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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

心の探求 -心の構造- 1  

心の探求128-184



今回は、心の構造について紹介させていただこうと思います。

私たちの本来の姿である心というものが、いったいどのようなものであるのか。
それを感じ取っていただければ幸いです。

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心と脳の関係

心の構造ということに関して、さらに話を進めていきたいと思います。

現代日本では、心理学者、あるいは精神医学者とよばれる人たちがいろいろいます。

彼らは彼らなりに、心というものを探究したり、あるいは、心というものが何かということを、
勉強はしているわけですけれども、実際問題として、心とは何かを、十分解明できているとはいえません。

たとえば、心を大脳皮質のしわのなかにあると思っているような人がいっぱいいるのです。
しわの数が多いほど心が豊かであるとか、そういうことをいっている人もいますね。

それも本能の領域が、たとえば大脳皮質のなかの古い皮質、つまり、子供の時に作られた部分の処にあって、
新しい皮質、新皮質のなかに、いろいろな創造的な領域があるという人もいます。

あるいは、創造的な心の部分は、大脳の前頭葉にあって、後頭部の処は、スポーツの領域などを司っているとか。
側頭葉といって頭の横の部分ですね、側面の部分の側頭葉が、これが敏捷性とか、反射神経とか、
こういう運動神経とか、反射的な作用を司っているとか。こういうふうにいろいろいっている人がいます。

そこで、心の構造を述べていく前に、心と脳の関係について、しばらく話を進めたいと思います。
まず心が脳か、脳が心か、という問題になると思います。

結論から先にいえば、これは違うということになります。

脳というのは結局、心との連絡作用の場所であり、連絡回路だからです。

いわば、これはコンピューターでいう回路なんです。
コンピューターのような機械なんです。これが脳の部分なわけです。

ですから、コンピューターにインプットしている人間自身が正常であったとしても、
コンピューターのほうが故障すれば、ちゃんとした仕事ができないでしょう。

これと同じように、人間の心が正常であっても、脳みその一部が損傷を受ければ、
その結果、正確にその人間の感情をコントロールすることができません。

大脳の前頭葉が創造的領域つまり、考えたり、創り出したりする領域を押さえているというのは、
つぎのようにいえます。

つまり、コンピューターでいえば、そうした創造領域を人間の心が司っているということなわけです。
こういうふうに考えていただきたいのです。

その証拠に、たとえば、焼き場で肉体を焼かれて、脳を焼かれて、死んであの世に還っても、
人間は、魂として思考することができるということがあげられると思います。

あの世の霊たちの存在、そしてそれは、霊界通信という形で現にあるということは、
すでに数多く実証されてきているはずです。

つまり、脳みそがなくとも考えることができるし、考え方には個性があるということです。
換言すれば、霊人特有の個性というのがちゃんとあるわけです。

そうである以上、脳みそのなかとか、脳のしわで考えているわけではないということが、はっきりといえると思います。




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心の探求 -心の構造- 2  

心の探求128-184



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睡眠中の心と大脳の機能

しかし、このことに関しては、死後の世界がわからないという人がたくさんいるので、
それだけを話していても不十分でしょう。

そこで、これをもっと現実的に話をするならば、大脳が物事を考えているというなら、
では睡眠中はどうなのか、というようなことになると思います。

昼間は、いろんなことを思ったり、考えたり、人と話したり、
人の言葉を受け取ったり、いろんなことをしております。

しかし、眠っているときはどうでしょうか。人間が寝ている間に、人から悪口をいわれても、
まったく腹も立ちませんし、眠っている間に、人に褒められても、まったく気がつきません。

なかには、眠っている間に地震が起きても知らない人もいます。

夢遊病者のように眠っている間にべランダから出ていって、外で寝ていても気がつかない人もおります。
鼻を摘まれても気がつかない人もおります。

こういう事実は、神経の作用によって、大脳に刺激が伝わって、大脳が反応していると考えるならナンセンスです。

神経経路によって、大脳と連絡があって、そして大脳がすべてを考えているとするならばナンセンスで、
そうであるならば、寝ている時に鼻を摘まれても全部わかるはずですし、寝ている時に悪口をいわれたら、
それに対して、怒りがこみ上げてくるはずです。

