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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

高橋信次の天国と地獄 1/2  

高橋信次の天国と地獄128-184

地獄の世界が、いったいどのようになっているのか、みなさんも興味がおありだと思います。
今日は、それについて簡単に紹介してみたいと思います。

一言で地獄といっても、何千年もかけて出来上がってしまったようですが、
おおまかに分けて、上段階、中段階、下段階に分かれているようです。

では、その下段階はどんな世界なのでしょう。
そこは、サタンの巣窟といった所であり、一般の地獄霊と比べていっそう凶悪な霊たちが集まっている所です。

こういう人達は、いったい、どのような活動をしているのでしょうか。

彼らを特徴づけているもの、それは、力への信仰といいますか、飽くなき権力欲、支配欲であり、
人も、物も、欲しいままにしたいとする気持ちです。

こういう人達が、地獄の中で権力者であろうとしているのはもちろんのこと、
積極的に、地上に逃れ出て、地上の世界を破壊と混乱に導こうとしているのです。

地上にて戦乱の臭いが立ち込めはじめると、集団でそうした世界に取り憑いてゆき、そして狂わせてゆきます。
地上でも、いろいろな戦争がありましたが、そうした時に軍人や軍部の首脳の中に入り込んでゆき、
闘争心、征服欲を駆り立てて、昔の自分たちのうらみをはらそうとする傾向が強いのです。

こうした人達が、地上にあったとき、どの様な職業についていたのでしょうか。

それは、各人各様でありますが、なんらかの力を持っている立場であった、と言えると思います。
一番多いのは、宗教関係から出ている人達のようです。

誤った宗教指導をやって、多くの人の心を狂わせてしまい、地獄に堕ちてしまった人達です。

これ以外には、政治家をやった人、軍人をやった人、この様になんらかの影響力がある立場で、
誤って人々を指導して、多くの人々を苦しめた人達であるようです。

こういう人達が地獄において、どのような姿かたちをしているか、
それは実際ここで紹介している、さまざまな書籍を読んでみていただきたいと思います。

あの世の世界は、心の世界であり、念の世界であり、その心の念いというものが、ストレートに現われてきます。

みなさんに想像してみていただきたいのですが、もし自分が最も凶悪な念いを出すとして、
どのくらいの念いが出るでしょうか。
人間として、どこまで凶悪になりえるか、そのぐらいにまでいってしまうという事なのです。

この世界に堕ちてしまうと、自力で脱出することは非常に難しくなってくるのですが、
千年、二千年とこの世界で生きているうちに、嫌気がさす、ということがあるのです。

自分は、さんざん悪業のかぎりをつくしてきたけれども、人間としてこれ以上は耐えられない、足を洗いたい、
そういう時があるのです。

この、足を洗いたい、という思いがおきて来たとき、
その時が、地獄の下段階から中段階に上がってくる時なのです。

以上、簡単に説明してみましたが、実際にこの書籍を読むことによって、よりいっそう理解が進むと思います。
次回は、この中段階から地獄から抜け出すまでの説明をしてみたいと思います。





高橋信次の天国と地獄 2/2

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高橋信次の天国と地獄 2/2  

高橋信次の天国と地獄128-184


前回は、地獄の下段階はどのような世界なのか、そして、どのような時に、そこを抜け出してこれるのか、
そうしたお話をいたしました。

今回は、その中段階から、地獄を抜け出してゆくまでのお話をしてみようと思います。

地獄の下段階では、集団的に人を殺めようとか、狂わそうとか、そうした活動をしているわけですが、
中段階に上がってくると、そういう積極的な気持ちはなくなってきます。

しかし、心の中にはまだ、悪の想念が相当残っているため、その清算をしてゆくことになります。

情欲のままに生きた人は、そうした世界で、人々に悪口のかぎりをつくした人は、そのような世界において、
自らの心性に最もふさわしい地獄において、自らの誤りを清算してゆくことになるのです。

焦熱地獄という所があるのですが、これはどのようなところかというと、
読んで字のごとく、この地獄ではたいへんな高熱で人びとの体が焼けただれています。

水を求めて、ゆらゆらと陽炎の立ち昇る砂漠を、腰に布一枚を巻いただけで、
やせて骨だらけになった男女が彷徨っています。

この地獄を特色づけているものは、「渇望」という言葉です。
人びとに布施することを忘れて貪欲にむさぼり、求めることばかり考えて人生を送った人びとの末路なのです。

物欲が強く、つねに不足と不満ばかりを心に思って生きてきた人びとなのです。
そうした人びとの心が、熱風の吹きつける灼熱の砂漠という心的風景をつくり出しているのです。

あの世の世界は、己の心に嘘のつけない世界です。
すなわち、その人の容貌も、その人を取り巻く環境も、その人の心の真実の姿を正確に反映してしまうのです。

しかし、こうした非常に厳しい、苦しい世界において何百年かの時をすごしていくなかで、
自分というものを振り返るときがあるのです。

自分は今、こうした苦しい世界にいるけれども、もしかするとこれは、自らの考えに誤りがあったのではないか、
人間の幸せというものは、もっと別のところにあるのではないか、

