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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

谷口雅春の大復活 -霊界見聞録- 1  

谷口雅春の大復活128-182



今回は、天国の中における高位霊界について紹介させていただこうと思います。

一般の人たちが還ってゆく天国よりも、いっそう高い悟りを得た人たちが住んでいる
如来界、菩薩界という世界がありますが、
そこにはいったいどのような人が住んでおり、どのような生活をしているのか
気になる方もおられると思います。

霊界見聞録ということで、紹介させていただきます。
どうか、ご一読よろしくお願いいたします。

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如来の生活

谷口雅春です。またこうして皆様にお話ができる機会を得たことを、とても嬉しく思います。

さて、私もこちらの世界に還って、早三年余りの月日がたちました。
思い起こせば、この三年間にはいろんなことがありました。

生前の五十数年にわたる、生長の家での指導者としての仕事についての私なりの回顧。
またこうすべきであったとか、もっとあの点はああすべきであった、こうした反省をもかねて、
いろんなことを思い巡らしもいたしました。

またそれ以外にも、地上に出ている他の光の指導霊たちの仕事についても見ました。

また地上に出ていって、こちらに還っている他の方々と、いろいろとこちらで交遊する機会も得ました。

また地上には久しく出ていない多くの霊人たちと、こちらでもうー度、お話をするという機会も得ました。
その中には、二千年ぶりに話をしたとか、こういう方もいました。

私は先に出した本の中で、かつて自分がローマ時代の哲学者のプロティノスという名で出たことがあると、
そのように語ったことがあります。

「流出説」というのを唱えて、プラトンの考えを一層押し進めたと言われている人です。
このプロティノスの「流出説」というのが、現在の私の唯神実相哲学、光一元の哲学の出発点をなすものであった。
まあこういうふうに言えるのではないかと考えています。

このプロティノス時代の他の人々との交遊というようなものもありました。
ローマ時代には、ずいぶん優秀な方々が出ていたわけですが、そうした方々との交遊もありました。

どういう方かというと、たとえばローマ時代では、有名な方ではキケロであるとか、
あるいはローマの賢帝と言われたマルクス・アウレリウスであるとか、あるいはセネカであるとか、
こうした方々とも親しく話をいたしました。

またこれ以外でも、アリストテレスという名で呼ばれていた方、その生命体はその後、
無門慧開和尚、そして近年では西田幾多郎博士と言う名で日本にも出た生命体でありますけれども、
こうした西田博士などとも親しく話をしてみました。

これ以外には、多少住んでいる世界は違うけれども、最近有名になっている新渡戸稲造であるとか、
こうした諸君とも話をすることもありました。

またこちらでは、新渡戸とくれば内村鑑三、矢内原忠雄、そうした人とも会う機会を得ました。

このように、こちらの世界に還ってもキリスト教者たち、あるいは他の仏教徒たち、
こうした人々と、いろいろと話す機会があって結構楽しい生活をしております。

言ってみれば如来の生活というのは、名の残った偉人たちとの生活ということですから、ずいぶん面白いわけです。

時代を超えた人たちと会うことができるというのは、これは天上界ならではのことだと思います。

地上ではいくら優れた人がいても、同時代の人であるから、その大きさがなかなかわからない。

しかし地上界を去った、この、あの世の世界に還ってくると、その偉大さというものは、
途轍もない偉大さとしてわかるわけです。

その人たちがどれだけの偉大さであるかということは、もう神によってはっきりと示されているわけです。

すなわち、どの世界に住んでいるかということが、
その人がどういう人であるかということを、はっきりと示しているわけです。

まあこのように、如来の生活というのは、一種の理想ではないかと私は考えるものです。

皆さんでもそうではないでしょうか。たとえば哲学の好きな方であれば、
ソクラテスやプラトンやアリストテレス、こういう人たちと一緒に生活したくないわけはないはずです。

