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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

ソクラテスの霊言 -あなたが、今この日本に生まれたらどのような生涯を生きられるか- 1  

ソクラテスの霊言128-183




今回は、ソクラテスの霊言を紹介させていただきたいと思います。
ソクラテスは西洋哲学の祖として有名であり、ご存じの方も多いと思います。

そのソクラテスが、もし現代に生まれ変わったとしたら、どのような人生をおくるのでありましょうか。
まずは、ご一読よろしくお願いいたします。

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あなたが、今この日本に生まれたらどのような生涯を生きられるか

――聞手

ソクラテス先生、私からの質問なのですけれども、例えばあなたが、
今この日本の国にお生まれになったとしたら、あなたは、どのような人間として一生を生きていかれますか。

例えばですよ、例えば、今この日本に、私たちではなくてあなたがお生まれになったとしたら、
あなたはどのようにお生きになられるでしょうか。

――ソクラテス 

これは非常に厳しい質問でありますが、今、私がこの日本の国に生まれたならば、やはり私は学問に励むでしょう。

そうしてあなた方が〝徳″と考えているもの、〝仁徳″というようなもの、これを主に考えておられるようですけれども、
徳の中には、〝学徳″というものもあるのです。

深く学問を修め、見識を磨くということも一つの道であります。

このような知性の時代、もし私が生まれたとしたならば、私はやはり学問を積み、
さまざまな学問を越えた学徳的な道を歩む学者になっていくでありましょう。

そうして青年達に対して、若者たちに対して、知的に生きる、知的生活の重要さを説くことになりましょう。

いま若者達を見てみなさい。休みの日には車に乗ってドライブをする。
或いはレジャーに励む、或いは人と人とが逢ってお喋りをする。映画を見る。さまざまなギャンブルをする。

そういった刹那的な趣味の中に若者達は流れていっております。

今、私がこの日本の国に生まれるとしたら、やはり私は学徳というものの大切さ、知性的に生きる。
知的に生きるということは、何を目指すのでなくても、それ自体が、そのライフ・スタイル自体が意義があり、
価値があるのだということを、お見せすることになると思います。

たとえその一生において、何ら達成することがないとしても、目的としての学問の大切さを、私は説くと思うのです。

学問は、あなた方は、えてして何かのための学問ということを考えているのです。

例えば就職のための学問です。試験に通るための学問です。技術者になるための科学です。
そうですね。大学教授になるための哲学であります。文学の教授になるための小説であります。
そうした手段としての学問がはびこっている世の中であります。

しかしながら本来、学問とはそうしたものではなかったのです。

学問は、学に参ずるということ自体が、一つの目的だったのです。
それが人間修行の目的の一つであったのです。

ここのところを考えて頂きたいのです。





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ソクラテスの霊言 -あなたが、今この日本に生まれたらどのような生涯を生きられるか- 2  

ソクラテスの霊言128-183


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人間は何回も、何回も転生輪廻を重ねて来ております。
そのときには、その或る時は、原始時代のように生きたときもあります。

ある時には、戦乱の世の中に生きたこともあります。

しかしながら、原始時代に生きた人々に、私達の世界がすべて理解できるかといえば、
理解することはできないのです。

戦乱の世に生まれた人々は、生命の大切さということを学ぶでしょう。

けれども、われわれの世界の仕組みを理解するだけのものはないのです。

やはりわれらが世界も、この多元的な、多次元の世界を理解し、神の御意を知り、
そしてこの現象界の意味を知るためには、さまざまなことを知り、学ばなければいけないのです。

学ぶということは、手段ではなくて、霊的進化という目的でもあるのです。

さまざまな知識を身につけ、磨いていく中において魂としても発達していくのです。

それはそうです。ユダヤの地において、イスラエルの地において、浜辺で漁師達に、人を愛しなさいと言うよりも、
複雑な世の中のことを知り、世界の仕組みを知った上で、人々を愛するということが一体どのような意味をもつのか
ということを学んだ方が、その人の魂にとっては進化になるのです。

魂は進化していかねばなりません。

そうですから学問を修めるということ、知的に生きるということは、
決して手段ではなくてそれ自体が一つの目的だということです。

知的なライフ・スタイルを作るということ自体が一つの目的でもあるのです。

そうした生涯をこの肉体人間の時代に送れたならば、その人間は非常に大きな魂の糧を得ることができたでしょう。

あなた方がこうして私の話を聴けるのも、あなた方がさまざまの学問をし学んで来たからであります。

あなたが例えば生まれつき原始人のような生活をし、石斧で動物を殺したり、
田植えだけをして一生暮らした人であるならば、私の言葉を聴くこともできず、聴いても理解することもできないのです。