ところが、実際、寝ているときに、何にもそういう反応がないわけです。
とくに、深い睡眠のときには反応がありません。

これはいったい何であるかということを考えると、結局、心がそこにないということです。

睡眠中に、心がそこにないということ。
こういうことがいえると思います。

脳は正常に機能しているし、心臓は動いているし、神経だって眠っているわけではありません。
それでも、そういうふうに刺激に対して、反応がなくなるということは、これは心がそこにないということです。

つまり、コンピューターには電源が入っているんだけれども、
コンピューターにインプットしているキーパンチャーが不在であるということです。

だからわからない。こういうことになるわけです。




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心の探求 -心の構造- 3  

心の探求128-184



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夢と霊界での活動

では睡眠中に、心は実際どうなっているのでしょうか。

よくある例としては、人間は、みんな夢を見ます。

夢を見て、夢のなかで、かつて大昔に行ったことがあるような世界に行ってみたり、
あるいは夢のなかで、空を飛んだり、あるいは海の底に潜ったり、地中深く落ちていったり、
いろんなことがあります。

特徴的なことは、思った処へすぐ行ける。あるいは、場面がクルッと変わったりする。
そういう経験をみなさんはされているはずです。

これは、夢のなかでは、人間は本当は単に思考しているのではないのです。

人間の脳波をとってみると、何回かに一回、一時間か二時間に一回、
逆説睡眠といいますけれども、脳波が変わる部分があるのですね。

この間に、人間は普通、夢を見ているといわれています。
一般に一晩のうちに、だいたい三回、ないし四回、この夢を見る期間があるといわれています。

脳波を調べていると、一定期間のうちに、脳波が変わるときがあるのですね。

この間に人を起こすと、必ず夢を見ていたといいます。

ところが、こういう特別な脳波を出している時以外の時に起こしても、何の夢も見ていないのです。
その期間は、単に肉体が休んでいるだけです。

しかし脳波を調べてみると、逆説睡眠といわれる時期があって、
これがだいたい、二時間周期ぐらいで起きるのです。

だから、だいたい三回から四回あります。この間に夢を見ているのです。
そして、一晩のうちに同じ夢を二回も三回も見ていることがあります。

睡眠中の人を起こしてみると、いつも同じ夢を見ています。

一回目、起こして二時間ぐらいたってまた起こしてみると、同じ夢を見ているのです。
三回目に起こすと、その夢の続きを見ているのです。

そのあと、また起こすと、その続きを見ている。こういうことがあると思います。

こうした時に、実際は夢というのを創造して、つまり、自分で映画を創って、その映画を見ているのではなくて、
じつは睡眠中に自分の心の部分は、霊界に遊んでいるということなんです。

肉体を抜け出して魂の中核でもあるといえる心は、霊界に遊んでいるのです。

その場合に、肉体が空っぽになってしまうのではないかと懸念する人がいますが、

じつは、この肉体を抜け出した魂、あるいは心というのは、玉の緒と昔からいいますが、
霊子線という銀色の糸によって結ばれているのです。

ですから実際上、霊眼で霊界の住人を見ると、本当にあの世の住人がいっぱいいるのが見えますが、
この世の住人も時々、睡眠中に肉体を抜け出して行っているのです。

そしてその人がこの世の住人かどうかは、たいてい霊子線というのがついていて、
つまり後頭部から、銀色のコード線というのがついているから、
これは地上に生きている人間だということが必ずわかります。

だから、あの世の人間でも、時々生きている人間と話ができる場合があるわけです。

それで生きている人間は夢のなかでいろんな霊人と会って話をしているのだけれども、
意識が戻ってきて目が覚めると、そうした霊人と話したということが常識では納得がいかないから、

自分に都合のいいように、意識の世界で翻訳がされるのです。

したがって、自分が実在界で全然面識のない人と会っていたとしても、地上に生きている友だちとか、
先生とかと会って話をしていたと、こういう場面設定に変わってしまうのです。

