、法律の淵源、そのもとは何かと言うと、結局、
こうした光の指導霊たちが説いた法であったわけです。

しかし、その法というのを人びとにわかりやすく説明することが不可能であるために、
戒律という形で、ときおりそれが教えられたのです。

つまり、これはしてもよいが、このことはしてはならない、と。
そうした戒律として与えられたことがあります。

したがって、大部分の人間にとっては、霊的な世界を知っている人間も、
そういう戒律に反した生き方を自分はしたか、しなかったか、これでもって、
天国、地獄というものを考えていきやすいと思います。

碓かに戒律のなかには、そのように容易にものごとの善悪を分けるという意味において、
わかりやすい面があると言えます。

その一番典型的なものは、「人を殺すなかれ」というような戒律でありましょう。
人を殺せば地獄に堕ち、人を殺さなければ天国に行ける。あるいは、「物を盗むなかれ」という戒律があります。

ものを盗めば地獄、ものを盗まなければ天国へ。まあ、こうした二分法的な考え方があります。
これも、一概には幼稚として決めつけることはできないのであって、
そうしたなかにも、碓かに真実が光っていると言えるのです。

しかし、ほんとうの天国、地獄を分けるものは何かと言うと、そうした戒律ではないのです。

結局、その人の六十年、七十年の人生を通して、神の子としての本質に気がついた人間は天国に行っており、
また、その本質を発揮すれば発揮するほど、高い天上界へ昇って行っているわけです。

その一方、神の子としての本質に気づかず、その芽を出さないままにこの世を去った人間は、
地獄界というところで厳しい試練を受けている、これがほんとうの姿なわけです。




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永遠の法 -四次元の世界- 7  

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未知なるもの

さて、霊的な世界のなかにおいて、地獄があるという話を今いたしました。

地獄というのは、昔話には聞いていたにせよ、現実にそうしたものに直面したとき、
人間の衝撃というものは大きいものだと思います。

そして、まさしく話に聞いていたとおり、さまざまな地獄があるわけです。

鬼のような存在もあれば、また、悪魔のような存在もある。
そういうことを実際に目のあたりにして、驚くはずです。

なかには、身長が三メートル、四メートルと大きいような、そういう鬼のような霊人もいれば、
また、刃物をもって追いかけて来るような者もいる。

あるところでは、たとえば、色情地獄というところにおいては、その血の池のなかで、
ほんとうに人間がのたうち廻っている姿がある。

また、餓鬼地獄というところにおいては、昔の飢饉のときに農民たちがそうなって死んでいったというような姿で、
つまり、肋骨とあばら骨と皮ばかりになって、「食物が食べたい食べたい」と言って、
苦しんでいる人たちがたくさんいます。

また、これ以外にも、畜生道というところが現実にあります。
そこでは、人間は、もはや人間の姿をしてはいないのです。

芥川龍之介という作家が、そういう畜生道に堕ちた人の話を小説のなかにも書いておりましたけれども、
まさしくその小説と同じように、体が馬であって顔が人間、体が牛であって顔が人間、
体が豚であって顔が人間、こういう者が現実に存在するのです。

また、ヘビのようになって、大蛇となって、地獄の地面を這っている者もおります。
こうした者たちは、なぜ自分がこういう姿になったのかということがわからず、そうしているのです。

すなわち、それは、彼らが霊の本質ということを知らないからです。

霊の世界は、思ったことが実現する世界なのです。

しかし、彼らは、生前、生きていたときに思ったことは、
心の世界においてすでに実現したことだということを知らないでいたのです。

心のなかでどのような思いをもっていても、外面から見えないからかまわないと思って生きてきた人たちなのです。

肉体をもっていたときに、その心が透き通しで、何もかも見通されてしまえば、
恥ずかしくてとても人前に出られなかったような人たちなのです。

そうした人たちが、あの世の世界に還って、つまり、霊の世界に還って初めて、
自分の心のなかをすべて見られてしまって、そして、思ったとおりの姿になるということを知って、愕然とするのです。