またクリスチャンであれば、内村鑑三や矢内原忠雄、新渡戸稲造、
こんな人たちと一度は話をしてみたいと思うでしょう。

また住んでいる世界は少し違いますが、菩薩の世界には、賀川豊彦、こういう人も無事来ております。

それからそれ以外にも、菩薩の世界には私の知り合いがずいぶんおります。
こうした方々についても、話をしていくとしましょう。





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谷口雅春の大復活 -霊界見聞録- 2  

谷口雅春の大復活128-182


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如来の条件

さて如来の生活ということで、こちらでは立志伝中の偉人が多いという話をいたしましたが、
「如来の条件とは何か」ということを、私がこちらに還ってわずか三年余りですが、
三年の間に知り得たこと、これを多少お話をしておこうと思います。

こうしてみると、やはり如来というのは一宗一派を開いたというか、あるいはオリジナリティーと言いますか、
何かそういうものがあるというのを感じるわけです。

まあ山で言えば大変な山であって、富士山だとか八ヶ岳とか、こういうふうなそびえ立っている山の感じを受けます。

谷口雅春がそびえ立つ山かどうかは現時点ではわからないとしても、おそらく何百年か、
あるいは千年、二千年後になった時に、プロティノスや伊邪那岐大神程度の名にはなるものと私は思います。

おそらくその程度の仕事はしたということが、後の世の人々にも褒めていただけることになると思います。

こういうふうに考えてみると、如来の条件というのは、
ひとつには根源的なる思想を世に問うということがその条件ではないかと思います。

根源的というのはどういうことかと言うと、単に師匠がいて、師匠の教えを受けて伝道するとか、
あるいは昔いた師匠、歴史上の師匠の教えを解釈してそれを伝える、こういうのは菩薩であって、
まだ如来とは言えないのではないか、そういうふうに思うわけです。

お師匠さんがいてその教えを受け継いでもいいけれども、
それをさらに自らのオリジナリティを加えながら発展させたような思想となれば、
これまた如来と言えるのではないか。そのように思います。

もちろん日本神道系にも、神々と言われる方の中には如来の数は大変多いわけですが、
いかんせん、その思想とは何かということが明らかには残っておりません。

しかし、それぞれの人がなかなかしっかりした考えを持っていることは事実ですし、
日本神道は日本神道で何千年にもわたって同じく生活をしているために、
思想的にはずいぶん似通ったところがあると思います。
そうした似通った思想を持っていると思います。

あと、根源的思想ということ以外に如来の条件をあえてあげるとするならば、
その影響力の大きさということが言えるのではないかと思います。

やはり如来たる者、相当の影響力を持っている。そういうふうに言えると思います。
一時代を画するような仕事をする、生きている時はそれほどでもなかったとしても、死後やがて評価されて、
それだけの仕事だと認められていく。そういうふうに言えると思う。

こうしてみると、如来とはなんぞやということだけれども、神の真理の芸術のリーダーだね。

そういうふうに言えると思う。神というのは地球大の大きなキャンバスに絵を描こうとしておられて、
役割分担を決めておられるんだね。

そして上の方のリーダー、右の方のリーダー、下の方のリーダー、こういうふうなリーダーに、
それぞれ分担させてキャンバスに絵を描かしている。

そしてそのリーダーの中でも、たとえば青い絵の具担当であるとか、赤い絵の具担当であるとか、
白い絵の具担当であるとか、こういうふうに色彩担当の方もいて、そしてまたそのリーダーがいる。

こういうことだね。これが如来という方だろう。まあそのように私は考える。





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谷口雅春の大復活 -霊界見聞録- 3  

谷口雅春の大復活128-182


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如来の教え

さてでは、そうした如来の教えとはいったいどのようなものか。これについて考えてみたいと思います。

こうしてみると、私は如来の教えというものをそれをひとつに要約することはできないけれども、
だいたい概要はどういうものであるかということは、つかめそうな気がします。

私なりのとらえ方、とらえ直し方というものをやってみるとするならば、
如来の教えは約三点に集約できるのではないか、このように思います。

どのような三点かといかと、第一は、「霊性の復権」ということを必ず言っているということです。
人間が霊的な存在であるということ、これについては必ず触れるようになっている。こう思います。

人間は霊的な存在であって、その奥に無限のエネルギーを宿しているという事実を必ず言っているのです。

第二は、なんらかのやはり「超常的現象」を起こすことが多いということが言えると思います。
これは必ずしも全点そうとは言いませんが、なんらかのカリスマ的な行動をしたり、起常的現象、
すなわち霊的なる現象が如来の周りには起きることが多い。
そういうふうに思います。

