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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

大天使ミカエルの降臨2 -愛とは思いやりの心- 1  

大天使ミカエルの降臨2 128-187



現在、私たちの世界ではこの思いやりの心がうすれているように思います。
世界中の人たちが、思いやりの心で生きたなら、この地上は天国になるかもしれません。
そして、この世を去ったあの世の天国は、この思いやりの世界なのだと思います。

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愛とは思いやりの心

ここに一つの寓話を語っておきましょう。これは哀れな鶴の話です。

鶴には羽が生えております。しかし手がありません。
あるとき二羽の鶴が大空から舞い降りて、浜辺に降りたちました。

この浜辺には、たいへんおいしそうな貝が散乱していました。
二羽の鶴はとてもお腹が空いていたので、その貝殻をこじあけて、
なんとかして食べたいものだと思いました。

その貝はまだ生きていたので、鶴は、その貝殻をこじ開けて中の身を食べる必要がありました。

しかし、どうしてもこの作業がうまくいかないのです。

長いくちばしを差しこんで、そして貝殻をこじ開けるところまでいくのですが、
最後に、その貝の身をつまんで外に引き出すことが、どうしてもできないのです。

足で押さえてやってみようとするのですが、どうしてもバランスがうまくとれない。

足ではうまく貝殻をはさめなくて、そしてくちばしのみに頼るのですが、
そのくちばしが貝殻のすきまに割って入ったと思っても、
どうしても貝がツルッと滑って食べられないのです。

こうして二羽の鶴は、一日じゅう貝を食べようと努力していたけれども、
むなしく貝殻のまわりをくちばしでつつくだけで食べることができず、
ついに飢えて死んでしまったのでした。

このときに、この長いくちばしを持っている二羽の鶴が、おたがいに協力し合うことができたならば、
彼らは死ぬことがなかったと思えるのです。

一羽が貝殻にくちばしをつっこんで、その貝の口を開けたときに、もう一羽が、そのくちばしで、
その中の身を食べたら、貝はみごとに食べられてしまったはずです。

そうしておたがいに、そういうことをくり返せば、貝をあますところなく食べることができたと思えるのです。

ところが、自分が貝の殻をこじ開けて相手に食べさせるということを、
どうしても、その鶴たちは思いつかなかったのです。

そうして、おたがいに、自分一人が中の身を食べることばかりねらっていて、
とうとう食べることができなかったという話です。

仏教のほうでも、このこととひじょうに似たたとえ話がされていると、私は聞いたことがあります。

それは地獄で欲望を晴らせないでいる餓鬼地獄の霊たちの姿であると聞いています。
                                    
その地獄では食物に対する執着のひじょうに強い霊たちが、
いわゆる我利我利亡者たちが集まっていると言われています。

そしてその我利我利亡者たちが、食堂にいつも席をはって、
そして出される料理を食べようとするのだけれども、

彼らに渡される箸がひじょうに長いのだそうです。

長さが一メートルもあるような大著を渡され、
それでなければ食べてはいけないと言われているのです。

それゆえに、その筈でちからいっぱい食物をはさむことができても、
どうしても自分の口に持ってくることができず、

そうしておいしいご馳走を前にして、彼らは地団駄を踏んで悔しがるのだけれども、
とうとうそれを食べることができず、ますますひもじい思いをするという話です。

ここにも一つの教訓があって、その一メートルの大著であっても、
それで料理をつまんで自分の向かいの人に食べさせようとすれば、それは可能であったのですが、

だれもそういうことに気がつかないのです。
自分が食べることしか考えていないのです。

そして全員が飢え死にするような、そんなはめに追い込まれてゆくのです。

この地獄の責苦は、ある意味で愛に気づいたことがない人に、
その機会を与えている教育だとも言えましょうか。

おたがいに協力し合うということ、自分が食べたいという気持ちを押し殺して、
まず人に優先して食べさせようという気持ちを起こしたとき、

彼らは飢えから解放され、その愛の気持ちゆえに地獄から解放されてゆくのです。




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大天使ミカエルの降臨2 -愛とは思いやりの心- 2  

大天使ミカエルの降臨2 128-187



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二つのたとえ話をいたしましたが、鶴にしても我利我利亡者にしても、
どちらも欲が深いがために決して幸せになれなかった例であろうと思います。

この二つの話を聞いて、バカバカしいとお思いになる方は数多くおられることでしょう。

しかし私が見ていて、似たようなことは人間の間にも、あちらにもこちらにもあるのです。

おたがいに助け合うことができたら、どうにかすることができたのに、
どうしてそれをしなかったのか。

おたがいに長いくちばしで助け合ったら食べることができたものを、
おたがいに長い箸で料理を食べさせ合うことができたら、
その昧を心ゆくまで堪能することができたのに、

自分が食べることしか考えていないがために苦しんでいる多くの人たち。
その姿はあちらにもこちらにもあるように思います。

私はこうした人たちに、まず「愛とは他人を思いやる心である」ということを言っておきたいと思います。

なぜ、それが愛の根源にある考え方であるか、あなたがたはおわかりでしょうか。

この考え方が愛の根源にある理由は、神ご自身が、そういう行為をなさっているからです。

神ご自身は、この宇宙に満ちている万生万物を在らしめることに全精力を注いでおられるのです。

すべての生きものが在るということ、存在するということは、神の愛の思いゆえなのです。

それは、かならずしも彼らを生かしていることが、自分のみかえりになるというわけではないのです。
ただ与えている

それはそうです。地上の人間、動物、植物、川の中の生きもの、土の中の生きもの、
いろんなものをすべて神は養っておられます。

しかし彼らが存在することが、どれほどの自分の対価になるのか、そうしたことを考えているとは思えないのです。

神はただ、万生万物が楽しそうに生きているのを見て喜んでおられる。
そういうふうに私は感じられるのです。

それゆえに愛の根拠が、ここにあるように思います。

与えることに喜びを感ずること、人に喜んでもらえることに喜びを感ずること、
ここにどうやら愛の典型的な姿があるように思います。

多くの人びとは、たとえば地位の争いのためにしのぎをけずっていることもあるでしょう。

そういう時にも、どうか自分が欲深い、利己主義の鶴になっていないかどうか、
欲深い地獄の亡者になっていないかどうかを、よく考えることです。

他の人に自分が愛を与えたことによって、その人が生き返り、喜びに満ちることができるならば、
それは素晴らしいことではないでしょうか。

そうしておたがいに愛を与え合うことによって生き残っていくことができるなら、
これもまた素晴らしいことではないでしょうか。

私はこのように思うのです。

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