地上に生きていたときに、人に対する妬みや怨み、そうしたものをもって生きていると、
体がヘビのように変わったのだとするならば、人間は、その間違いに気がつくでしょう。

ところが、生前はそうしたことがなく、三次元の法則のなかで生きているがために、それを知らないでいるのです。

しかし、あの世では、思ったことは、すぐ実現するのです。

たとえば、女性のことばかり、異性のことばかりに心を悩ましている人は、異性ばかりを追い求める色情地獄に堕ち、
また、たとえば、キツネのように人をだますことばかりに汲汲としていた人間は、キツネのような姿となる。

あるいは、ヘビのようにしつこくしつこく人を妬み、怨んでいた人間は、やはりヘビのような姿になる。
ここにあげた以外にも、さまざまな動物になっていきます。

そして、こうした動物霊のようになった人間霊が、その地獄の苦しさから逃れるために、
一時期地獄から這い出そうとして、地上の人間に憑依するのです。

しかし、憑依と言っても、まったく何の関係もない人に憑依できるわけではないのです。
自分の心のなかに、地獄をつくっている人にだけ憑依できるのです。

生きている人間は、心のなかにさまざまな想念の世界をつくっておりますが、
心のなかに地獄をつくっているような人だと、こうした地獄霊が入って来れるのです。

つまり、心のなかに色情地獄をつくっている人のところへは、色情地獄霊が来るし、
心のなかに動物地獄、畜生道をつくっている人のところには、動物のような霊がかかってくる。

また、心のなかに無間地獄、つまり、思想的に、宗数的に、心の面が病んでおり、
人びとを間違って指導しているような人びとのところには、そういう地獄に堕ちた宗数家たち、
思想家たち、こうした人たちが取り憑いていきます。
 
結局、地獄というのは、心の世界のなかにあり、想念のなかにあるわけであって、
地獄霊が憑依する原因は、生きている人間の心のなかにそういう地獄界があるから、
そのなかに入り込んで来るというわけなのです。

こうした不思議な世界のしくみというものについても、私たちは、知っておかなくてはなりません。




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永遠の法 -四次元の世界- 8  

永遠の法120-171


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永遠の生命

地獄で苦しんでいる霊が、決まって、いつも言うセリフというのがあります。
それは何かと言うと、「こんな姿になるぐらいなら、ひと思いに殺してくれ」ということばです。

彼らは、ときに、神や仏に対して、罵詈讒謗、悪口のかぎりをつくすことがあります。

「ヘビとして生きていくぐらいなら、ひと思いに殺してくれればよかった」と言う人がおりますし、
「こんな色情地獄のなかで、血の海のなかで泳いでいるぐらいなら、
ひと思いに殺してくれたほうがまだましだった」、こういうことを言う人もいます。

また、無間地獄のなかで、真っ黒の闇のなか、砂漠のなか、あるいは、
洞窟のなかに閉じ込められてしまったような人間というのは、
「こんな人生が俺を待っているのなら、ひと思いに生命を奪ってくれればよかったのに」と、
こういうことを言っております。

生前、大宗教家と言われて、世間からさまざまな称賛を受けたような人が、無間地獄に堕ちて、
そして、深い深い闇のなかで、深い深い沼のなかで、ただひとり苦しんでいるという姿を、
私は、数多く霊視しております。

それは、今、二代目、三代目が継いでいるような宗教の初代教祖のなかにも数多くおります。
こうした教祖たちの疑問は、「なぜ何十万人、何百万人の人たちを指導した私が、
こういう世界にいるのかわからない」ということです。

