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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

大天使ミカエルの降臨1 -反省による魂の軌道修正- 1  

大天使ミカエルの降臨1



反省という事がいかに大切なことなのか、
今回はそれを紹介させていただこうと思います。

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反省による魂の軌道修正

いずれの世界に行くにしても、すべて新たな世界に通じるための鍵を握っているのは、
みなさま方の心のありようひとつなのです。

自分が死後、どのような世界に行くかということは、
自分の心というものを善意なる第三者の立場で見つめてみれば、明らかにわかることなのです。

本書の読者がそれを知りたいと思うならば、みずからが神であるとして、
あなたの心に思ってきたこと、あなたが行なってきたことをつぶさに点検した時に、
そこに見る自分の姿を善と思うか、悪と思うかということです。

この善と思うか、悪と思うかということがわからないのであるならば、次のたとえで話をしましょう。

すなわち、あなたが神だとして、自分自身をまったく別な立場から眺めた時に、
その自分の思いと行ないを映写機のごとく映されたとして、
他の人びとに見られても心底恥ずかしくない人生であるか、

それとも人に見られたくないところがたくさんあるかどうかということです。

無修正で、その人生のドラマを人に見せられる方はりっぱです。

また、人生のあちこちで、さまざまなまちがいを起こしてはいるけれども、
そうしたさまざまなまちがいについて、そのつど反省をし、みずから涙を流している人の姿は、
それ自体がひとつのドラマであり、多くの人びとの感動を呼ぶことになるでしょう。

このように、みずからの心のフィルムをビデオテープのごとくスクリーンに映していった時に、
人に見られても困らない自分とは、誤りに接しては反省をし、涙する自分であるということなのです。

その誤りを誤りと認めず、みずからのまちがいをまちがいと認めず、我強く、押し強く、
どこまでも自分流の生き方にこだわっている人は、どこかで大きな衝撃を受けることになります。

地上で受けない場合は、あの世に来てから受けることになるのです。

そのような人生を、自分だけが知っていると思っていたところが、
多くの人びとに見られて深く深く悔いてゆくことになるわけなのです。




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大天使ミカエルの降臨1 -反省による魂の軌道修正- 2  

大天使ミカエルの降臨1


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しかしながら、ここに「反省」という観点について、
もうひとつ私たちの世界からの注意をしておく必要があると思うのです。

地上を去った後に反省するということも、もちろん可能ではありましょう。
なれど、地上における反省と、地上を去った世界における反省とでは、その意味が違うということなのです。

それは、地上に生きていて肉体意識のなかにありながら、みずからの過ちに気づき反省ができたという人は、
それだけ早く魂の軌道修正ができたのであり、早く立ち直ることができるのです。

すなわち、借金を持たずに他界してくることになるわけです。

ところが、地上時代に反省をなさずに、他界して後まとめて反省しようとしたとしても、
この借金は、悪を犯した時よりローンが始まり、その金利がかさんでいくことになっているのです。

反省せぬまま、十年、二十年の月日を重ねた人の場合には、
その借金の額は二倍にも、三倍にも膨らんでいることがままあるのです。

地上において借金をして、その額がかさめば返していけなくなるように、

地上にいた時にすぐにその負債を払っておくならばかんたんであったものも、
それを来世に持ち込んだ場合には、その利子がかさんで雪ダルマ式となり、
とうてい短い年月の間では返せぬような大きな負債となっていることもあるということなのです。

したがって、過ちに対して即座に反省できることは幸いであるかなと、そのように言えるのです。

そして、他界して後、大きな反省の材料を抱えている人は、これは残念なことでもあるのです。

そうかんたんにはこの借財は返せないのです。

そして、なお悪いことには、生きている時には、借金は働いて返すという方法があったわけですが、

すなわちまちがったことをしたとしても、善行を積むことによって、
生前のうちにその負債を消していくということが可能であったけれども、

他界した後であれば、借金は借金として残りながら、
働きながら返すということができなくなってくるからなのです。

ではなにゆえに、働きながら返すということができなくなってくるのでしょうか。

それは、死後、霊はそれぞれの魂に応じたところに落ち着いており、
他の霊との交渉がなくなってゆくからなのです。

すなわち、本来自分が生きていた時に、まちがいについては謝り、
そして訂正をするべき相手の人間たちが、この地獄の世界においてはもはや住んでいないということなのです。

その世界においては、声を出しても聞こえず、叫んでもだれにも気づかれないという、そうした世界であるのです。

そのような深い深い沼であり、深い深い闇であり、深い深い谷であるのです。

そこから反省の言葉を出しても、地上の人には届かないのです。
天国に行った人にも届かないのです。

他の谷にいる人にも届かないのです。そのような事態が現出しているのです。

これゆえに、私は言うのです。反省ということは、一つの慈悲であると。

神仏の慈悲であると

人間はまちがいを犯すことはある。人間は失敗をすることはある。

しかし、まちがいに際し、失敗に際し、即座にみずからの心のあり方を修正し、
まちがっていた場合には相手に詫び、

そして、自分自身は未来に向けて、軌道修正をしてゆくことだと思います。
それがだいじではないでしょうか。


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