もっと調和とやすらぎの世界があるのではないか。
そうしたことを痛感するするときがくるのです。

このように自分を振り返り始めたときに、抜けたいというだけではなく、振り返り始めたとき、
地獄の中段階から上段階に上がってくることになるのです。

そして、上段階へ行くと、どうなるかというと。

地獄の上段階では、天国に行きたい人はたくさんいます、ただどうしたら天国に行けるのかがわからない。
それで、時どき来る天使たちの声に耳を傾けたりしながら、いろいろな反省という事が始まっていきます。

「どうやら、自分は肉体中心の生き方をしてきたらしい」あるいは、
「どうやら自分は、霊というものについて全然理解がなかった。
どうやら自分は、愛ということを全然やらなかった、自分はどうやら人の幸せなんか考えたこともなかったな」。

自分中心であったということの反省が始まっていきます。

ここでもかなりの時間はかかりますが、これで自分の、この自己中心的な生き方、これを反省して、
「人間の本当の生き方はそうじゃないんだ」、また、「人間は霊的な生き方をするのが本当だったんだな」
そういうことがわかってきた時、これが地獄から抜け出す最後の段階なのです。

そして、霊的な自覚をし、自己保存がいけないことがわかり、
勇気を持って、もう一度、本来の神の子として生きて行こう、立ち直ろうと決意したとき、
その時が、天国に上がってゆくときなのです。

簡単に説明をしてみましたが、この書を読むことによって、より詳しく理解が進むでしょう。
そうすることが、みなさんが生きていく上で、かならずや、人生の指針となると思います。




高橋信次の天国と地獄 1/2

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高橋信次の天国と地獄 -天国と地獄- 1  

高橋信次の天国と地獄128-184



前回では、反省の大切さについてお話させていただきました。
反省によって、日々思いと行いを正していく事の大切さを感じていただけたと思います。

今回も、高橋信次氏の霊示から、天国と地獄についての説明を紹介させていただこうと思います。

天国と地獄がどのような世界なのか、目に見えるかたちで説明する事は出来ませんが、
本書を読んでいただければ、その一端なりを感じ取ることは出来ると思います。

同氏の特徴であるユーモアを含んだ分かりやすい解説は他書と同じです。

今回は、地獄の最下層から始まって、地獄を抜け出し天国の上層にいたるまでの過程を
実際に体験していく感じで、読んでいただけたらと思います。

では、以下にその本文を紹介させていただきます。
少し長くなるかもしれませんが、どうか最後までお読みいただけますよう、お願いいたします。


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一念三千

まあ、一念三千ということで、私もずいぶん生前から、著書の中に書いたり、講演の中でもずいぶんやりました。

天台大師の教えですね。その中のいちばん大事な考え方で、一念というのは、もちろん念いの念ですね。

人間の心の念いというのは三千、これは三千世界と言いましてね、割り切れないほど多いっていう意味なんですね。
そういう人間の念の向かっていく方向というのは、もう三千世界につながっておると、まあ、こういう意味なんですね。

ところがねえ、地上にいる人間というのは、なかなかこの一念三千の意味がわからないんですよ。本当の意味がね。

結構難しいんだ。みんなね、念いにそういう方向性があったり、創造性っていう、創り出す力があったり、
あるいは、念いにプラスとマイナスのエネルギー波があるなんてことは、なかなかわからないんですね。

これが生きている人間にとっては、不可解なんですね。
で、自分の心の中というのは、シャッター降ろしたようなもんでね、誰にもわからない。こういうふうに思ってるんですね。

だから、「あの野郎言いやがったな」なんて念いながら、「でも、おれにしかわからないだろう」なんて、
「しめしめ」と念って、歩いてるんですね。
                           
ところが、本当の心の世界というのはね、念ったことが、すべて視覚化、
ビジョン化してね、飛んだり射ねたりしとるんです。

こういう世界なんですよ。だからね、この地上の世界というのは、非常に珍しい体験を、今ふんでるんですね。
要するに、念ったことというのがストレートに出てこない世界なんですね。

これは魂にとっては非常に珍しい体験であり、重要な教訓でもあるんですね。

あの世の世界っていうのは、念ったことが、ストレートに実現する世界なんですね。

だから、天国、地獄というのが出てくる理由は、そこにあるんです。

地上は、どんなことを念っておっても、その念いが現実になって出てくるまで、時間の差がずいぶんあるし、
念いが現実になってくるまでの間に、他人の介在とか、時間のずれね、こうしたものがずいぶんあって、
なかなかその通りにいかない。

ところがあの世では、念った通りになりますね。これは皆さんも、すでに私の本を六冊目まで読むような方は、
もう十分知っておられることでしょう。



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高橋信次の天国と地獄 -天国と地獄- 2  

高橋信次の天国と地獄128-184



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そういうふうに、たとえば、あの世ではこういうふうに着物だとか、
そんなのなくてもね、着物を念えば着物が出てくるとか、

高橋信次大先生は、やはりひじ掛け椅子がいいと念うと、ひじ掛け椅子に座っておってですね、
頭に王冠かぶっている方が気持ちがいいんじゃないかと念うと、王冠が頭の上にくっついているわけですね。