また、「こうした世界にいるぐらいなら、ひと思いに生命を奪ってほしかった」と、
こういうことを彼らは口々に言います、その将来がわからないからです。

何百年、何千年、その漆黒の闇のなかで苦しまねばならぬのか、これがわからないのです。

人間の魂というのは、永遠です。
永遠の生命があるのです。

永遠の生命があるということは、
調和された生活をして生き、心が美しく、天国に還った人たちにとっては、この上ない福音です。
そうした素晴らしい世界のなかにおいて、永遠に生命をまっとうしていくことができるからです。

しかし、地獄に堕ちたこうした人たちにとっては、永遠の生命があるということ自体が、
ひとつの罪であり、罰であり、懲罰であるわけです。

生命がひと思いになくなってしまえば、こんなことはないのです。しかし、なくならない。
このこと自体が、彼らを罰しているのです。

こうした真実の世界の姿を知ったならば、人間は、地上に生きていたときに、
悪いことを思うことも、悪いことをすることも、ほんとうに、割が合わないということがわかってくるのです。

永遠の生命などなくて、この世かぎりで有限の人生だと思っているからこそ、やりたい放題のことをし、
また、人を傷つけ、人を蹴落としてでも偉くなろうとしているのです。

ところが、そうした結果が、地獄のなかで、永遠の苦しみ、
永遠の生命どころか永遠の苦しみのなかでのたうち廻るということを知れば、
どれだけ割が合わないかということを知るにいたるのです。

また、生きていたときに、ささやかな善意のなかに生きていたということが、
あの世での至福の生活、これ以上ない素晴らしい生活へと展開していくならば、
「なぜ地上にいたときに、もっといいことをしてこなかったか」と、誰もがそういうことを思うはずです。

この世でひとついいことをしたら、これは、あの世で十個いいことをしたぐらいの価値があるのです。

なぜなら、この世というのは、非常にむずかしい世界であり、魂は盲目、目を隠された状態で修行しているのですから、
目隠しの、手探りの状態で、天国的なる生活を展開した人は、
あの世での修行の五倍、十倍の値打ちがあるのです。

この世でわずか数十年の間、天国的生活を送った人は、あの世ではその十倍にもなって返ってくるのです。
この世はまた、そうした価値ある世界でもあるのです。

しかし、この世で、このぐらいのことはいいと思って、わずかばかりと思って犯してきた悪の数々は、
あの世では五倍、十倍となって返ってくる。こうした厳しい人生が待っているのです。

ですから、人間は良いことをすることがほめられるべきことだから良いことをせよと言ったり、
あるいは、悪いことがいけないからするなと言うのではなく、

ほんとうの意味で自分を大切にする人間であるならば、悪いことはできなくて、
良いことしかできなくなってくるはずです。

ほんとうの人生観、ほんとうの世界観を知ったときに、そうせざるを得なくなってくるのです。
割の合わないことは、誰もしないのです。

ましてや、地獄に行くような人というのは、割の合わないことというのは、非常に嫌いなのです。
非常に嫌いであるにもかかわらず、それが割に合わないということを知らないからこそ、やっているのです。
ですから、そうした彼らを、一日も早く気づかしてやる必要が、私たちにはあるわけです。




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過去世の記憶

天国、地獄の話をいろいろしてきました。しかし、ここ四次元世界において、一番驚くべきことは、
過去世の記憶が甦ってくるということです。

これが一番珍しくもあり、驚きでもあるのです。

地上にいたときには、赤ん坊として生まれて、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、
こういうふうに勉強してきて大人になって、皆んな年を取っていくという、その人生経験を誇っているわけです。

しかし、あの世に還ってみると、ほんとうの人生経験というのは、そんなに短いものではないことがわかるでしょう。

しかも、数千年、数万年というほどの短いものではなくて、もっともっとはるか昔から、
自分が人間として生きていたのだということを知るのです。

それは百万年というものではない。もっともっと古いものです。
数千万年、数億年の歴史というものを、自分の魂は刻んでいるのです。
こうした過去世の記憶というのが戻ってくるのです。

