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神理の発見

私たちが生きていく上で一番大切なもの、そして真の幸福へと導いてくれるもの
もしそうしたものがあるならば、それは本当の意味での宝かもしれません。
それが誰によって書かれていたとしても、たとえわずかな期間に書かれたものであったとしても
その中に神理の光が宿っており、真に人々を幸福に導く法であるならば
それを後世に残していくことが使命であると思いこのブログを立ち上げてみました。
これからすばらしい神理が発見できれば、ここにて紹介してゆこうと思っております。

太陽の法  

太陽の法

魂の進化

私たちはなぜ転生輪廻する必要があるのでしょう、永遠の生命を持ち、心清まってあの世に還れば、
その美しい心のままで、永遠に霊としての生命をまっとうしてゆけば良いという考えもあるでしょう。

しかし、そうではないのです、私たちは自らの魂を進化発展させるため、この世に生まれてくるのです。

霊として生活していた天上界、それはお互いの心がガラス張りであり、
日々会う人々は、愛と調和に満たされた、すばらしい人々ばかりであり、
そうした中で少しでも神理に目覚めようと修行にはげんでいたのです。

しかし、肉体を持って、この世に生まれてくるという事は、
天上界で自由自在に生きていた霊にとっては、ひとつの試練であり、
自らの霊的なる覚醒が、はたして本物かどうかが、徹底的に試される場なのです。

霊的に自由自在の時に、神仏の力を信ずる事は容易です。

しかし、この物質世界のルールの中で生活して、一体どれだけ実在の世界のルールを悟れるか
神仏の力が働いている世界である事を悟れるか、それが、徹底的に試されるのであり、
その試験にパスしてはじめて、人間はもといた世界以上の高次元の天上界に帰って行けるのです。

では、進化とはいったい何なのでしょう、どのような方向に魂を進化させてゆけば良いのでしょう。

それは、私たちの魂を創られ、この世界を創られた、神の心を知る中で見えてくるのではないでしょうか。

ではいったい、神の心とはいかなるものでしょう、神の御心とは何辺にあるのでしょう。

神は私たちに、すべてを与えてくださいました、水も、空気も、太陽の光も、私たちの永遠の生命までも、
いっさいがっさいを、すべて与えてくださいました、そして、何のみかえりも要求されず、
無所得のままに、無限の光と愛を、私たちに供給し続けておられます。

そうであるなら、私たちも、そうした存在であるべきではないでしょうか。
そうした心を持つべく、努力精進していくべきではないでしょうか。

神からの無限の愛に感謝し、その報恩として、多くの人々を愛してゆくように、
一人でも多くの人々を、幸福にしてゆけるような、そうした存在であるべく進化発展してしてゆくことが
私たちの本来の使命ではないでしょうか。



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太陽の法 -押し寄せる愛の大河-  

太陽の法




人間として生きてゆく人生の過程において、もっとも大切なもの、いちばん輝かしいもの、
それは、やはり愛なのではないでしょうか。

私たちは、愛ということばに、その響きに、魅せられてしまいます。

愛ということばには夢があります、愛ということばには情熱があります、愛ということばにはロマンがあります。

たとえば、今日一日という日が、あなたに残されたすべての時間だとしましょう。
そして、夕べには死すべき運命であったとしても、だれかに愛をささやかれたら、
すべての人間は、幸福の微笑を浮かべて、死へと旅立ってゆくことができるでしょう。

愛なき人生とは、疲れはてながらも、砂漠を歩む旅人の人生だといえます。
しかし、愛ある人生とは、道ゆく砂漠のなかに、そのところどころに、オアシスがあり、花が咲いている人生です。

愛、それは、私たちが、その人生の途次において、もっとも価値があると思うからこそ、
もっともすばらしいと思うからこそ、もっとも光り輝いていると思うからこそ、

何とかして、いかなることをしてでも、なんとしてでも、手に入れたいと思うのではないでしょうか。

私たち、そして、全人類といってもよいと思います、そのすべての人たちが何としてでも手に入れたい、
まさしく、全身全霊をこめて手に入れたいと思っているもの、それが、愛である、こう言っても過言ではないと思います。

しかし、それを手に入れることができない、いかなる手段を講じてでも、自分のものとすることができない。
それゆえに、多くの人びとは、苦悩に陥って行くのではないでしょうか。

