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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

永遠の法 -あの世の世界は念いの世界- 1  

永遠の法120-171


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さて、霊的な世界のなかにおいて、地獄があるという話を今いたしました。

地獄というのは、昔話には聞いていたにせよ、現実にそうしたものに直面したとき、
人間の衝撃というものは大きいものだと思います。

そして、まさしく話に聞いていたとおり、さまざまな地獄があるわけです。

鬼のような存在もあれば、また、悪魔のような存在もある。そういうことを実際に目のあたりにして、驚くはずです。

なかには、身長が三メートル、四メートルと大きいような、そういう鬼のような霊人もいれば、
また、刃物をもって追いかけて来るような者もいる。

あるところでは、たとえば、色情地獄というところにおいては、その血の池のなかで、
ほんとうに人間がのたうち廻っている姿がある。

また、餓鬼地獄というところにおいては、昔の飢饉のときに農民たちがそうなって死んでいったというような姿で、
つまり、肋骨とあばら骨と皮ばかりになって、「食物が食べたい食べたい」と言って、
苦しんでいる人たちがたくさんいます。

また、これ以外にも、畜生道というところが現実にあります。

そこでは、人間は、もはや人間の姿をしてはいないのです。

芥川龍之介という作家が、そういう畜生道に堕ちた人の話を小説のなかにも書いておりましたけれども、
まさしくその小説と同じように、体が馬であって顔が人間、体が牛であって顔が人間、
体が豚であって顔が人間、こういう者が現実に存在するのです。

また、ヘビのようになって、大蛇となって、地獄の地面を這っている者もおります。
こうした者たちは、なぜ自分がこういう姿になったのかということがわからず、そうしているのです。

すなわち、それは、彼らが霊の本質ということを知らないからです。

霊の世界は、思ったことが実現する世界なのです。

しかし、彼らは、生前、生きていたときに思ったことは、
心の世界においてすでに実現したことだということを知らないでいたのです。

心のなかでどのような思いをもっていても、外面から見えないからかまわないと思って生きてきた人たちなのです。

肉体をもっていたときに、その心が透き通しで、何もかも見通されてしまえば、
恥ずかしくてとても人前に出られなかったような人たちなのです。

そうした人たちが、あの世の世界に還って、つまり、霊の世界に還って初めて、
自分の心のなかをすべて見られてしまって、そして、思ったとおりの姿になるということを知って、愕然とするのです。

地上に生きていたときに、人に対する妬みや怨み、そうしたものをもって生きていると、
体がヘビのように変わったのだとするならば、人間は、その間違いに気がつくでしょう。

ところが、生前はそうしたことがなく、三次元の法則のなかで生きているがために、それを知らないでいるのです。

しかし、あの世では、思ったことは、すぐ実現するのです。

たとえば、女性のことばかり、異性のことばかりに心を悩ましている人は、異性ばかりを追い求める色情地獄に堕ち、

また、たとえば、キツネのように人をだますことばかりに汲汲としていた人間は、キツネのような姿となる。

あるいは、ヘビのようにしつこくしつこく人を妬み、怨んでいた人間は、やはりヘビのような姿になる。
ここにあげた以外にも、さまざまな動物になっていきます。

そして、こうした動物霊のようになった人間霊が、その地獄の苦しさから逃れるために、
一時期地獄から這い出そうとして、地上の人間に憑依するのです。

しかし、憑依と言っても、まったく何の関係もない人に憑依できるわけではないのです。

自分の心のなかに、地獄をつくっている人にだけ憑依できるのです。

生きている人間は、心のなかにさまざまな想念の世界をつくっておりますが、
心のなかに地獄をつくっているような人だと、こうした地獄霊が入って来れるのです。

つまり、心のなかに色情地獄をつくっている人のところへは、色情地獄霊が来るし、
心のなかに動物地獄、畜生道をつくっている人のところには、動物のような霊がかかってくる。

また、心のなかに無間地獄、つまり、思想的に、宗数的に、心の面が病んでおり、
人びとを間違って指導しているような人びとのところには、そういう地獄に堕ちた宗数家たち、
思想家たち、こうした人たちが取り憑いていきます。
 
結局、地獄というのは、心の世界のなかにあり、想念のなかにあるわけであって、
地獄霊が憑依する原因は、生きている人間の心のなかにそういう地獄界があるから、
そのなかに入り込んで来るというわけなのです。

