高橋信次霊言集 -反省とは- 
2013/06/02 Sun. 16:21

反省とは何なのでしょう、何故反省をしなくてはならないのでしょう、
道徳的に良い事だと言われているからでしようか、
それとも、無条件に良い事であるからでしょうか。
この事について、考えてみたいと思います。
私達は生まれ落ちてよりこのかた、様々な心の曇りというものを造っていきます。
まず、自我のめばえというものが小学校の頃から出てくると思います。
友達との比較、ある子は自分にくらべて勉強ができるとか、運動が上手であるとか、
勉強ができるのは塾に通わせてもらっているからであって、自分は行かせてもらえないからだとか
そうした考えを持つようになってきます。
また、兄弟間での比較、お父さん、お母さんは兄ばかりかわいがって、僕はかまってくれないとか
こうした事もあるでしょう。
中学、高校になってくると受験が始まってきます、
本当はもっと良い大学に行きたいのだけれども学力がない。
それは、親の頭が悪いから、自分も頭が悪くなってしまったとか、
あいつは、自分よりも頭が悪いのに成績が良い、それは予備校にいっているからで
自分も、本当は予備校に行きたいけれども、親の経済力がないから仕方がないであるとか、
こうした考えを持つようになってきます。
そして今度は、大学卒業から、就職の問題が出てきます。
今は、大変な就職難でありますが、就職がうまくゆかないのは三流大学を出たからであって、
一流大学を出ていれば、こんなに苦労することはなかったはずだとか、
もっと良い就職先があるはずであるとか、こうした愚痴がでるようになってきます。
大学4年間で、もっと自助努力していれば結果は違っていたかもしれないのに
環境のせいにして、不平不満を言う。
次に就職したら、職場でのいろいろな苦しみに遭遇します。
同僚との出世競争、上司との葛藤、仕事そのものの相性など、いろいろな問題が出てきます。
自分はもっと能力があって評価されるべきなのに、そうならないのは、上司に見る目がないからだとか
同僚が早く出世すれば、あいつは俺より仕事ができないのに早く出世が出来たのは、
要領がいいからだとか、上司にゴマをすっていたに違いないとか。
このように、ゆがんだ考えを持つようになってきます。
こうした、生まれ落ちた環境、そして成長してゆく上での様々な出来事、いろいろな人との出会い
その中で起こる葛藤などで、様々な心のゆがみをつくってゆきます。
こうした物のほとんどが、自分の念いが満たされないがゆえの、怒り、愚痴、不平不満、
足ることを知らない欲望、そうした誤った念い、神の心から離れた念い、心の曇りによって
心を真っ黒にしたまま一生を終え、あの世に帰って行く事になる
しかし、そうであってはいけないのです、
私達はそうした曇った存在ではないのであります。
私達は、この世に生まれてくる前は、本当に悟った存在であったのです、光に満ちた存在であったのです。
愛に満ちた、調和に満ちた、神の光に充ち満ちた存在であったのです。
それが、肉体を持ってこの世に生まれて来る事によって、あの世の存在を忘れてしまい
あの世など無いのだ、人生はこの世かぎりなのだ、死ねばなにもかも終わりなのだ、という誤った考えから
心の曇りを創っていってしまった。
しかし、ここで思い起こしてほしいのです、神の光は無限であり、神は私達に無限の愛と光のエネルギーを
供給してくださっている、という事です。
その無限の光を遮っているのは、私達みずから造ってしまった想念の曇り、心の曇りなのです。
その心の曇りを取り除かないかぎり、私達の本当の幸福はないのです。
そして、それが私達みずから造ってしまったものであるならば、自分でそれを取り除かなければ、
だれも取り除いてはくれないのです。
不幸の原因を造ってしまっているのは、ほかならぬ私達自身なのです。
反省とは、こうした誤った考え方、心の曇りを取り除き、神の光を直接取り入れて、その輝きを取り戻し
愛に満ちた、調和に満ちた、神の光に充ち満ちた、人間神の子としての本来の姿に立ち返ることであるのです。
どうかみなさんも、日々反省によって心の曇りを取り除き、すばらしい人生を生きていってほしいと思います。
そして、そうすることが、私達の本当の幸福へとつながってゆく道であるからです。
category: 高橋信次霊言集
空海の霊言 -一念三千- 
2013/06/16 Sun. 17:07

みなさまは日々、どのような心でもって、念いでもって生きておられるでしょうか。
今日は、人の心と一念三千について考えてみたいと思います。
このような心でもって生きておられる人は、現代では非常に多いかもしれません。
それは、常に怒りの念いがうずまいているような人、攻撃的な言動で、いつもまわりの人を
責めさいなんでいるような人、そうした人は、破壊と闘争の世界である阿修羅地獄に通じています。
あるいは、ヘビようにしつこく、しつこく人を恨み、心の中が妬みと嫉みで満たされているような人
そういう人の霊体は、すでに人の姿をとっていないかもしれません。
あるいは、心の針が色情の方向に固定されると、その念いはあの世の色情地獄に通じてしまい
その針を伝って、地獄の亡者がその人の心に入り込み、亡者の情欲をはらす道具に成り果ててしまいます。
しかし、このような人もおられることでしょう。
念う事、常に善であり、その心の針は天国の善人界に通じており、あの世の友人や守護霊が
常に語りかけているような人。
あるいは、また、
世の中の役に立つために、神の心を探求し、そうした自己を造るため、日々努力精進しているような人
そうした人は、天国の神界に通じているのではないかと思います。
大いなる神仏の愛に感謝し、その恩に報いるため、己を捨てて世の人々を救うため
おごらず、高ぶらず、日々人助けに邁進しているような人、そうした人の心はすでに
天国の菩薩界に通じ、生きながらにして菩薩の境地にあります。
あるいは、神仏の心、正法神理を世に伝える事のみに心の針が定まり、常に心清く正しく
万人が手本にするに恥じない生き方をしているような人、その人の心は、すでに生きながらにして
如来界に通じ、天上界の諸如来が、つねにその人を指導している。
このように、人の生き方、心のあり方はさまざまでありますが、こうした心の針というものは、
それと相通じる、天国地獄へと即座に通じてしまうのです。
天国地獄は、死んであの世にあるのではなく、この世にあり、この心にあり、念いの中にあるのです。
人の念いは、すなわちこれ一念三千、あの世の天国地獄に即座に通じてしまうのです。
こうした事実を知ったならば、私達は日々止観し、心を静め、その一日を、その人生を振り返り
その心と行いを正してゆかねばならないのです。
天国地獄があの世に還ってからではなく、この世に生きている人間の心の中にあるからこそ、
この世で生きたときの心が、そのまま、あの世での生き方を決めるからこそ、私たちは神仏の心を心として
その心にあわせるべく、心と行いを正していかなくてはいけないのです。
category: 空海の霊言
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