太陽の法 -あの世に持って還れるものは心のみ- 
2021/12/13 Mon. 18:36

私たちの人生において最も大事なものは何なのか。
それをいま一度、確認してみたいと思います。
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執着を断つことは、人生における一大決意だといえます。
つまり、永遠の人生において、幸福を保証する英断であります。
しかし、このことは、人生を消極的に生きよ、
うしろ向きに生きよという意味では、決してありません。
執着を断つからこそ、積極果敢な人生がひらけてくるのです。
世の人びとをよく見てごらんなさい。
執着のある人びとの、なんと弱々しいことでしょう。
なぜ、自分の地位や名誉、あるいは、他人とくらべた年収などに執着をするのでしょうか。
なぜ、学校の名前や会社の名前に執着するのでしょうか。
なぜ、見栄や虚栄に執着をするのでしょうか。
そんなものに執着して、一体なにになるというのでしょう。
この世の人びとに評価されたところで、一体それがなにになるのでしょう。
はるか彼方の、大宇宙のはてよりも、さらに偉大な神の存在から見たならば、
人間の執着など、いかにはかなく、いかにむなしく、いかにとるにたりないか。
そのことが、わかりますか。
すべてのこの世的な執着を断って、熱鉄火のごとく赤く、熱く燃えてこそ、真実の人生なのです。
それでこそ、神の子としての人生なのです。
それでこそ、神に認められる人生だといえるのではないでしょうか。
人間がこの世で築いた地位も、名誉も、財産も、死んであの世にもって還ることはできないのです。
この世の肩書きなど、あの世では、もちろんのこと通用しません。
日本の総理大臣といわれた方たちが、一体何人、あの世の地獄で苦しんでいるか、あなた方は知っていますか。
人もうらやむような大会社の社長が、何百人、何千人と、色情地獄、阿修羅地獄、
あるいは、畜生道に堕ちているのです。
そのことを、あなた方は知っていますか。
生きていたときに、金もうけばかりうまくて、何人もの女性との快楽をむさぼった人間が、
快楽のうちに人生をおえた人間が、そのわずか数十年の快楽のために、一体何百年、
苦しみという名の代償を支払いつづけているか、あなた方は知っていますか。
地獄は、むかし話や方便ではなくて、実際にあるのです。厳然としてあるのです。
神理を体得した人の目から見れば、あの世で苦しんでいる人びとの姿は、
金魚鉢のなかの金魚を見るよりもたやすく見えてしまいます。
そして、そういう彼らに共通するのは、この世に執着の多い人ほど、苦しみもまた深いということです。
人間は、心です。魂です。
ですから、死んであの世にもって還れるものは、あなた方自身の心以外にはないのです。
心がすべてなのです。
死んであの世にもって還れるものは「心」しかないのだと気がついてはじめて、
人間はひらきなおることができるのです。
心しかもって還れないならば、せめて美しい心をもって還るしかないでしょう。
では、美しい心とはどういうものでしょうか。
もちろん、神さまがほめてくれるような心です。
神さまがほめてくれる心とは、愛に満ちた心です。与える心、生かす心、許す心、感謝する心です。
ですから、そういう心をもって遅れるように、心を磨き、心を高めることにこそ、
熱鉄のごとく赤く燃えあがるべきなのではないでしょうか。
執着の反対は、なんだと思いますか。それは、愛です。
なぜならば、愛とは、与えることだからです。
他人を生かすために、与えつづける愛のなかに、一体なんの執着があるというのでしょうか。
ですから、執着を断つには、まず、愛を与えることからはじめることです。
あなたは、お世話になったご両親に、なにをしてあげましたか。
兄弟に、なにをしてあげましたか。
また、お世話になった先生の期待に、こたえることができましたか。
友人になにをしましたか。
縁あって人生の途上で出会った人びとに対して、一体なにをしてあげましたか。
隣人に、なにをしてあげましたか。
恋人に、なにをしてあげましたか。
妻や夫に、なにをしてあげましたか。
あるいは、子供を育てるときに、自分のご両親の苦労をどれだけ思い出しましたか。
心のなかでにくんでいた人を許してあげられましたか。
怒っていた心をしずめてあげましたか。神の愛に、どれだけこたえながら、勇ましく人生を歩みましたか。
category: あの世に持って還れるものは心のみ
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