ただ、この過去世の記憶にしても、地獄にいる人たちには、なかなか返ってきません。
それは、非常に苦しい、厳しい世界だからです。

現在には、苦しみが多くて、なかなか過去を振り返ることができないものなのです。

たとえて言えば、自分の歯が痛んでいる人、歯が痛くて痛くて、その歯痛のために七転八倒の苦しみをしている人に、
自分の過去を憶い出してみなさい、反省してみなさい、と言っても、そう簡単にできないでしょう。

それと同じく、苦しみのなかで、ほんとうにのたうち廻っている彼らにとっては、
過去世の記憶というのは、ほんとうはひも解くことが可能なのですが、実際上、事実上、できないのと同じです。

これに反して、天国に還った人たちには、過去世の記憶というのがすべて甦ってきます。

もちろんその人の能力には差があります。平凡な人間として生まれて、死んで、そして、
あの世に還った人たちには、せいぜい自分の一代前、二代前ぐらいのことが、かすかに幼い頃、あるいは、
はるか昔にそういうことがあったなという記憶として浮かぶぐらいにしかすぎません。

しかし、さらに上段階の霊に進化していくと、もっともっと明確に、過去世のことを憶い出すことができます。

菩薩と言われる方で、数万年前ぐらい前のことぐらいまでは、憶い出すことができます。
如来という方になってくると、もっと昔のことまで憶い出していくことができます。

如来になると、数十万年、あるいは、百万年ぐらい前のことまで、憶い出そうと思えば憶い出すことができます。

もっと上の九次元の大如来という人になってくると、天地創造の頃からの話を憶い出すことができます。

はるかなる数憶年の昔に、どうやって自分たちは生まれ、
どうして地球が生まれ、どうしてこの人類が進化してきたか、
そういうことをひとつひとつ憶い出すことができるのです。

このように、過去世の記憶を憶い出すといっても、その霊の置かれた立場によって、
その憶い出す領域が違ってきます。

これは、ちょうど展望台に登るのと似ています。高い展望台に登れば登るほど、
遠くまで見渡すことができるけれども、展望台が低ければ、近くまでしか見えない。

そして、地下室に降りてしまえば、何も見えないというのと同じです。
地下室、すなわち、地獄にいたのでは、何も見えないけれども、
高く登れば登るほど、遠くまで見ることができる。大昔まで憶い出すことができるということです。

このように、過去世の記憶と言っても、一代前しか憶い出さない人、何代も前までも憶い出す人、
何十代、何百代前まで憶い出す人、いろいろとあるわけです。この辺が、非常に神秘的なところです。

ですから、霊的自覚を積めば積むほど、ほんとうの意味で、
過去、現在、未来というのが見えてくるようになってくるわけです。




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進化への進

四次元、すなわち、この三次元地上世界を去って、
あの世に行ってからの生活のことについてさまざまに述べてまいりましたけれども、
多くの人が思うのは、では、なぜそういう世界になっているのだろうかということだと思います。

なぜ地獄があって、天国があるのだろうか。そして、なぜそうしたことがあるということを、
生きていたときに教えてもらえないのだろう。

なぜ肉体と霊というような、そういう二分的な生物が、あるいは、乗りものがあるのだろうか。

そんな霊になるためであるならば、この三次元で霊として生活して、
あの世でも霊でそのままいけばいいじやないか。と考える人が多いと思います。

肉体から霊への移行というのは、ちょうど蝉が皮を脱いで羽化登仙するのと同じです。

永い間、何年もの間、地下で眠っていた蝉の幼虫が、やがて木に登って、木の途中で止まって殼を脱いで、
羽根を出して、そして、大空を飛び廻る。ああしたものに、よく似ています。

また、青虫という上うな醜い虫が、葉っぱの上を這っていたのに、
いつの間にかこれが紋白蝶になったり、揚羽蝶になったりするのを見ます。

こうした青虫が蝶になる姿、青虫がサナギになり、やがて蝶になっていく姿というのは、
ちょうど人間の転生輪廻の姿を教えんがために、神が創られたものなのです。
そのように姿を変えながら、人間は進化しているのです。

