高橋信次の天国と地獄 2/2 
2013/09/01 Sun. 15:31

前回は、地獄の下段階はどのような世界なのか、そして、どのような時に、そこを抜け出してこれるのか、
そうしたお話をいたしました。
今回は、その中段階から、地獄を抜け出してゆくまでのお話をしてみようと思います。
地獄の下段階では、集団的に人を殺めようとか、狂わそうとか、そうした活動をしているわけですが、
中段階に上がってくると、そういう積極的な気持ちはなくなってきます。
しかし、心の中にはまだ、悪の想念が相当残っているため、その清算をしてゆくことになります。
情欲のままに生きた人は、そうした世界で、人々に悪口のかぎりをつくした人は、そのような世界において、
自らの心性に最もふさわしい地獄において、自らの誤りを清算してゆくことになるのです。
焦熱地獄という所があるのですが、これはどのようなところかというと、
読んで字のごとく、この地獄ではたいへんな高熱で人びとの体が焼けただれています。
水を求めて、ゆらゆらと陽炎の立ち昇る砂漠を、腰に布一枚を巻いただけで、
やせて骨だらけになった男女が彷徨っています。
この地獄を特色づけているものは、「渇望」という言葉です。
人びとに布施することを忘れて貪欲にむさぼり、求めることばかり考えて人生を送った人びとの末路なのです。
物欲が強く、つねに不足と不満ばかりを心に思って生きてきた人びとなのです。
そうした人びとの心が、熱風の吹きつける灼熱の砂漠という心的風景をつくり出しているのです。
あの世の世界は、己の心に嘘のつけない世界です。
すなわち、その人の容貌も、その人を取り巻く環境も、その人の心の真実の姿を正確に反映してしまうのです。
しかし、こうした非常に厳しい、苦しい世界において何百年かの時をすごしていくなかで、
自分というものを振り返るときがあるのです。
自分は今、こうした苦しい世界にいるけれども、もしかするとこれは、自らの考えに誤りがあったのではないか、
人間の幸せというものは、もっと別のところにあるのではないか、
もっと調和とやすらぎの世界があるのではないか。
そうしたことを痛感するするときがくるのです。
このように自分を振り返り始めたときに、抜けたいというだけではなく、振り返り始めたとき、
地獄の中段階から上段階に上がってくることになるのです。
そして、上段階へ行くと、どうなるかというと。
地獄の上段階では、天国に行きたい人はたくさんいます、ただどうしたら天国に行けるのかがわからない。
それで、時どき来る天使たちの声に耳を傾けたりしながら、いろいろな反省という事が始まっていきます。
「どうやら、自分は肉体中心の生き方をしてきたらしい」あるいは、
「どうやら自分は、霊というものについて全然理解がなかった。
どうやら自分は、愛ということを全然やらなかった、自分はどうやら人の幸せなんか考えたこともなかったな」。
自分中心であったということの反省が始まっていきます。
ここでもかなりの時間はかかりますが、これで自分の、この自己中心的な生き方、これを反省して、
「人間の本当の生き方はそうじゃないんだ」、また、「人間は霊的な生き方をするのが本当だったんだな」
そういうことがわかってきた時、これが地獄から抜け出す最後の段階なのです。
そして、霊的な自覚をし、自己保存がいけないことがわかり、
勇気を持って、もう一度、本来の神の子として生きて行こう、立ち直ろうと決意したとき、
その時が、天国に上がってゆくときなのです。
簡単に説明をしてみましたが、この書を読むことによって、より詳しく理解が進むでしょう。
そうすることが、みなさんが生きていく上で、かならずや、人生の指針となると思います。
高橋信次の天国と地獄 1/2
category: 高橋信次の天国と地獄
永遠の法 -ダイヤモンドの原石- 
2013/09/08 Sun. 15:55