ところが、実際はそうじやないことがいっぱいあるのです。顔は友人だと思うけれど、
よく考えてみたら、友人の職業が全然違ったり、考えていること、
やっていることがその人のものとは違うんですね。

ただ友人と話していたような気持ちになる、こういうことなのです。
これは、じつは翻訳されているのですね。

憶い出した時に、それがそのままの形としては再現することが難しいから、
地上世界のことだと勘違いしてしまうわけです。

あるいは、場合によっては寝ている問に、つまり睡眠中に、生きている人どうしが、向こうも抜け出し、
こっちも抜け出して、あの世で会っていることもあるのです。

こうして夢のなかで、きれいな野原に出たり、お花畑に出たり、近代的な建物の中に出たり、
こういうことを経験された方もいるでしょうが、こういう場合は、天国の景色を見ているわけです。

ところが逆に、真暗な処に行って、いつも追いかけられている人もいます。
鬼に首を狙われているとか、地獄で釜の中でゆでられそうになって、
もうちょっとでゆで上がるところで目が覚めたとか。

こういう経験をされた方もいらっしやるでしょう。そういう人は本当は、みんな心が地獄に行っているわけです。





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心の探求 -心の構造- 4  

心の探求128-184



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睡眠中夢を見ること自体が、この世が仮の世であることの実証

こういうふうに天国、地獄が現にあって、生きているうちに、その経験を積んでいるのです。

人間というのは、過去世の記憶というのが消し去られているけれども、
これを補う手段として、神様が睡眠というのを与えられた。

そして睡眠中に、夢の時間に、あの世の霊界でさまざまな経験を積んでいて、
死んでから後で困らないようにしているわけなのです。

本来、人間が八時間は睡眠をとらなければならないように創る必要はないのです。
そんなことはおかしいし、ナンセンスです。

この三次元が完結した世界で、すべての世界であるならば、この世界のなかに生きていて、夢を見なければいけない、
睡眠をとらなければいけない、というのはじつに不自由です。