しかし、はたしてそうでしょうか、愛を与えられることだけが、他人からなにかをしてもらうことのみが、
そう、他人から、愛を奪い取ることのみが、本当に私たちの幸福なのでしょうか。

私たちは、ここに、その考え方を百八十度変えてみなくてはいけないのではないでしょうか。

そうです、愛の本質とは、まず、与えることなのです、この点をよくよく理解していただきたいと思います。

愛に苦しむ人びとよ、よくよく聞いてほしいのです。

なぜあなた方は、苦しむのですか。
なぜ愛において苦しむのですか、愛を与えることによって苦しむのですか。
みかえりを求めてはいけません、みかえりを求めることは、ほんとうの愛ではありません。

ほんとうの愛とは、与える愛です。
与える愛とは、すなわち、無償の愛です。

あなたが与える愛は、本来、あなたのものではないのです。
あなたの愛は、神から与えられた愛なのです。

その愛を神にかえしてゆくために、わたしたちは、ほかの人びとを愛すべきなのです。

私たちは、偉大なる神から無限の愛の供給をうけているのです。

つねに、つねに、いついかなるときも、神は、わたしたちを愛してくださっているのです。

これだけ、たくさんの、すばらしい愛を受けているのだから、それを自分ひとりのものとだけせずに、
多くの人にも、分け与えていきましょう、こうしたことを言っているわけです。

神の愛は無限です、だから私たちが愛を与えたとしても、それがなくなることはありません。

神の愛は与えれば、与えるほど、そのみかえりは神から来るようになっているのです。

神からくるみかえりとは、なんでしょう、それは、すなわち、愛を与えれば与えるほどに、
あなた自身が神近き人間になってゆくということです。

それが、神のみかえりなのです。

私たちの生命、そしてこの世界、そして、これらすべての存在は、神の念いで出来ています。

そして、神の念いが、愛そのものであるならば、この世界は、愛そのものであるといっても過言ではないのです。

肉体を去って、霊的なる目で、神の愛を見たときに、それは、おおいなる一つの大河として映ってきます。

はるかなる高次元に源を発した愛の大河が、巨大なエネルギーの川となって流れくるさまは、
まさしく壮大な景観、一大パノラマです。

愛に敵なし。
実際に、この霊的な愛の大河のパノラマを見てしまうと、
愛に敵するいかなるものもありえないことが、はっきりとわかります。

すべてを与え、すべてを押し流してゆく力だからこそ、永遠に愛にあらがいつづける悪など、この世に存在しないのです。

どうか、みなさまも、このおおいなる神の愛に感謝し、知恵をもって、勇気をもって、与える人生、すなわち、
無償の愛を人びとに与える人生を歩んでいってほしいと思います。

そうすることが、神の子人間としての、本当の幸福を手に入れることができる、悟りの道に他ならないからです。




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太陽の法  -幸福の原理-  

太陽の法



あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年一年も遅々としてではありますが、みなさんの幸福に役立てられるような記事を投稿してゆきたいと思っております。
本日は幸福の原理ということで、お話してみたいと思います。


私たちはみな、いったい何のために生きているのでしょうか。
何を目標として生きているのでしょうか。
何を生きがいとして日々生活しているのでしょうか。
みなさまは、いったい、何を目標として生きておられますか、
日々、心の底から求めておられるもの、それはいったい何でしょうか。

私たちが日々、心の底から求めているもの、
私たちがみな人生をかけて追い求めているもの、
それは、幸福というものではないでしょうか。
私たちはみな、幸福になるために生きているのである、こう言って間違いないと思うのです。
では、みなさまが日々求めている幸福とは、いったいどのようなものでしょうか。

それは、テレビに出て有名になり、みなの注目のまとになってちやほやされることでしょうか。
有名な大学に入ってその学歴を誇ることでしょうか。
超一流企業に入社して出世の階段を登り取締役や社長にまで登りつめることでしょうか。
または、自らの会社を起こし社長となって多くの人に命令することでしょうか。
そしてたくさんのお金を儲けて豪邸を建て、美しい奥さんをもらい、毎日豪華な食事をし、高級車を乗り回すことでしょうか。