したがって如来が地上に出た時、宗教を興す場合には教祖となりますが、
この時にはさまざまな霊的な現象が起きることが多いです。

私の場合も、生長の家の大神と言われる方からさまぎまな神示を受けて、
「今、立て」というような声を何度も何度も聞いたわけです。
こうして如来としての私の自覚が高まったわけです。

すなわち精神の一大転換期、これを持ち来たらすための精神棒として、
そうした霊的な現象に見舞われることが多いと言えましょうか。

霊的な現象がない場合には、異常な磁力を持った、
磁場を創りだすようなカリスマ的なる動きとして出て来ることがあるようです。

生前私は、よくは知りませんでしたが、あのフランス革命の頃のその後でしょうか、
ナポレオン・ボナパルトという英雄が出ました。

これについては賛否両論があって、あのナポレオンの栄光も最後には尽き果てたということで、
ヒットラーのように言われることもありますが、ナポレオンという人自体は、
大変偉大なる方であるということを私は知りました。

まあ皆さんも書物で読んだことがあるかも知れませんが、
ナポレオン・ボナパルトという人は三時間睡眠で頑張った方のようです。

そして二十オか、あるいは三十才だっただろうか、それまでとにかく書物を友だちとして勉強に勉強を重ねた。
そうした刻苦勉励型の方であったようです。

そうしたナポレオンですから、それだけ知力を鍛えて努力をしているうちに、
いろんな高級指導霊から指導を受けていったことは事実です。

そしてあれだけ素晴らしい自由主義の展開をなしたのではないか。
現在で言えば、その独裁制みたいなものに対する批判もあるであろうが、
これが実は近代への息吹きを創り出したということは歴史上の事実であります。

ナポレオンの登場によって封建主義社会が崩壊し、近代の歴史が開けた。
そういう近代自由主義の黎明をもたらしたということは、偉大だと思います。

こうした方も、実は如来界に還っているのです。
如来として地上に出ても末路は哀れであることはあるけれども、それは価値の観点が違うことが多い。

すなわち天上界の諸霊たちは指導をしているけれども、一応の仕事が終われば、
その後のことについては多くを考えていない。こういうふうに言うことができると思う。

たとえばインド独立の父であったガンジーなども暗殺されたし、
歴史上ではアメリカのリンカーンなども暗殺されたが、
彼らもだいたいその使命を全うしていたということが、前提にあると思う。

こうしてもうその地上を去るべき時が来た時に、そうした手段については天上界の諸霊はそう多くは考えていない。
むしろ早く、こちらに還してやることの方が慈悲である。このように考えているのではないか。
私はそういうふうに考えます。

結核二期と言われるような私が九十何オまで生きて、
元気はつらつであった人が若くして地上を去るというようなことも、皮肉でもないことはないが、
まあそうした場合にも、ただ光の指導霊たちは、
それだけの仕事だけは残して地上を去るということになっています。

このように、霊的現象に見舞われるか、
目を見はるようなそうした大きなスケールの行動力を示して人々の度肝を抜き、素晴らしい時代精神となる。
こういうのが如来の教えである。そのように考えられるわけです。





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谷口雅春の大復活 -霊界見聞録- 4  

谷口雅春の大復活128-182


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菩薩の生活

この如来界というものを見た時に、非常に豊かな緑の中で、安らいだ光の中で人々が生活をしている、

そういうふうに表現ができると思いますが、この如来の世界、私たちが住んでいる世界から、
菩薩の世界に行くとすると、どういうふうに行くのか。

次元が違うというが、具体的にどう違っているのか。こういうことを疑問に思う読者も数多いであろう。
そこで、それについて多少話をしていこうと思う。

もちろん私たちはもはや霊であって肉体はないがゆえに、
地上的なる感覚で必ずしも感じているわけではないが、
まだ私のように地上を去ってそう日の経っていない霊にとっては、
ある程度地上的な人間の感覚というものもあてになる、
頼りになる感覚であることは事実です。

