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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

谷口雅春霊示集 -本来肉体なし- 1  

谷口雅春霊示集128-182


あけましておめでとうございます。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

今年も、みなさまのかてになる内容を投稿させていただけたらと思います。

本年第一回といたしまして「本来肉体なし」という内容を紹介させていただきます。
どうかご一読よろしくお願いいたします。


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「本来肉体なし」は仏教の真理

谷口雅春です。

私のこの霊言集というか、霊示集もなかばを過ぎ、いよいよ第5章にきたわけであります。
そこで、この章では、「本来肉体なし」と、こういう表題を選んでみました。

私の生前の教えに触れておらぬ一般の人から見れば、「本来肉体なし」とはずいぶん変わったことを言う。
と、まあ、こういうふうに思うかもしれませんが、昭和五年の頃から、すでに六十年近く、
私はこの「本来肉体なし」ということを一貫して説いてきたわけであります。

では、なぜこの「本来肉体なし」という教えが大切であるのか、
この点に関し、さらに話をしていこうと思います。

この言葉で大切なことは、「肉体なし」の上に、「本来」という言葉がついていることです。
これが何にもまして肝要であります。すなわち、乱暴な議論を言っておるわけではないということです。

肉体がないから肩から斬っても死なんとか、ご飯を食べんでもよいとか、そういうことを言っておるのではない。

この「本来肉体なし」というのは、「生長の家」の真理のなかでも大切な真理のひとつ、
いわば、縦の真理であるわけですが、結局は、こういうことなんです。

この「本来肉体なし」の教えというのは、釈迦仏教の本質と、少しも変わっておらんわけです。

なぜ少しも変わっておらんか、それを説明するならば、
結局、釈迦は、この世界を無常なものというふうに説いたわけです。

無常とは何か。常ならずということですね。目に見えるこの肉体も、あるいは家にしても、
あるいは他の人間がつくったもの、お寺にしても、あるいは稲にしても、麦にしても、猿にしても、
象にしても、蟻にしても、この世の中のものに関して、無常ならざるものというのはひとつだにないわけであります。

このひとつだにないもの、すなわち、無常なもののなかにあって、
人間は一体いかなる考えというものを基礎において、その人生観、これを打ち立てねばならぬのか。
ここが問題なわけであります。

そうしてみると、人間の肉体というのは、本当に有限であります。
有限であって、男性と女性の精子と卵子が結合して、やがてそれが大きくなって、赤ん坊が生まれ、
やがてまた、子供となり、大人となり、そして、年老いて死んでいく。

そういうわけでありますが、久遠の実在としての人間の本性を悟った釈迦は、
このような変転する無常なる肉体をもって、人間の本質とはしなかったわけであります。

人間の本質とは、無常のもののなかにあって、常なるもの、常なるもの、すなわち、
変わらざるもののことを言っているわけであります。

変転する世界のなかにおいて、色あせていく世界のなかにおいて、変転せぬもの、色あせぬもの、
それこそが久遠の実在であり、人間の本質である、と。

釈迦は、このように悟りを開いたわけであります。

実在が実在であるというところのものは、常なる存在であるということ。
滅失したりするようなものではないということであります。

肉体的には、六十年、七十年、百年もすれば、必ず滅失し、滅んでいく。
そのように滅んでいくようなものが、人間の本質であってたまるか、ということであります。

ですから、あなた方は、そんなものが人間の本質だという考えにとらわれてはならぬ。

そうした考えは、まったく病気のような考えであり、世の人びとを惑わしておる伝染病なのです。
思想病という名の伝染病なのです。

人生をこの世かぎりだと思い、わずか数十年だと思い、肉体が滅びればすべてが滅びると思うような考え、
こうした唯物論的な考えというのは、ひとつの病気なわけです。思想病でありて、それか伝染しておるわけであります。