それらも、一応、幸福という範疇に入るかもしれません、しかし、
真の意味での幸福というものからは、やはり、ほど遠いものと言わざるを得ないと思うのです。
私たちの本来のすがたは、肉体ではないのです、アメーバから進化してきたものでも、
猿から進化してきたものでもないのです。
肉体とは、乗り物にしかすぎないのであり、その中に宿っている心、魂こそが私たちの本来の姿であるのです。
はるかなる昔、神が人間よあれとの念いでもって創られた、
偉大なすばらしい存在が、私たち人間の真の姿であるのです。
そして神は、大いなる愛でもって、期待をもって私たち人間の魂を創造されました。
無限に幸福になっていきなさいとの念いで、大いなる愛でもって、期待をもって私たちを創られたのです。
そうであるならば、神の期待に応えられるように、神の心にそって幸福を手に入れるために、
日々、努力精進していくことが私たちにかせられた使命ではないでしょうか。

それでは、神が期待されている真の幸福とはいったい何か、
それは、私たちを創られた神がそうであるように、愛深き心の持ち主となっていくことが幸福の源ではないでしょうか。
日々、常に自らを磨き、向上させていく中において、多くの人に愛を与えられるような、多くの人を幸せにしてゆけるような、
そうしたことに、喜びを感じることができ、自らの幸福とすることができるような、
そうした人格をつくってゆくことではないでしょうか。

そうです、真の幸福とは、乗り物としての肉体人間の進歩向上ではなく、神の子人間本来の姿である心として、魂として、
日々、精神的に進歩してゆくなかにあるのです。
神仏の心にかなった自分自身の霊性、神性の向上の中にこそ、神の子として生まれた人間の本当の幸せはあるのです。
そして、どのようにすれば、自らの霊性を高めることができるか、どうしたら己の神性を向上させることができるか。
それが、私がここで紹介させていただいている書籍のなかに標されているはずです。
どうか、これら書籍を心の糧として、日々努力精進していっていただきたいと思います。
そうすることが、必ずや、みなさまの真の幸福につながっていく事であると信じております。


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太陽の法 -一念三千-  

太陽の法


心の中の思いの針は、その内容によって即座にあの世の天国・地獄に通じてしまう。
その一念三千について、天台大師が守護・指導霊から受けた通信の内容を紹介させていただきます。

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「人の心には、念いの針というものがある。この念いの針は、一日のうちで、さまざまな方向を指し示し、
揺れ動いて、とまるところを知らない。

仏門に入り、修行にあけくれている者であっても、若い美しい女性を見ては、心の針が揺れ動く。

おいしそうな食べものを見ては、心の針が動く。

念いの針、あるいは、心の針は、他人が自分より早く悟るのを見ても、揺れ動く。

師に叱られては、また針が動く。

こうして、修行者の心はやすらぐときを知らない。

しかし、人間のほんとうの悟りは、おおいなる調和とやすらぎのなかにあり、
せわしく揺れ動く心のなかにはありはしない。

天台智顕よ、汝、よく悟りて、人びとに念いの針、心の針の指し示すべき方向を明示せよ。

念いの針が、四六時中揺れ動いては、人間には、ほんとうの心のやすらぎというものはないのだ。

磁石がつねに北を指し示すように、心の針もつねに神仏の方向を指し示すべきである。

北極星がつねに北の方向を人びとに明示するように、天台大師よ、人びとをよく教導して、
神仏の念いを念いとして生きるように導きなさい。

これが真の不動心であり、真の信仰なのだ。

心とは、まさしく不思議なものだ。その念いが修羅のごとくなれば、
心は阿修羅界という地獄に通じて、いつのまにか、闘争と破壊の人生を送ってしまう。

心の針が色情の方向に固定化されると、その念いは、地獄の色情地獄に通じ、
その針を伝って、地獄の亡者どもが、生きている人間の心に土足で入り込んでくる。

その結果、生きている者は、あるいは女性に狂い、あるいは男性に狂って、
亡者どもの情欲をはらす道具となりはてる。

神仏を求めていた者の念いの針が、どこかでねじまがり、増長慢となり、天狗となると、
異説、邪説を説きはじめ、地獄の悪魔の声を如来、菩薩の声と聞きちがえ、
人びとを迷わせては、自らも無間地獄に堕ちてゆく、あわれな求道者もいる。