こうした不思議な世界のしくみというものについても、私たちは、知っておかなくてはなりません。



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永遠の法 -あの世の世界は念いの世界- 2  

永遠の法120-171




地獄で苦しんでいる霊が、決まって、いつも言うセリフというのがあります。
それは何かと言うと、「こんな姿になるぐらいなら、ひと思いに殺してくれ」ということばです。

彼らは、ときに、神や仏に対して、罵詈讒謗、悪口のかぎりをつくすことがあります。

「ヘビとして生きていくぐらいなら、ひと思いに殺してくれればよかった」と言う人がおりますし、

「こんな色情地獄のなかで、血の海のなかで泳いでいるぐらいなら、
ひと思いに殺してくれたほうがまだましだった」、こういうことを言う人もいます。

また、無間地獄のなかで、真っ黒の闇のなか、砂漠のなか、あるいは、
洞窟のなかに閉じ込められてしまったような人間というのは、

「こんな人生が俺を待っているのなら、ひと思いに生命を奪ってくれればよかったのに」と、
こういうことを言っております。

生前、大宗教家と言われて、世間からさまざまな称賛を受けたような人が、無間地獄に堕ちて、
そして、深い深い闇のなかで、深い深い沼のなかで、ただひとり苦しんでいるという姿を、
私は、数多く霊視しております。

それは、今、二代目、三代目が継いでいるような宗教の初代教祖のなかにも数多くおります。

こうした教祖たちの疑問は、「なぜ何十万人、何百万人の人たちを指導した私が、
こういう世界にいるのかわからない」ということです。

また、「こうした世界にいるぐらいなら、ひと思いに生命を奪ってほしかった」と、
こういうことを彼らは口々に言います、その将来がわからないからです。

何百年、何千年、その漆黒の闇のなかで苦しまねばならぬのか、これがわからないのです。

人間の魂というのは、永遠です。永遠の生命があるのです。永遠の生命があるということは、
調和された生活をして生き、心が美しく、天国に還った人たちにとっては、この上ない福音です。

そうした素晴らしい世界のなかにおいて、永遠に生命をまっとうしていくことができるからです。

しかし、地獄に堕ちたこうした人たちにとっては、永遠の生命があるということ自体が、
ひとつの罪であり、罰であり、懲罰であるわけです。

生命がひと思いになくなってしまえば、こんなことはないのです。しかし、なくならない。
このこと自体が、彼らを罰しているのです。

こうした真実の世界の姿を知ったならば、人間は、地上に生きていたときに、
悪いことを思うことも、悪いことをすることも、ほんとうに、割が合わないということがわかってくるのです。

永遠の生命などなくて、この世かぎりで有限の人生だと思っているからこそ、やりたい放題のことをし、
また、人を傷つけ、人を蹴落としてでも偉くなろうとしているのです。

ところが、そうした結果が、地獄のなかで、永遠の苦しみ、
永遠の生命どころか永遠の苦しみのなかでのたうち廻るということを知れば、
どれだけ割が合わないかということを知るにいたるのです。

また、生きていたときに、ささやかな善意のなかに生きていたということが、
あの世での至福の生活、これ以上ない素晴らしい生活へと展開していくならば、

「なぜ地上にいたときに、もっといいことをしてこなかったか」と、誰もがそういうことを思うはずです。
この世でひとついいことをしたら、これは、あの世で十個いいことをしたぐらいの価値があるのです。

なぜなら、この世というのは、非常にむずかしい世界であり、
魂は盲目、目を隠された状態で修行しているのですから、

目隠しの、手探りの状態で、天国的なる生活を展開した人は、
あの世での修行の五倍、十倍の値打ちがあるのです。

この世でわずか数十年の間、天国的生活を送った人は、あの世ではその十倍にもなって返ってくるのです。
この世はまた、そうした価値ある世界でもあるのです。

しかし、この世で、このぐらいのことはいいと思って、わずかばかりと思って犯してきた悪の数々は、
あの世では五倍、十倍となって返ってくる。こうした厳しい人生が待っているのです。

ですから、人間は良いことをすることがほめられるべきことだから良いことをせよと言ったり、
あるいは、悪いことがいけないからするなと言うのではなく、

ほんとうの意味で自分を大切にする人間であるならば、悪いことはできなくて、
良いことしかできなくなってくるはずです。

ほんとうの人生観、ほんとうの世界観を知ったときに、そうせざるを得なくなってくるのです。
割の合わないことは、誰もしないのです。

ましてや、地獄に行くような人というのは、割の合わないことというのは、非常に嫌いなのです。
非常に嫌いであるにもかかわらず、それが割に合わないということを知らないからこそ、やっているのです。

ですから、そうした彼らを、一日も早く気づかしてやる必要が、私たちにはあるわけです。


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