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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

孔子の霊言 -心の中の理想郷-  

孔子の霊言128-185




理想郷とは、いったいどのような所でしょうか。

理想郷について、さまざまな考え方や、定義があると思いますが、
やはりそこは、幸福に満ちた、幸せに満ちた所ではないかと思うのです。

それでは、みなさんにとっての幸せとは、いったいどのようなものでしょうか。
どのような事を幸せと考えられておられるでしょうか。

たくさんお金をもうけることでしょうか、おいしいものをたくさん食べることでしょうか。
大きい家を建てることでしょうか、会社で出世をすることでしょうか、世間的に有名になることでしょうか。
しかし、こうしたものは、やがて時がたてば無くなって行く物です、失われてゆくものなのです。

私たちの本来の姿は、肉体ではありません、その肉体に宿っている心こそが、本来のすがたなのです。

やがて時がくれば、肉体は失われてゆきますが、心は無くなることはありません、
永遠の生命を持って生きつづけているのです。

その永遠の生命としての、本来の心としての幸福とは、いったいどのようなものでしょうか。

それは、自らが進歩向上した、と思える時ではないかと思うのです。
自らが価値ありと思う方向において、進歩向上し、より一段とすばらしい存在になった時ではないでしょうか。
そうした時に、私たちは魂としての、心としての幸福を感じるのではないでしょうか。

では、ここで見方を変えてみるとどうでしょう。
見る立場を変えてみた時、自らが進歩向上したことが、まわりに対してどのような影響を与えているでしょうか。

自らが進歩向上したことが、まわりの人たちを害していないかどうか、傷つけていないかどうか、
他の人々を不幸にしていないかどうか、多くの人々の犠牲の上での向上であったのではないのか。
こうしたことを、よくよく点検してみる必要があるのです。

もし、そうしたことであったなら、本来の向上ではない、本当の幸福ではないのです。

本来の進歩向上とは、自らがそうなっていく過程において、より多くの人々を幸せにしてゆけるような、
他の人々を幸せにしてゆけるような、そのような進歩向上でなくてはならないのです。

自らが、すばらしい存在になることにより、他の人々の悩みを断ち切り、多くの人々の苦悩を癒し、
たくさんの人々の幸福を、より増してゆけるような、そのような大調和の中での進歩向上であってこそ
真の幸福であるといえるのです。

この世を去った、はるか高次元の心の世界、霊天上界には、そうした世界が存在しています。

そこでは、すべての人々が、おおいなる神の愛に感謝し、一人でも多くの人々を幸せにするために、
一人でも多くの神の子たちを救うために、すべての時間を投入して悔いのない、そうした活動を行っています。

より多くの人々を幸福にすることが、最大の幸福である、そうした人々の世界が、理想郷が現実に存在しているのです。

では、地上にいる私たちをして、そうした大調和の世界を、理想郷を創るには、いったいどうすればよいのでしょうか。
いったい、どこに創ってゆけばよいのでしょうか。

それは、まず、自らの心の中に、そうした理想郷を創ってゆくことです。

みずからの心の内に、そうしたすばらしい世界を創ってゆくことです、それが出発点であるのです。

そうして、自らの心の中にできた理想郷が、自らの家庭に広がり、近隣に広がり、そして、その国に広がり、
やがては、全世界に広がってゆく、これが本来の理想郷のあり方であると思います。

どうか、みなさまも、そうした日々を送ってほしいと思います。
そうすれば、必ずや、この地上に理想郷を打ち立てることは可能であると思います。



category: 孔子の霊言

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天照大神の降臨  

天照大神の降臨128-184




現代の日本人が忘れてしまった考え方、古来、日本人が持っていた、とてもとても大切な考え方、
しかし、歴史の彼方に消え去ってしまったかにみえる、その考え方について考えてみたいと思います。

私たちの生命、この世界、現世、来世を含めたすべての世界、いっさいがっさいのものは神により与えられたものです。
そして、それらを存続させるため、無限のエネルギー、愛、そして光を供給してくださっています。

そうした神様の愛に対して、感謝するということは、人間として当然のことでありますが、
肉体を持って、この世に生きているうちに、与えられることが当然、無償で与えられていることがあたりまえ、
そのようになってきます。

しかし、こうした考え方はあきらかに間違っています。

今、私たちは古来、私たちが持っていた、日本人が持っていた精神、それを思い返してみなくてはいけないと思うのです。

その考えとは、「神を畏れ、うやまう」という心ではないでしょうか。

古来から伝わる神道の言葉に「畏み、畏み、謹んで、人間達よあれ」このような言葉があると思います。
偉大なる存在、大いなる存在にたいして敬意をはらい、心空しくして教えを受ける。
こうした考え方が、非常に大切ではないかと思うのです。

今は、自由の時代です、個々人の自由が許されている時代です、それはそれですばらしいことではありますが、
それが行き過ぎた自由となり、各個々人の自我我欲のみを追及するようになってしまっては、本末転倒ではないでしょうか。

今の時代の混乱は、その個々人の行き過ぎた自我の衝突によって、引き起こされていると思うのです。

私たち人間は、神によって創られた、小さな小さな存在です。

その小さな存在が、全知全能であるかのごとく傲慢になってはいけない、謙虚にならなくてはいけないのです。

すべてを与えられた神にたいして感謝をするとともに、謙虚に謙虚に礼節をつくすこと、
それが人間にとって、非常に大事なことではないでしょうか。

そして、この礼節の考えは、私たちの日常生活、日々接する人々に対しても表してゆかなくてはならないのです。

神にだけではなく、人生の途上で出会う人々に対しても、礼節でもって接してゆかねばならないのです。

それはなぜか、私たちはみな、すべてが神の子です、自分のみではない、この地球上のすべての人々が神の子であり、
神に愛されている存在であり、神の理想実現のために創られたすばらしい存在なのです。

その神が愛されている存在であるがゆえに、すばらしい存在であるがゆえに、
礼をもって、礼節をつくして接してゆく必要があるのです。

「すべての人々が神をうやまい、神の下に謙虚にへりくだり、
神の下において平等であり、神の御心において共通する人間、それらが仲間として相集い、
仲良く、睦まじく、調和して生きてゆく。

他を傷つけてはならない、他の者をいつくしめ、共に神の子として愛し合え、共に神の子としてお互いを高めあえ。

そして、何が真であり、何が善であるかがわからぬときは、よく話し合って調和を第一義として打ち出しなさい」。

これが、大和の心であり、天照大神の御考えであるように思えます。

この世を去った天上界、特に、この日本の上空にとでも申しましょうか、
そうした霊域に、日本古来の神道の神々が住んでおられる所があり、

そこが「高天原」と呼ばれている所であるようです。

そこは、まさしく大和の心を体現した、すばらしい天国であるようです。

日本人として生まれ、日本にて魂の修行にはげんだものであるならば、
いつの日か、一度はそこに、足をふみいれてみたいと思うものです。




category: 天照大神の降臨

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