そこで私はどちらかというと、日本という地域の上空にあたるようなところで、
日本式家屋、庭園のある所に住んでいると、こういうふうな話を前々回であったか、いたしたと思いますが、

まあそれがひとつの如来界と言われる世界であるけれども、
そこからたとえば菩薩の世界に降りていくにはどうするかというと、
谷口雅春が羽をはやして空を飛ぶ姿などを誰も想像したくはないであろう。

そこでそういう話はさておいて、実際に視覚的に感じるとするならばどうか。
こうしてみると、まあこれは、ひとつの丘を下るというような行為にあたるわけだ。
                  
私たちの住んでいる所からちょっと町外れ、あるいは村外れに来ると丘になっていて、
丘を下っていくわけだ。この丘を下っていくと下の方の世界に出ていけると、まあこういったことだ。

途中でやはり雲海のようなものがある。雲海というのは雲の海だ。
私たちは雲の上のような所に住んでいる。私たちが住んでいる山、あるいは丘から見ると、
足元の方に遥かに雲がたなびいている。雲の大海になっているわけだ。

したがってこの丘を下っていくと、この雲の中に入っていくわけだ。
そして雲の中で、しばらく霧の中のようなこうしたところがあって、
これを通過していくと下の世界に出てくる。

これが菩薩の世界と言われている。

最近知ったところによれば、この如来の世界というのは八次元と言い、
菩薩の世界を七次元と言うという。

視覚的に言えばそういう雲海だな、雲の海を突き切ることによって次元の壁が破れるということになる。

まあ現実にそうした霧というものがあるはずもないのであって、
これはあくまでも視覚的ビジョンであろう。

ただ人間的感覚では、そういうふうにとらざるを得ない。

この下の菩薩の世界へ行くとどうなるかというと、ここも大変美しい世界で安らいだ世界であるが、
如来の世界に比べると、やや活気を帯びている、活発であるということが言えるのではないかと思う。

如来の世界の場合には人数が少ないこともあって、それぞれが独立していて瞑想的生活をしたり、
何か学問をやったり、いろんなことをやっている方が多いが、

菩薩の生活を見ると非常に行動的で活動的である。
また菩薩たちは非常に陽気である。こういうことが言えると思う。

そして彼らはよく会合を持って、いろんな集いで話し合っている。
そして現実に地上に行ったり、あるいは下の次元の霊界に行って指導をしたりと、大変忙しい仕事をしている。

まあ菩薩の生活というのは言ってみれば、地上的に言えばモーレツサラリーマンの生活のようなものだ。
モーレツサラリーマンのように働いているし、まあ格で言えば部長クラスというところだろうか。

部長クラスで、やり手の部長ということでバリバリと働いている。
それが菩薩の世界であろうと思います。

この中には、先ほども少し言いましたが、日本では賀川豊彦のような方もいるし、
また明治時代であれば維新の豪傑たちがかなり多く住んでいます。菩薩が多いです。

坂本竜馬であるとか、こうした人たちもみんな菩薩だ。勝海舟であるとか、木戸孝允であるとか、
木戸孝允は少し高い所にいるかもしれんが、あと吉田松陰であるとか、
こうした明治の偉人たちもこの菩薩の世界に多く住んでいて、やはり先生役をやっていろんなこを教えているようだ。

宗教家では、あと大正の親鸞と言われた一燈園の西田天香、こういう人も住んでいます。
これ以外にも、女神の世界としては天理教の中山みきであるとか、大本教の出口ナオ、
これらの人たちも菩薩クラスの女神だろう。

それ以外にも北村サヨというような、こういうふうな教祖もいた。この方も菩薩界へ還っているようだ。
こういう人々がいる。

ただこれも、この菩薩の生活はずいぶん分かれていて、学問的なことを好きな人は学問をやっているし、
宗教の好きな人は、やはりいろいろ教えを説いたり、実践活動をするのに専念しているようだ。