これは決して、あの世の細工師に頼んで作ったもんじゃないけれども、なんとなく自分には王冠がふさわしいと念うと、
このダイヤやエメラルドやルビーが散らばったような王冠をね、頭の上にのせて、
そしてひじ掛けの玉座にのっかって、人びとに教えを垂れてるわけなんですね。

まあ、こういうふうに、念いの段階がそのまま出てくるんですね。

そしてこれは、自分もごまかせないし、他人もごまかせないんですね。
そういう世界が実相の世界、本当の世界なんです。

ところが、地上ではそうじゃない。

まあ、大金持ちになったら、いい仕立て屋さんに頼むから、そらいい服着るし、
政治家は政治家みたいな服着るし、家に住んでるし、まあそんな顔してるけど、心の中はいろいろですね。

前にも話しましたが、総理大臣でもいいとこ行ってる人もあれば、悪いとこ行ってる人もある。

これぐらいわからないんですね。ところが、この世で生活していると、
みんな同じぐらいの権力者のように見えるんですね。そういうことがある。

宗教家も極端ですね。上はもう如来、菩薩から、下は地獄の最深奥まで行くぐらい違いがある。

けれどその心の中の念いというのは、必ずしも外に現われない、わからない。
霊の声を伝えているというだけでもう、救世主みたいに思っている人はいっぱいいる。

ところがその中の大部分が、悪霊、地獄霊であるということがある。これほどわかりにくいんですね。

ところが、心の念いがそのまま現象化して現われると、これはわかりますね。

あの世であれば、悪い波動持った人がいくら言ったって、体が悪魔の姿とっていれば、そのままわかりますね。

ところがこの世では、そういう悪い念いでおる人であっても、それは自分が悪いことを念っているとはわからない。

そして、法衣っていいますかね、袈裟衣着たりね、あるいは修道服着たり、
牧師さんの格好したりすると立派に見えるんでね、わかんないですね。

まあ、そういうことがあります。




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高橋信次の天国と地獄 -天国と地獄- 3  

高橋信次の天国と地獄128-184



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けれど本当の世界は、この一念三千の世界であってね。

そして、人間がいま二十歳、三十歳、四十歳、いろんな段階で生活してますが、
心の中の像というものは、これ想念帯の中に、みんな蓄えられているんですね。

蓄積している。そして、この蓄積されたフイルムがあの世にいって、ようするに放映されるようなものなんですね。

すなわち、あの世の世界、どういう世界に行くかということは、
この地上で生きている間に自分が念ったこと、あるいは念いを具体化した、行なったこと、
こうしたものの念のフィルムですね、これがそのままあの世で、その人の生活を映しだすものとなるんですね。

結局この世での生き方が、あの世でのすべてになってくるんです。

だから、この世とあの世というのは切り離したものじゃなくて、延長なんですね。

この世の中で生きておって、思っているような世界が、あの世で展開するんですね。

人間はね、まあ、行動については、ある程度人による規制っていうかね、
チェックはあるけれど、念いについてはあんまり言われない。

たとえば、「おまえ腹黒いことを思ってるだろう」なんてことを、本当は言われてもいいようなことでも、
顔がニコニコしてればわからない。そういうことがありますね。

ところが、あの世ではそれがそのまま出てくる。まあ、こういう世界なんですね。

ただ、その自分の心の念いが今どこにあるかということを、自己認識できる人は非常に少ない。
わからないんですね、たいていの人は。わからないです。全然わからないです。

だからそれができる唯一の機会っていうのは、正師、正しい師ですね、これがおって、
その人の心の状態を言い当ててね、悟りへの指導をするような場合だけ。

このときだけ、わかるんだね。これ以外のときは、わからないですよ、ね。

だから、こういう霊言集だしてね、これが「本物だ、にせ物だ」なんて、いろいろまあ議論もあろうが、
裁判官だって絶対わかりませんよ。わからないです。

彼らには、要するに日本の六法読んだって、あの霊言が本物かにせ物かなんて基準どこにも入ってない。全然わからない。

で、裁判官は、自分の良心に基づいて判断するっていうけど、その良心がわからない、ね、裁判所は。
裁判官の良心て、霊的良心はわからないですね。これわからないです。

裁判官の中なんかでも、まあクリスチャンもいれば、もちろん仏教者もいたり、いろいろいるけどね、
彼らのその、霊的目覚めの段階はわかりませんね。

そうすると、彼らでも人の心のありようというのは、ほんと、わからないんですね。

だから裁判所の法廷で、犯罪人を前にしてね、いろいろと心証っていいますね、心の証、心証を得るっていいますね。

「これは有罪だな、無罪だな」っていう、心証というのがありますが、これも霊的直観で、もちろん判断しているけれど、
これがいま、各人に任されちゃってますね。

裁判官ていうのは、司法試験受かってね、司法研修所で法律の勉強して、そして判決文書けるようになって、
それで判事補になってね、実務研修受けて、そして裁判官になっていきますが、

彼らは、そういう法律の運用、適用についての訓練は受けておるけれども、
人間の心を観るという面での修行は足りないんですね。

これはできてない。



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