よって、このような考えに、人間はとらわれてはならぬのです。

谷口雅春は、二年前にその肉体というものを地上に置き去ったわけでありますが、谷口雅春が個性は、
こちらに還っても、一向に変わってはおらんのです。

「生長の家」の信徒諸君は、初代総裁谷口雅春の声を聞けばわかるはずです。私の教えを聞けば、わかるはずです。





category: 本来肉体なし

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谷口雅春霊示集 -本来肉体なし- 2  

谷口雅春霊示集128-182


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久遠の実在を喝破したイエス・キリスト

肉体というものは滅びるとしても、永遠の実相たる魂の本質は、決して滅びないのです。
滅びてゆかんのです。

イエスは言いました。「天地は過ぎゆかん。されど我が言葉は過ぎゆくことなし」と。

こうした名文句をイエスは吐いております。

我が言葉は過ぎゆくことなし。
この言葉というのは、単に言の葉、つまり、文字のことを言っておるのではないのです。

この言葉というのは、生命の息吹であり、生命の本質であり、生命の実相ということなのです。

イエスという人間の生き方そのものが言葉であり、
生命の息吹であり、実相であったわけであります。

すなわち、このイエスの生命の実相は過ぎゆくことなし、とこういうことを彼は言ったわけであります。

神の子としての高貴なる魂の本質、これは滅びることはないのだ、と。

イエス来たりて語りたもうたその言葉は、
三十三年の肉体人生をもって終止符を打たれるのではないということです。

終始符は、そんなことでは打たれはしない。
我が生命は、イエスの生命は、久遠の実在であって、アブラハムの生まれるより前にあるなり。

そういう生き通しの生命であるのだ。それがゆえに、
三十三年で肉体生命は閉じたとしても、その後二千年、現に生き続けておるではないか。

その生命は、その思想は、その言葉は。そうではないだろうか。

したがって、この言葉こそが久遠の実在であり、イエスの本質であって、
髭を生やした痩せた三十年配の男など、イエスの本質ではないのです。

そうしたものは過ぎゆくものであって、十字架にて滅びたものはイエスの本質ではなくて、
イエスの亡骸であり、抜殻であり、蝉の殻にしかすぎんということです。

その本質は、生き通しの生命であり、決して決して亡びることはないものであるのです。





category: 本来肉体なし

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谷口雅春霊示集 -本来肉体なし- 3  

谷口雅春霊示集128-182


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唯物論者ニコデモの話

さて、私も、『ヨハネ伝講義』という本を書いたことがありますが、
そのなかでも解説をしておきましたが、教会の長老、律法学者の長老にニコデモというのがおった。

そして、このニコデモという老人が、イエスに生命の実相のことを問うたわけです。
ひとたびそれに対して、イエスは、何と言ったか。

「生命の実相、霊の本質は、人はもう一度生まれ変わらねばわからぬ。
霊の本質というのは、生まれ変わらねばわからぬ」と。

こういうことを言っておるわけです。
これを聞いて、長老ニコデモは大変悲しんだわけであります。

自分はすでにもう何十歳、死ももうそう遠くない。白髪の老人である。
その年寄りの人間が、もう一回母の胎内に入って生まれ変わらねば霊のことはわからぬというのであるならば、
これは、かぎりなく絶望に近い。そういうふうに感じたわけですね。

そこで、「人、早老いぬれば、いかで生きることを得んや、再び母の胎内に入りて生まるることを得んや」と、
こういうふうなことをニコデモは申しておるわけです。

このニコデモの話を、私もよくいたしました。

しかし、結局は唯物論だと言うてしまうのはかわいそうであるけれども、
ニコデモという老人は生命の本質が肉体ではなく霊であり、生き通しの存在であることを、
まだしかとは理解しておらんかったということなんですね。

このニコデモに対して、イエスはさらにこう言うわけですね。

「人の子、あるいは、霊というのは、いずこより来たりて、いずこに去るかは、世の人は知らず。

それは風と同じである。風というのは、どこから吹いてきて、どこへ吹いていくのか。
これを人は知らんであろう。そのように、霊というものも、どこから来て、どこへ去っていくのか人は知らん。

ただ、それは知る知らずを問わず、現にあるのだ。風に来る方向があり、向かっていく方向があるように、
霊というものも、来たるべきところがあり、去っていくべきところがあるのだ。

そして、その霊の本質というものは、久遠の実在であり、生き通しの生命であるのだ」

こういうことを、イエスはニコデモにこんこんと説いたわけです。
そして、ダメ押しの言葉とも言えることを、さらにたたみかけております。それは一体何であるかと言うと、

「我はアブラハムの生まれぬ前(さき)よりあるなり」

当時、アブラハムというのは、人類の先祖、まあ、こういうふうに言われておったわけで、
最初の頃にもね、イスラエル民族の先祖と言いますか、イスラエル民族の先祖ということは、
すなわち、人類の先祖ぐらいに思われとったのですね。

まあ、当時の世界観では、イエスの二千年ぐらい前に人類の起源があったとしか
人びとは考えていなかったわけであります。

そのアブラハムという人も、同じように人類の先祖のように思われておったけれども、
ただ、数千年ぐらい前のように思われておったということですね。けれども、大変な昔であることは確かです。

しかし、イエスは、「我れはアブラハムの生まれぬ前よりあるなり」ということを言った。

だから、ニコデモは大変驚いたわけです。そこで、思わず、こう言った。

「汝、まだ、齢わずか三十何歳にしかすぎんのに、すなわち、五十歳にもならんのに、
私の年にもなっておらんのに、どうしてアブラハムの生まれる前からあったと言うのか。
まことに不思議なことがあるものだ。不思議な言葉があるものだ」

まあ、非常に気の毒な例を出して申し訳ないけれども、霊の実相ということを、
この方はまだ知らなかったというわけです。しかし、イエスは自信を持って言っとるわけですね。

「我れはアブラハムの前から生きておった生命だ。生き通しの生命なのだ」と。

ところが、当時のユダヤの人びとから言えば、アブラハムより前からおったということは、
人類より先におったということだ。

この人類の始祖より前におるということは、もう神と同じということですね。

結局、人間を創り給うた造物主、神、これと同じであるということだ。
すなわち、イエス・キリストは、自分を神だと名のった、と。

まあ、こういうふうに伝わっていったわけであります。

そのため、イエスの言ったこの真理、「アブラハムより前にあるなり」という真理が、
誤解され、曲解されてしまった。

イエスは、頭がおかしい、頭がいかれておるのだと、このように誤解を受けたわけであります。
そのため、ますますイエスへの迫害が重なっていったわけであります。

ただ、真実を述べるとするならば、イエスの真理は、私が説いておったこととやはり同じでありまして、

「肉体人間は、そなたの実相ではない。心のなかを見よ、そこに生き通しておる生命の実相こそ、汝が本質なり」と、

まあ、こういうことをイエスは言ったわけであります。

しかし、当時の人たちで、その生命の実相をつかむことができる人は、ごく少なかったということです。


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