すくなくとも、私の言葉を理解できるだけの素地が、ある程度の素地があるということは、
魂が学習するためには大切だということが判るでしょう。

その素地がなければ、魂は学習をすることができないのです。

ですから長くなりましたけれども、私が今、この日本の地に生まれるとしたならば、学問を修めます。

本当の知識ある人とは、本当の学徳ある人とは、本当の英知ある人とは、
如何なる人間であるかということを見て頂きたいのです。

若い人達に特にみて頂きたいと思うのです。

その私の後ろ姿を見て育って頂きたいと思うのです。

私は恐らくはあなた方のように、宗教そのものは説くことはないでありましょう。

けれども、やはりこの知性の時代において、知力の時代において、知力の権化のような姿をとりながら、
その奥にあるものが何であるかを語ることになりましょう。

人々から知的な意味において尊敬をうけながら、はじめてその奥にあるものは何であるか、
神とは何であるかということを説くでありましょう。

恐らくは私のある時期までは、日本一の知者になるための努力の歴史となりましょう。

そしてそれから後は、日本一の知者となった後に人々に対して、神のことを、
神の御意を説くような人間になっていくでしょう。

今、私がこの世に生まれたならばそのような人生を送ると思います。


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約2500年前のギリシャにおいて、ソクラテスは、まさしくこのような人生をおくっていたのかもしれません。





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カントの霊訓 -あの世では階層ごとにどのような人が住んでいるか- 1  

ソクラテスの霊言128-183



あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

今年もみなさまにとって、心の糧となる記事を紹介させていただけたらと思います。

それでは第一回として、ソクラテスの霊言の中からカントの霊訓と題しまして
あの世での階層の詳細と、その階層ごとにどのような人が住んでいるのかを紹介させていただきます。


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人間はなぜ肉体という繭に宿る生活をせねばならぬか

まず人間は、僅か数十年の人生をこの地上で経験するわけであるが、
この地上生活の其の目的は何処にあるであろうか。

霊としての存在は、この地上にある時、肉体といういわば蓑というか繭というか、
そうしたものの中に閉じ込められている。

その霊は、非常に不自由な生活を送っている。

例えて言うならば、縫い包みを着て歩いているようなものだ。

たどたどしく歩き、食事にも不便をする。

縫い包みを着ればそうであろう。

そのようなことを、霊は何十年間経験するのである。

ではなぜこのような不自由な肉体に、霊は宿るのであろうか。

霊は霊として自由に天空で生きて居れば、それで十分であるはずなのに、
なぜに母体に宿り、不自由な生活をしていくのか。

何ゆえに苦しい肉体の中に入って生まれ、苦しみ、病気をし、そして死の苦しみを味わっていくのか。

私達の世界から見るならば、このようなことは苦悩以外の何ものでもない。

けれども、なぜそのようなことが、みなさんの経験すべきこととされているのであろうか。

これは、肉体に宿るということによって、人間の霊は、
人間としての経験以前の原始的な不自由さを経験するということなのである。

つまり、ある意味においては、動物的属性の中で生きるという経験をさせられているのである。

世の認識というものは、すべて相対的に出来ているものであり、

絶対的にこれのみが「其」これのみが「善」というものは、例えば、
それだけしかないならば十分に認識することはできないのである。

人間が人間であることを十分に理解するためには、
人間ではない〝属性″の中において経験を横む必要があるのである。

従って、肉体を持った人間というものは本来、霊天上界における自由を喪失した代わりに、
動物的なさまざまな感覚や、欲望を身につけることとなる。

この中において、其の、本来の人間性は如何なるところにあるのかということを、再認識させられているのである。

これが肉体修行の意味である。



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カントの霊訓 -あの世では階層ごとにどのような人が住んでいるか- 2  

ソクラテスの霊言128-183



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例えば、私たちは、霊天上界の上段階において、毎日を過ごして居るのであるが、