こういうふうに、菩薩はやや活動的生活をしていると言えるのではないかと思う。





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谷口雅春の大復活 -霊界見聞録- 5  

谷口雅春の大復活128-182


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菩薩の条件

さて、そうした菩薩界の生活を見てきたわけだけれども、この菩薩の条件とはいったいなんなのか。
これをこちらに還った谷口雅春の目で分析してみたいと思う。

こうしてみると菩薩というのは、ある意味ではやはり弟子であるという点は否めないと思う。
弟子としての生活であるということは事実だ。

彼らには、それぞれ師がついている。

師がついているというのは、手取り足取り教えているという意味では必ずしもない。
そうではないけれども、如来クラスの人が必ず師をしている。

そしてその師に対して二十人、三十人、あるいは四十人、五十人の菩薩が師事している。
教わっている。こういうふうに言えるだろうと思う。

これは、菩薩と言えどもまだまだ人間的完成者ではないということなのだ。

すなわち、もちろん通常の人よりは遥かに高い境地にいるけれども、
人間的な完成までまだ到っていない。

如来まで行って初めて、かなりの人間的な完成を見るのではないか。そういうふうに私は考えています。

したがって菩薩においては、まだまだ人間的なる完成というところまでは行っていないけれども、
かなり群を抜いた、傑出した人材となっていることは事実であろうと思います。

かなり傑出した人物である。そしてその人の地上時代の生活が、
なんらかの面において人類の進歩、向上に必ず役に立っていた、役立っていた、こういう条件があると思う。

人類に役立たないような生き方をして、菩薩の世界に還って来るということはまずない。
これは、諸君にも心の中に刻んでほしいことだと思う。

それと菩薩の条件として、さらに考えてみるとするならば、やはり、根本には愛があると思う。

菩薩の世界というのは、やはり愛の世界だと思う。愛の世界とは何かというと、
人に尽くそうとする考えだ。あるいは人に親切に生きようとする考えだ。

まあ親切という言葉は、現代では「親」という字と「切る」というような字を書いている。
親を切ると書いて親切などと言っているけども、まあこういうのは適切な言葉とは言えない。

親切ということは、本当は「深く切なる」と書かなければいけない。
深く切に人に接する。これを深切と言うが、まさしく菩薩の世界というのは、この深く切なる世界だと思う。

心深い所まで人のために尽くそうと思っている。
そして切ないほどに愛する。また尽くす。これだね。こういうことだ。

私は自己献身というような考え方はあんまり好きではないけれども、
それは、自分自身が生長することができなくなってくるからね。

自己犠牲というような考えは私はあまり好きではないけれども、
菩薩の中にはその傾向性として、ややそういうところがあるのは事実のように思う。

これについてもう少し皮肉な見方をするならば、お人好しが多いということだと思う。
菩薩の人々は地上に出た時に、かなりお人好しであったのではないか。

そういうふうに考える。お人好しでなければ、そんな人のために尽くそうなどと思わんし、
お人好しでなければ、地上を去って天上界に還って、また地上の人々を指導しようなどとは思わない。

私はまだ地上の人を具体的に守護、指導をしたという経験はないが、
こうした霊言を送るということも一つの指導かもしれん。

その私のわずかながらの経験を生かして話すとするならば、
地上の人間を指導するということは、これはそう生半可なことではない。

大変なことです。労多くしてなかなか報われない世界であろうと思う。

地上の人間の意識と、こちらの天上界にある霊人たちとの意識のギャップは、
これはいかんともしがたいほどのギャップだと思う。

生長の家で神想観などをやって、道場でみんな精神統一していても、
この私の本が谷口雅春の言葉かどうかさえわからん方が多いということを知った時に、

いかほど、この三次元の地上世界と四次元以降の霊的世界とが違うかということを、
つくづくと感じる今日この頃です。

しかし、私たちが住んでいるこうした如来界や菩薩界という世界のことを、
生命の実相、実相の世界、このように言っていたのが私の生前の教えであったろうと思うし、
その意味では確かにその通りであろうと思う。

実相、実なる相(すがた)、その相(すがた)とはいったい何かと言うと、結局、人間は神の子であるのだから、
神の子としての本来の姿ということだと思う。

神の子としての本来の姿とは何かというと、そこに如来や菩薩の境地がある。
このように言えるのではないか。

すなわち如来や菩薩という方は、地上的な塵や垢をおとして一皮も二皮もむけて、
きれいな光輝いたそうした霊的な体を持っている。こう言えると思います。





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