あるいは、念うことつねに善で、天国の善人界(五次元霊界)に心の針が通じ、
天国の先祖や友人がつねに微笑みかけている者もいる。

またある者は、人助けにつねに心を砕き、おごらず、高ぶらず、神仏の道を求めている。
その者の心は、すでに天国の菩薩界に通じ、生きながらにして菩薩の境地にある。

またある人は、神仏の正法神理を世の人びとに伝えることのみに心の針が定まり、
その教え正しく、その人となりや清く、万人が手本とするに恥じない生き方をしている。

その人の心は、すでに生きながらにして、如来界に通じ、天上界の諸如来が、つねにその人を指導している。

このように、心の針は、不思議な働きをするのだ。
天台智顔よ、汝、この神理をよく理解し、生きてゆく人びとの修行を助けよ。

天国地獄は、死んでからあの世にあるのではない。天国地獄はこの世にあり。
この心にあり。人の念いの針は、すなわち、これ一念三千、あの世の天国地獄に、即座に通じてしまうのだ。

この真実を知ったならば、人びとは日々止観し、心を静め、自らの人生をふりかえり、
自らの一日をふりかえり、その心と行ないを正してゆくにちがいない。

天台大師よ、八正道は、まさしくこの一念三千論を基礎として生まれたのである。

天国地獄があの世に還ってからではなく、この世に生きている人間の心のなかにあるからこそ、
この世で生きたときの心が、そのまま、あの世での生き方を決めるからこそ、

人間は、八正道を人生の基本として生きねばならないのである。

八正道とは、すなわち、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく仕事をなし、
正しく生活をし、正しく道に精進し、正しく念じ、正しく定に入るべし。

この八つの道をきわめてこそ、人間ははじめて、己れの心を正しくたもち、
人間としての完成を見るのである。

天台大師よ、この八つの道を基本として、自らの心と行ないを正し、
真実の一念三千論を世にひろめなさい。

それが汝にとっての悟りであり、
世の人びとにとっての悟りでもあるのだ。


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category: 一念三千

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太陽の法 -与える愛- 1  

太陽の法



今回は愛の本質について紹介させていただきます。

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愛は最大の力であり、愛には敵なしなのです。

そこで、私は、愛が無敵であることについて、お話したいと思います。

人間は、生きてゆく過程において、さまざまな困難にぶつかります。
つまり、そうしたなかで、魂の修行をしていくわけです。

これは、あらかじめ計画されていることです。

困難とは、どういうものでしょうか。すなわち、病気があり、貧困があり、挫折がある。
失恋があり、事業の失敗があり、友人との離反があり、愛する者との離れがある。

きらいな人の出会いもあります。さらには、年を取り、醜くなり、体が不自由となり、
やがては死んでゆくのです。

こうした現象を現象とだけ見れば、人生とは、苦悩と悲しみに満ち満ちているものかもしれません。

しかし、苦悩には苦悩の意味があり、悲しみには悲しみの意味があるのです。

つまり、苦悩や苦しみがあるということは、私たち人間に、選択をせまっているのです。

選択とは、なにか。つまり、私たちのひとりひとりが、与える側の人生を選ぶか、与えられる側の人生を選ぶか。
その選択です。

愛の本質とは、やはり与えることなのです。

愛とは、神が人間に与えてくださったものを、自分ひとりのものとだけしておかずに、
人にわけ与えるということなのです。

神の愛は無限です。ですから、私たち人間が、その愛をいくら与えても与えても、
つきることはありません。

神は、私たちに、愛を供給してくださっているのです。

愛の本質とは、まず、与えることなのです。

この点を、よく理解していただきたいと思います。

愛に苦しむ人びとよ、よく聞きなさい。なぜあなた方は、苦しむのですか。

なぜ愛において苦しむのですか。愛を与えることによって苦しむのですか。

みかえりを求めてはいけません。

みかえりを求めることは、ほんとうの愛ではありません。

ほんとうの愛とは、与える愛です。

与える愛とは、すなわち、無償の愛です。

あなたが与える愛は、本来、あなたのものではないのです。

あなたの愛は、神から与えられた愛なのです。

その愛を神にかえしてゆくために、私たちは、ほかの人びとを愛すべきなのです。




category: 与える愛

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