では、なぜ青虫が蝶になるのか。これはひとつの不思議でありますが、
神が、そのように創られたということは事実であって、誰も否定できないのです。

何十本もの短い足を出して、体をくねらせながら葉っぱの上を歩き廻り、醜い顔をして葉を食んでいた者が、
いつかしら大空を羽根のまま飛び廻る姿というのは、ちょうど人間の霊的進化を暗示しているようにも思えます。

なぜそのように姿を創られたのか。結局のところ、神様の摂理がそこに慟いているということです。

蝶が蝶として最初から大空を飛び廻っていてもいいのだけれども、
彼らもまたそうしたはかない人生であるのだけれども、それ以前の段階で、不自由な、
そうした地の上を這うような生活をすることによって、大空を飛ぶということが、
どれほど素晴らしいかということを、その生きがいというものを、神は、私たちに教えて下さっているのです。

大空を飛ぶというような、大空を自由に飛ぶ紋白蝶の姿というのは、
私たち人間にも昧わえないような、素晴らしさがあります。

人間に生まれていながら、紋白蝶になりたいと思う人はいないでしょうが、
人間にはないような幸せが、紋白蝶のなかにはあるのかもしれません。

こうしたなかに、神の摂理というのがあるわけです。神はそうした幸せを与えておられるわけです。

同じように、この肉体という不自由なものに乗って生活している人間も、
やがてこれを脱ぎ捨てることによって、霊的なほんとうの姿というのが出てきます。

そのときに、人間は数倍、数十倍の自分の素晴らしさというのを感じていくのです。

地上においては、思ったことがなかなか実現しないということで、皆んなあせりを感じ、疲労を感じ、
無力感を感じるけれども、この地上を去ったあの世というのは、思ったことがすぐ実現する世界です。

こうしたこと、この素晴らしさというのに気づきます。
そして、これは、何十倍にも素晴らしいことだな、こんなことは今までなかったことだ、
かつてなかったことだ、ということを人間は感じます。

そうした素晴らしい霊的進化への道というものは、神が用意された、あの世とこの世の世界のしくみなのです。

こういう脱皮というものが、すなわち、次なるひとつの段階への昇華というものがなければ、
ほんとうの意味での幸せというものを感じ取ることができないからです。

霊的であるということは、神の本質と同じ本質をもっているということです。

神の本質と同じ本質をもっていることを、実体験として各人が味わうことができるのです。

これは素晴らしいことなのです。こうした素晴らしい世界のなかに、私たちは生きているのです。

そして、一時期に、天国、地獄という経験、地獄のなかで百年、二百年を苦しむ経験があったとしても、
これもまた、永い意味では、本人を進化に導くための砥石であるということです。
つまり、本人が一番欠点としているところを、徹底的に反省すべき環境におかれるわけです。

したがって、これも一概に悪というものではなくて、進化への途上にあるということです。
しかし、彼らが進化の途上にあるから、地獄もそのままで放置してよいのかと言えば、そういうわけではありません。

その間、苦しみは苦しみとしてあるわけであって、その苦しみから、いち早く本人が聞違いに気がつき、
正しい方向へ歩めるように指導していくということが、真の真理のあり方であり、
神の心にかなった方法でもあるということなのです。

他人の力によってそうした努力はされています。

ただ、他人の力がなくても、本人の自覚で、やがて気づいていけるように、地獄という存在があるのです。
少しは後退していくように見えても、結局、永い目において見れば、
すべてが進化への道を歩んでいるということなのです。この事実に、間違いはありません。



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10回にわたって四次元の世界について紹介をしてまいりました。
いかがでしたでしょうか。
私たちが死後、最初に足を踏み入れるであろう世界の神秘について理解していただければ幸いです。
折を見て、次回は、もう一段上の世界になります五次元霊界を紹介してみたいと思います。




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