この世だけがすべての世界であるならば、二十四時間のうち八時間も体を休めねばならないというのは、
これは大変なマイナスですし、時間の浪費です。

むしろ二十四時間みっちり起きて仕事をすれば、人生はひじょうに密度が濃いです。

ところが、実際はそうではありません。

毎日八時間遊んでいるわけです。一日の三分の一です。ひじょうに能率が悪い。
これをなぜあえてやっているかです。

それをあえてやっている意味は、じつは、その間、あの世の世界に還ってきているということなのです。

そうしておかないと、本当に意識が消える時、つまり、死んだときに困ってしまうのです。

生きているときに、意識、つまり表面意識が働いているときに、霊なんかあるものか、
神なんかあるものかといっている人も、夢のなかでみんな経験しているのです。

だから死んでからのち、あの世に還ったときに、最初は肉体がないはずなのに、
それでも自分があるということにひじょうなショックを受けるのだけれども、

よくよく考えてみると、これはどこかで経験したことがある。
つまり、夢の世界でじつは経験しているわけです。みんなこういうふうに、憶い出すわけです。

最初、天国のような精霊界にきて、お花畑とか妖精たちとかを見て、
まあこれは凄い世界に来たなと思うけれども、どこか懐かしい。

よくよく見てみると、夢のなかで見たような景色だな。
ここは昔来たことがあるという感じで、思い出す。

あるいは地獄に堕ちても、何か不思議な感覚にうたれる。

自分は死んだと思ったのに、何か地獄みたいな処にいる。

よく見たら夢のなかで見たな。もうすぐ地獄に堕ちるから、地獄に堕ちる前に、
練習として夢のなかで何回も地獄に行っていたんだな。

こういうことに気がつくわけですね。そしてあの世の生活への準備ができるようにしています。

ですから、睡眠があって夢を見るということ自体が、この世がやはり仮の世界であるということの実証なわけです。





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心の探求 -心の構造- 5  

心の探求128-184



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逆にこの世の生活は、あの世から見れば冬眠と同じ

逆に、あの世の世界から見るならば、この地上に、六十年、七十年の人生を持っているということは、
向こうから見れば、魂が寝ているのと同じなのですね。

あるいは、冬眠中と一緒なのです。

本来の世界のほうでは、仕事が停止してしまって、いわば、冬眠中なわけです。

ちょうど、熊が冬の期間、三カ月、四カ月、洞窟の中に寝ているのと同じなのです。

本来の熊というのは、春から秋にかけて、餌を食べて、子つくをつくって、
そして育てて、生活していくんだけれども、冬眠期間中はじっと寝ています。

つまり、秋の間に食物を食べて寝込んでます。
まさしく、大きな目で見るとすれば、この熊の冬眠のようなことが人間にも与えられているわけです。

冬眠の周期は人によって違います。十年ぐらいで生まれ変わってくる人もいるし、
あるいは、五十年、あるいは三百年、千年や二千年単位でこの世に生まれ変わってくる人もいますけれども、

平均的にいえば、だいたい三百年ぐらいです。

つまり、実在界から見れば三百年に一回ぐらい、六十年間ぐらいの冬眠期間があるっていうことですね。

こういうふうに、三百年に一回ぐらいは、六十年ぐらい眠ってしまうのです。
その眠っている問に、何をしているかといえば、じつはその間、地上で活動しているということになります。

ですから、あの世の霊の立場から見れば、この地上の六十年の生活が終わって還ってくるというのは、
ちょうど冬眠から覚めて戻ってくるということと一緒であり、夢からやっと覚めたな、ということなのです。

つまり、あちらから見れば、この世が夢であり、あの世が実際です。そういう世界なんです。

ですから、夢のなかで、時々目が覚める、目を覚ますということがありますね。

いろんな楽しいことをやっていたかと思うと、パッと日が覚めると、真暗のなかで、
布団の中で寝ていたというのを気がつかれた方はいっぱいいると思います。

「逆もまた真なり」で、地上で生活をしていても、夢を見ている瞬間というのは、結局、
あの世からいえば、目が覚めた瞬間なんですね。

一部分だけ目が覚めてまた寝てしまった。また目が覚めた。また寝た。こういうのを繰り返しているわけなのです。

そこで夢の時間に、あの世の霊界へと魂が抜けてくると、あの世の友人たちや先生たちが

「お前しっかりやっているか。忘れていないだろうな。
本来の世界で計画して行ったことをしっかりやるんだぞ。修行するんだぞ」、
ということを睡眠中に教えているわけです。

ところが、また肉体に戻って目が覚めると、その事実を忘れてしまう。

朝の目玉焼の数が多かったとか、少なかったとか、ハムの焦げ方がすごかったとか、
味噌汁がまずかったとか、こういうことで、また妻と喧嘩をしたりするようなことを始めます。
こういうふうになっているわけなのです。

こういうふうに、この世とあの世、夢と現実というのが、実際は逆になっているわけですね。

同じような話として「老荘思想」の荘子という人が、“胡蝶の夢”という話をしております。

あるいは、“一炊の夢”というようなこともよくいいますけれども、ほんの御飯を炊いている間に、
うとうととして見た夢が、現実なのか、現実が夢なのか、わからないという話があります。

これは、唐の盧生という青年が趙州の都の邯鄲で、道士の枕をかりて、栄華の夢をみていたけれども、
目が覚めてみれば、まだ炊きかけの粟が煮えきらないくらいの短い時間であったという故事です。

このように、みなさんが今、三次元で、実際の生活をやっていると思うのが、じつは夢なのです。

大会社の社長をやっていた。大宗教家をやっていた。政治に反対してデモをやっていた。
こういうことは本当は全部夢なのです。そして現実は違うのですね。

こういうことになるわけです。

ですから、立場を変えて考えてみるということが、ひじょうにだいじです。

以上のように話をしてきましたけれども、心というのは、本当は頭脳じゃなくて、別のものなんだ。

そして心というのは、本当は魂の部分のなかの中心部分のことを心というのだということを、
私はいいたかったわけです。





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