今日は、「ダイヤモンドの原石」についてお話してみたいと思います。
「ダイヤモンドの原石」とは、いったいなんなのか、それはほかならぬ、私たち自身のことであります。
私たちの本質は、ダイヤモンドのようにすばらしい存在であるのです。
その事について、「永遠の法」のなかにおいて、非常にわかりやすく説明がなされています。
以下、その本文を紹介させていただこうと思います。
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「永遠の旅人」として、人間は魂の進化を求めている存在でありますが、
ここで、多くの人々の心に浮かんでくる疑問というのは何か。
なぜ高級霊や低級霊という区別があるのか、なぜ偉い人と偉くない人がいるのか、
なぜ光の天使と言われる人がいて、そうでない平凡な霊がいるのか、
神様は人間を平等に愛しておられるはずなのにおかしいではないか、と。
こうした疑問というものが、ふつふつと心の底から浮かんでくるのではないでしょうか。
それに対する答えが、本節の表題でもある「ダイヤモンドの原石」ということであります。
人間というものは、誰もが、磨けば光るダイヤモンドとして創られているのです。
このダイヤモンドは、原石として、各人切り出されている、つまり、山から原石として掘り出されている
わけでありますが、このダイヤモンドをどのように光らせるかということが、
各人の課題として与えられているのです、これが、課題なのです。
そして、誰もが、この課題から逃れることはできないのです。
私たちは、光の天使とそうでない霊とを考えて、光の天使というのはダイヤモンドであって、
自分たちは石炭殻や、あるいは、木炭、あるいはまた、河原の石ころのように考えてしまうかもしれませんが、
本来は、そうしたものではないということです。
キラキラ光るダイヤモンドと河原の石ころであっては、その差は非常に大きなものでありますが、
本質は決してそうではないのです。
すなわち、その証拠は、どのような人間であっても、磨けば魂から光が出てくるということ、
この事実によってはっきりとわかるわけです。
この比喩だけでわからないとするならば、さらに具体的に、話をしていきましょう。
たとえて言えば、地獄霊です、
よく地上の人たちは、地獄霊、あるいは、悪魔というような話を聞くと、
何でそんなものが存在するのか、そんなものの存在は許せないと、こう思う気持ちがあります。
神様は、そういう悪霊たちを退治してしまえばいいのではないか、この地上から追い払い、また、
地獄界から追い払って、宇宙の彼方にでも閉じ込めてしまえばいいじゃあないか、と、
こうした考えをもつ人もいらっしゃると思います。
けれども、これはまだ、魂の本質を知らないわけですね。
私たちの目には、地獄霊というのは非常に嫌なもの、醜くて、常に人を不幸にしようとしている姿、
こうしたものに見えますが、彼らもあるきっかけを得て立ち上がることがあるわけです、
立ち直ることがあるのです。
たとえば、私のところには、さまざまな人生相談もあるわけですが、そのなかには、悪霊に憑かれている人の相談もあります。
実際、その悪霊と直接話をしたことも数多くあります、そうしたときに感じるのは、結局のところ、
彼らは、ほんとうのことを知らないということです、霊の本質を知らない、人間が肉体ではないことを知らない、
善いことをせねばならないのだということを知らない、自分が地獄にいることさえ知らない、
こうした知らないづくしの地獄霊なのです。
ですから、こうした彼らに、ほんとうのこと、すなわち真実真理を教えてやったときに、
彼らはハッと我に返ることがあります。
ハッと我に返って、「しまった、自分は今まで偽りの人生を生きてきた、このままではいけない。
自分はまっとうな生き方をせねばならない」と、悪霊と言われる人びとも、こうしたことに気がつくことがあります。
その瞬間です。真っ黒に見えていた霊体が、光を放つのです。後光が射してくるのです。
彼らの薄ぼんやりした頭の後ろからも、後光が射してきます。
では、なぜ後光が射すかです。もし彼らが、河原の石ころであったら、磨いても光はしないはずです。
しかし、磨いたら光が出るということは、彼らが悪霊やサタンと言われる者たちであっても、もともとは、
ダイヤモンドであるということなのです。
ダイヤモンドの原石なのです。
だからこそ、光が出るのです。
ただ、そのダイヤモンドの原石が、すすで曇ったり、あるいは、泥にまみれているだけなのです。
だから、通常人の目からみれば、泥にまみれたダイヤモンドなのにもかかわらず、ただの石ころだと思えて、
捨ててしまいたくなることがあるのです。
しかし、川の水で洗えば、その石ころは、燦然と、また光を放ち始めるのです。
こうしたところに無限の可能性があり、そして、無限の可能性を与えられているというところに、
神の無限の愛というのが現われているのではないでしょうか。
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category: 永遠の法
幸福瞑想法 
2013/09/16 Mon. 13:32

日々、みなさまは、調和された生活を送っておられるでしょうか。
自らの心を振り返り、誤りがあればそれを正し、常に心の針を正しい方向に向け
心調和して、他者への愛をわすれず、日々努力精進して生きてゆく。
それは、神の子人間にとって、あるべき理想の姿でありましょう。
しかし、今のこの現代社会のなかにおいて、常にそうした心でもって生きることは、
非常に難しいことではないかと思うのです。
分刻み、秒刻みの現代社会で、忙しく立ち働いていくなかで、自らの心を振り返る時間もなく、
人間本来のすがたは、心であるということを忘れ、乗り舟にすぎない肉体を、本来のすがたと勘違いして、
さまざまな執着のとりことなり、苦しみの中に埋没していってしまう。
しかし、人間の本来の幸福は、せわしなく揺れ動く心にはなく、調和とやすらぎに満ちた心のなかにあるのです。
人間本来の姿は、神の子であり、心であるということを自覚し、その精神性を高めてゆくなかにあるのです。
では、いったい、どのようにすればそのような境地を得られるのでしょうか。
どうしたら、そのような心を獲得できるのでしょうか。
それは、忙しい現代社会のなかにあっても、多少なりとも、日常性からの脱却を図ってゆく必要があると思うのです。
日常性から脱却し、非日常性のなかに没入することによってはじめて、人間は肉体ではない自分、
物質ではない精神の自分というものに気がつくためのきっかけを与えられることができるのです。
すなわち、ほんとうの自分自身を知るためには、自らの日常性からの脱却をはからねばならないのです。
その日常性からの脱却のために、山籠もりをすることも可能でしょう。
けれども、大部分の人たちは、都会に忙しく働いておって、そうしたことはできません。
そうであるならば、都会のなかにあっても、ときおり、自分ひとりでの瞑想の時間というものを持って見ようでは
ありませんか。
瞑想によって心を集中し、落ち着け、この世的なものから心を離れさして、自由自在の世界に心を遊ばせてみませんか。
そのなかに、あなたの自分自身の本質を悟ることもあり、そのなかにおいて、
自分の守護、指導霊の声を聞くこともあるし、
さらに、自分の無限の可能性というものを、そのなかで見い出していくことも可能だろうと思います。
こうした瞑想のなかで、つまり、無限の神に向かう自分自身の旅の途中で、自分の発展の過程というものを
つぶさに眺めてみてください。
そして、自分がほんとうに神仏の子であり、偉大な光の存在であるということに、瞑想のなかで、
人びとは気がついていくでしょう。
そのときは、おそらくあなたの人生にとって最大の幸福の瞬間であり、最大の勝利の瞬間でもあると思います。
その幸福の瞬間、勝利の瞬間をどうか忘れずに、毎日、毎日を精進していっていただきたいと思います。
category: 幸福瞑想法
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