これは確かに私の精神波動にも同調し、非常に過ごし易いのであるけれども、
この状態を余り長く続けるならば、私としては、新たな学習の機会が少ないのである。

やはり相対的に別のものを経験することによって、
現にわが在るところを更に一歩前進せしめんとする努力が必要なのである。

更にまた、肉体修行においては、先程申した〝動物的属性″を経るという以外に、
いま一つの目的があるのである。

これは既に、あなた方も学んでおられると思うが、この地上界においては、
神の創られた世界の、あらゆる霊的存在が、一堂に会する場であるのである。

神はこのような場を三次元に設けられたのである。

この三次元には、鉱物、植物、動物、そして人間。

人間においても、地獄に堕ちていくような人もあれば、善人としての生涯を送る人もあれば、
或いは光の指導霊達も居るのである。

光の指導霊達にとってみれば、この三次元においては、生きていくにも非常に苦労をするし、

また彼らにとっては、他の知能、或いは知識、
或いは徳の劣ったものを指導するという役割を果たしているようではあるが、

逆に、彼らを導くことによって、光の指導霊達自身も、また学習を得ているということなのである。

自らが不自由な身体に入りながら、更に不自由、
あつかいの不自由な人びとを相手にするという経験を経ることによって、

光の指導霊達は、彼らの新たな経験を積むし、また霊的発達の未熟な人間においても、
本来の世界に還ったら、二度と会うことができないような、霊的指導者達との接触を得て学ぶ機会がふえるのである。

こういった意味において地上界は、非常に存在の意味があるのである。

けれどもこの地上界において人類は、何万年、何十万年、何百万年、更にそれ以上の歴史を経て来たのである。

その中においてこの地上に、非常に執着をする人間が多くなって来たのである。

かつては、天上界からこの地上に生まれて来る周期というものは、非常に永かったのである。

例えば何万年に一回生まれ変わってくる。
場合によっては何百万年に一回しか生まれ変わって来なかったのである。

それが近代においては或る霊は数百年ごとに、或る霊は数十年ごとに、
そうした非常に生まれ変わりの周期が短くなっている。

これが人口増加の一つの原因にもなっている。

本来何万年、何十万年ごとに生まれ変わって来た人類が、この近代社会においては、この地上に執着が多いために、
何度も、何度も生まれ変わっているのである。

これが人口増加をもたらしていると同時に、いま一つは本来の霊的存在に対して、霊的ではなくて、
肉を欲する人々が、地上を欲する人々が増えているということである。

これは、或る意味においては危険なことである。

本来の世界よりも、この地上生活の方が良いということは、どういう意味であろうか。

本来修行の場であるべきところが、永住の場として乞い願われて来ているということである。

これは神の永遠の進化の法則からいくならば、逆行したことなのである。

今この地上界は、そのような問題を抱えている。




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カントの霊訓 -あの世では階層ごとにどのような人が住んでいるか- 3  

ソクラテスの霊言128-183



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幽界、四次元世界の様相

さて、この地上を去って人間は、あの世へと還ることとなる。
このあの世というのが、最初の段階があなた方が「幽界」と称んでいる世界である。

この〝幽界〟においては、人間は地上生活で送っていた想念をまだ拭い去れないでいる。
従って四次元であるにもかかわらず、三次元世界と同じような生活様式をとっている。

彼らの生活ほぼ、地上生活の時代と同じである。

不思議なことは、ただ、彼らは何かを思うことによって、
その思いを或る程度現象化できるという力を持っているということだ。

これが彼らにとっては、いま一つわからないことである。

例えば、四次元の〝幽界〟の中においても、例えば、大工なら大工をしたいという人が居るとしようか。

この地上に居たならば鑿や、鉋、或いは鋸というものを購入する。

或いは自ら造るということをして、はじめて鑿や、鉋によって大工仕事ができるのである。

しかるに、四次元幽界世界においては、彼らは、たとえば家を建てたいと思うと、
なぜか鑿や、鉋が、そこに在るのである。

当初〝幽界″に来た人間にとっては、これは非常に不思議なことであるのだが、
やがてこれが当然のこととなってしまう。

なぜか知らないが、欲しいものがそこに在るのである。

例えば、麦を脱穀してパンを造りたいと思うと、なぜかそこに麦畑があるのである。
そして麦を摘むことが出来るのである。

こういった世界、当初は非常に面喰らうのであるが、やがてこれが当然なこととなる。

この意味において〝幽界″世界は、この三次元世界におけるよりも便利であろう。

またこの四次元の中においては、〝地獄界″というものがある。

この中においては、例えば地上に居た時と同じく、いまだに戦争をくり返している霊達が居るのである。

この霊達も、例えば弓矢の時代に亡くなった霊達は、地獄で戦争するにしても相変わらず弓矢で戦争しているのである。

この弓矢というものは、彼等が造ろうとしなくとも、想念の中にあるから弓矢が出てくるのである。

ところが、同じ戦争をしていても、近代に亡くなった人々の戦争道具は、銃であり剣であり更に大砲である。

そうすると弓欠の時代の人々は、銃で撃たれても分からないのである。

殺し合いをしているのだが、銃が効くのは、銃の恐ろしさを知っている人間だけであって、
知らない弓矢の世界の人間にとっては銃で撃たれても、何事も起きないのである。

こういった想念の世界が四次元世界ではくり展げられている。
(この世界を仏教的には阿修羅地獄という)




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